屋島寺の太三郎狸と

 47日目、結願まで残り5カ寺、3日。前夜の天気予報が外れ、またも雨。高松最高気温8・6度、箱根は雪……完全に異常低温。
 7時朝食。前日、一宮寺の境内で会った老夫婦と話す。金婚式記念に二人で車遍路中とか。
 今日は、84番屋島寺(標高284m、高松市屋島東町)85番八栗寺(標高230m、同市牟礼町)86番志度寺(さぬき市志度)をめぐり、志度寺近くのいせだ旅館泊。距離的には21キロ強だが、ほとんど海抜0mから屋島に登り、また0mまで下りて八栗山に登らなければならない。ぼくの太股の痛みとバネ指、女房の外反母趾に起因する足の痛みは好転する気配は微塵もないが、ここまで来ればもう這ってでも前に進むしかない。気力あるのみ。
 7時40分発。屋島寺は残り1・5キロが捨身ケ嶽に次ぐ厳しい急坂。コンクリ道と石畳で一気に登る。帰路は源平古戦場側の檀の浦に更に急勾配の遍路道を下りる。登り始めに、一昨日国分寺であった老遍路が下って来るのに出会う。檀の浦に下りる方が八栗寺への距離は短いが、「昨日からの雨で滑りやすく危険」と地元の人から忠告され、登りと同じコースを戻って来たという。
 雨にぬれた石畳はまだ新しく、表面にわざと細かく凹凸をつけ滑り止め加工を施してある。ここも捨身ケ嶽と同じく地元の人たちが健康づくりに登っており多数参拝者の表示がしてあった。ただし回数はまだまだ捨身ケ嶽に遠く及ばない。近年はじまった運動のようだ。傘を差して下って来る女性3人連れに挨拶。やはり参拝後、反対側に下りるのは危険と言う。八栗寺の上りも急だけどここよりは楽との情報も頂いた。
 屋島寺は総門、更に珍しい四天王門があり、御本尊千手観音、本堂は重文。源平合戦ゆかりの遺物を多く所蔵する宝物館もさすがに立派。本堂、大師堂にお参りした後、お大師さんが屋島で道に迷った時に案内したという『日本三名狸』の一匹、太三郎狸を祀る蓑山大明神にもお参り。因みに残る二匹は佐渡の団三郎狸と淡路の芝右衛門狸とか。朱塗りの鳥居を並べた参道の両脇に、太三郎狸と子狸を抱いた女房狸の石像があるのがご愛嬌である。
 境内にいるうち雨は一層強くなり、地元の方の忠告に従い同じコースで下山。牟礼北小学校近くのお好み焼き屋で昼食。八栗寺はケーブルカーと並行して斜度21%の急坂を登る。3時10分、道の駅源平の里着。
 休憩していると中年男性遍路が現れる。東京の人、今回4回目。足が痛いという。大詰めになると皆さん何がしかの故障が出るようだ。初回、2回は宿につけるか不安ばかりで必死で歩き、道中もお寺もほとんど覚えていない。ちょっとペースが落ちただけで実際よりも物凄く落ちた感覚になって焦ってしまう。奧さんに今回はゆっくり回ったらとアドバイスを受けそうしている。これでお遍路は終わりにするつもりとか。
 ぼくらは先に出発。雨足は更に激しくなる。志度町に入り8年ぶりに平賀源内生家の銅像にご挨拶。あの時は写真を撮っていたら偶然、源内家の当代さんが現れ早とちり源内の面白いエピソードを教えて頂いた。
 4時2分、志度寺着。納経を済ませたところにミスター53と小柄なおじさんが一緒に現れる。小柄なおじさんはうどん屋にリュックを預け捨身ケ嶽に登ろうとしたところにミスターが到着。「キツイよ」と言われ今回も断念したのだと。
  納経所の中にはもう一人ミスター53と旧知の方がいた。76番金倉寺の門前でうどん屋を経営しており、暇を見つけては札所を回っている四国霊場会公認先達・宮本武彦さん、当然錦札の人。ミスターの紹介で錦札をありがたく頂戴した。
 外はざざぶり。地図帳を広げるのは難しく、またまたミスター53にいせだ旅館の場所を教えて頂き、4時38分、志度寺を後にする。
  3月10日、室戸街道のゴロゴロ休憩所で出会って以来、どれほどアドバイスを頂いたことか。ぼくらにとって本当に幾ら感謝しても感謝し足りない先達さん。雨の志度寺が最後の別れになった。ありがとう、ミスター53。  (西田久光)

園芸用品店の間を行く…これも遍路道

46日目、雨。香川県は平地でも7度。異常低温が話題に。かんぽの宿から1キロ弱で81番白峯寺(標高280m、坂出市青海町)、440mの足尾大明神を経て82番根香寺(365m、高松市中山町)。再び400mに上がってから長々と下って、12キロ先の83番一宮寺(高松市一宮町)に参り高松中心部のビジネスホテル泊。24キロの道程。
 7時25分発。前夜、温泉にじっくりつかりながら太股やバネ指の患部をマッサージしたりストレッチしたりしてみたが、具合は相変わらず。不安を抱えたままのお遍路だ。
  白峯寺は、縁起ではお大師さんと智証大師円珍の開基とされるが、崇徳天皇の陵の隣に慰霊のため建てられた頓証寺が現在の白峯寺の原型と言われる。
 思いやれ都はるかにおきつ波 立ちへだてたるこころぼそさを
 (崇徳天皇御製)
 平安末期、武家、源平台頭の契機のひとつとなった保元の乱(1156年)の後、讃岐国に配流され、8年後、悲嘆のうちに46歳で崩御した悲劇の天皇。
 早朝、しかも氷雨そぼ降る中とあってか、境内は森閑としていた。既にお参りを終えた法螺貝さんと言葉を交わす。本堂・大師堂にお参りし、人気なく凛として厳粛な雰囲気に包まれた陵にも頭を垂れる。納経所で女房と柑橘1個ずつのお接待をいただいた。
 7時58分、白峯寺発。根香寺までは遍路道3・4キロに車道1・6キロの計5キロ。前日、ミスター53が指摘した通り遍路道はかなりぬかるんで滑りやすく、今朝からの雨で更にひどくなった様子。気温も一向に上がる気配はなく、それどころか県道に合流する頃には雨が霙に変わった。
  9時25分、足尾大明神で休憩。例祭の後か準備なのか、お堂には色とりどりの鮮やかな千羽鶴や花がいっぱい供えられ、広い軒下には椅子が並らんでいた。合羽姿のままその椅子に座らせて頂く。お参りしお礼に賽銭をあげさせて頂いた。
  煙草を1本くゆらせている間にもしんしんと冷えてくる。霙が湿気を含んだ大粒の雪に変わった。足尾大明神の標高は440mとは言え、今日はもう4月も半ば15日である。信じられない光景だった。お大師さんから与えられた最後の試練か。とてもじっとはしておれない。3月7日の21番太龍寺以来の非常事態。一刻も早く根香寺を打ち終え下山しなくては……。雪の降りしきるなか進む。じき自販機を見つけホット・カフェオレを買って暖を取りながら急いで歩く。
  10時、根香寺に着く頃には雪は再び霙に変わる。山門をくぐるといったん石段を下りて広場を進み、再び石段を上がって本堂へ。ところが正面の本堂にはそのまま真っ直ぐ行けず、長野の善光寺の戒壇くぐりにも似た上下左右まったく窓のない暗い回廊を大回りしてたどりつく仕組み。お遍路では実にいろんなお寺が体験できる。
  10時23分、霙のなか下山開始。しばらく行くと県道の元来た白峯寺方面と鬼無・一宮寺方面の分岐点に法螺貝さんが立っていた。根香寺の境内にいた娘遍路が道を間違えるといけないので待っているという。確かにちょっと分かりにくい。ぼくらはお先に失礼させて頂くことにした。100mほど下ると霙は雨になり、更に九十九折りの県道を遍路道で短絡する頃には寒さが和らいでやれやれ。
 高松市鬼無町の家並みに下り、12時7分、駐車場の壁面に大書された山頭火の『あるがまま雑草として芽をふく』の句に惹かれ、民芸調の囲炉裏空間・善に入る。合羽を脱ぎカウンターで女房はうどん、ぼくは焼き飯。更に肉じゃが、タケノコ。ママから珍しい養殖タニシの串をお接待。1時間休ませて頂いて体がすっかり暖まり元気回復。外に出ると雨が上がっていた。
 ここまでが5キロ、一宮寺まではまだ7キロ。じき3年前から区切り打ちという大阪の中年女性と同行。しゃべりながら歩いているうちにどうも想定していたルートと違う遠回りのルートに入ってしまったらしく住宅地の間を何度も何度も細かく曲がりウンザリ。一宮寺に着いた時は3時を回っていた。 
      (西田久光)

地元の方のお陰で伝説の霊場へ

 44日目、晴れのち曇り。今日は道順の関係でまず73番出釈迦寺(吉原町)そして奥の院・捨身ケ嶽禅定を往復し72番曼荼羅寺(同)74番甲山寺(弘田町)75番善通寺(善通寺町)76番金倉寺(金蔵寺町)と善通寺市の5札所、更に多度津町の77番道隆寺、計6札所と1奥の院をめぐり丸亀市の丸亀プラザホテル泊……22キロと距離は短いが、お寺の数が多いので時間的には結構厳しい。
 7時半、出発。山越えの遍路道は水が涌いてジュクジュク。続いて霧が漂う幻想的な竹林を進む。歩いている最中は太股の疼きは感じないのだが、今度はお杖を握る左手の親指、更に右手の中指にバネ指の症状が出だした。一昨年、右手腱鞘炎、昨年は右手親指がバネ指。長年ワープロの文字キーを叩き続けてきた蓄積疲労から故障が続発した。職業病のようなものだが、その上に歩き遍路でお杖頼みの指の酷使がたたって両手ほぼ同時に故障。太股の異変と言い、肉体的に限界が近づきつつあるのを感じる。後1週間、何とか持ってほしいと祈るばかりだ。
 8時33分、出釈迦寺着。見上げれば捨身ケ嶽禅定は指呼の間にそそりたつ山の上にあった。お大師さん7歳の時、仏法による衆生済度の願を立て、それが成就するや否やの証を求めて我が身を断崖から投じ天女に抱き止められたという伝説の霊場。距離1・4キロ弱で標高差255mを登る。足に不安があるがここまで来たらやっぱり登りたい。
 お参りを済ませたところにミスター53とも縁のある小柄なおじさんが到着。下のうどん屋にいったん戻りリュックを預けてから奥の院をめざすという。ぼくらにも勧めたが、時間がもったいないので背負ったまま登ることにした。
 本堂の脇の階段を登り緩やかな車道に出て、更に数百m進む。そこからは斜度が30度もありそうな強烈なコンクリ道が立ちはだかっていた。道幅いっぱいを使い一歩一歩ジグザグ歩行。百mほど登ったあたりで、驚いたことにぼくより遥かに年配の男性に追いつかれた。「慌てずゆっくり登れば大丈夫」と励まされる。息も乱さず悠揚とした足の運び。凄い。おじさんはぼくの歩みに合わせつつ、群生するヤマブキ、シーボルトゆかりの紫陽花の原種など、捨身ケ嶽の特異な植生を解説してくれた。一番きつい所を登り切って振り向けば、女房は50mほど遅れて必死で登ってくる。
  40分でお堂に着いた。鐘をつき、お参りを済ませたら「お堂の裏の崖の上が実際に身を投げた所。案内するから登りましょう」と。上は風があり危険とリュック、菅笠を置き崖の下へ。尻込みする女房に「ぼくが手の位置、足をかける位置を指示するから、その通りにやったら大丈夫。これまでここで怪我した人は一人もいない」。ぼくは高所恐怖症。崖っぷちは吸い込まれそうで思っただけで身も心も不安定になるのだが、なぜか岩場登りは平気である。先導のお陰でお堂の屋根よりはるかに高い断崖の『捨身誓願之聖地』に夫婦で立たせて頂いた。海まで見渡せ眺望は素晴らしい。
 記念写真も撮って頂いてから岩場を下りる。ほっと一息つくぼくらをよそに、おじさんはさっさと下山していった。お堂の横の掲示板には徒歩最多参拝者の名前がずらり。一万八千回一名、七千回二名、四千回二名……等々。千回に達するとお寺が石標を建ててくれるのだとか。出釈迦寺に下山してから今日の参拝登山目標は5回という中年男性から、ぼくらがガイドして頂いた方は二千五百回を超えていると知らされた。
 小柄なおじさんは結局今回も断念したのか、奥の院に姿を見せなかった。
 奥の院の納経も出釈迦寺で行う。当番のお姉さんからタオルのお接待。ところが曼荼羅寺を終え、甲山寺の納経所で夫婦二冊のうち一冊の納経帳に出釈迦寺の朱印が抜けているのを指摘された。歩いて戻る気力はなくタクシーを呼んで出釈迦寺と甲山寺を往復した。
 お大師さんの生誕地と言う善通寺の大師堂はさすがに立派。金倉寺を過ぎたあたりからは風が強まり、しかも向きがくるくる変わって歩きにくかったが、四国旅行ですっかり馴染みの讃岐富士を遠望し讃岐を歩いていることを実感。道隆寺を終え、6時前、ホテル手前のコンビニで女房が中年女性から現金二千円のお接待を頂いた。(西田久光)

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