59番国分寺門前(背後が唐子山城跡)

  37日目、曇りのち晴れ。前日に続き暑い日になったが、あのバテバテが嘘のように体シャッキリ、もうどうということはない。人間の適応力はすごい。たった一日で暑さになれてしまった。これもお大師さんの御利益だろう、還暦にして歩き遍路で生命力がアップしたようだ。
 7時半、今治国際ホテルをタクシーで出発。10分ほどで泰山寺門前着。今日の予定は57番栄福寺(玉川町八幡)58番仙遊寺(玉川町別所)59番国分寺(国分)と今治市内の札所を打ち終え、西条市桑村の遍路宿、ビジハウス・イン国安までの約23キロ。
 ぼくらと同じように、今朝は56番門前から打ち始めるという名古屋の65歳の人としばらく一緒に歩く。1回目は例によって室戸岬の手前でギブアップ、2回目は5日でダウンしたが、その後は順調。今回は今日で2日目、結願までやるつもりと言う。足早のうえ大股で、ノッシノッシとブルドーザーのごとし。とてもついてはいけず、じきに置いていかれた。続いて後ろからやってきたのは競歩の速歩スタイルの人。アッと言う間に追い越された。いやはや、いろんな歩き遍路がいるもんだ。
 田舎の古い住宅街を抜け8時半、栄福寺着。境内はさほど広くないのだが、限られた敷地の中に本堂や大師堂などがこじんまりとまとめられ、かと言って整然としすぎず、いるだけで何だか気持ちが良くなってくるお寺。納経所のおばあさんもすごく穏やかな表情、物腰。このお寺にいるべくしている、そんな感じだ。
 栄福寺を出てじき地道の遍路道に入る。急な山道を登り溜池の縁を回って更に登ると車道に。これがまた急坂で、合流地点から山門まで標高差120mを距離500mほどで上がる。漸く山門をくぐると今度は遍路転がし級の急な石段で一気に45mも登る。仙遊寺は標高255m。今治に入ってから平地のお寺が続いてきたせいか、結構きつい。栄福寺から仙遊寺まではわずか2・4キロだが1時間もかかった。上の境内に着いた時には汗びっしょり。ここの宿坊は温泉付きで歩き遍路に大好評。一風呂浴びたい気分だった。
 10時20分、仙遊寺発。途中スーパーでサンドイッチを調達。12時10分、国分寺門前着。土産物屋の前を通りかかると店のお兄ちゃんに呼び止められタオルハンカチのお接待。その上、国分寺の山号を刻んだ石柱を入れて夫婦一緒のところをカメラに収めてくれた。後で宿に入ってから気づいたのだが、この時撮ってもらった写真の背景に写っていた小山が、藤堂高虎が海岸部に今治城を築き新たな城下町を開くまで、この地方を治めた武将たちが拠点とした唐子山城(国分山城)跡だった。お兄ちゃんのお接待に感謝感謝である。
 お参り、納経を済ませ、小さな門の前にあった縁台をお借りして昼食。靴下を脱ぎ蒸れた足を天日乾し。春うらら、今まさに盛りを過ぎんとする満開の桜の花びらがはらはらと舞い、春風が渡れば桜吹雪の絢爛絵巻。音はと言えば、近くに鉄路があるのか時折り列車が通り過ぎるばかり。なんとものどかな田舎の昼下がり、のたりのたりと心地よい時が流れてゆく。綿菓子に包まれたような甘美な寡音の世界。連日この四国を歩き続けていることすらすっかり忘れてしまいそうな幸せ気分に満たされた。
 3時15分、今治・西条の市境を越える。日切大師の近くで女房が地元のおばあさんから呼び止められ、手作りのフクロウの根付を10個とアメのお接待を頂く。フクロウは不苦労、『苦労のないように』というお守りなのだと初めて知った。
 4時43分、ビジハウス・イン国安着。東京から来たという同世代の初遍路男性と同宿。3月8日に開始、1日35キロペースと初めてにしては強行軍。この人も高所恐怖症で浦戸大橋と四万十大橋は怖かった、岩屋寺の梯子はパスしたとか。
  部屋に国安関係のスクラップ帳。頁をめくりツルネン・マルティさんの記事が眼に止まる。フィンランド出身のキリスト教宣教師。国会議員としてこの国の文化を深く知りたいと3年がかりの区切り打ちをしているとあった。(西田久光)

大谷霊園を行く(前方に今治国際ホテル)

 36日目、曇りのち晴れ。いったん大西から菊間に戻り、今治市内の54番延命寺(阿方)55番南光坊(別宮町)56番泰山寺(小泉)57番栄福寺(玉川町八幡)と4カ寺をお参りし、タクシーで今治築城開町400年の2004年に開かれた第4回『高虎サミット』で泊まったことのある今治国際ホテルに移動。歩行距離は24キロで平均ペースの無理のない計画だったのだが、思わぬ敵が潜んでいた。
 6時半、3月半ばにやっと新来島ドックに就職が決まり社員研修に来たという女子大生に車遍路の人たち、5人で一緒に食事。駅は目の前。女将に荷物を預けたら、菊間から戻って来たとき留守にしているかもしれないのでと保管場所を教えられ、別れ際には今治特産のシルク入りタオルハンカチをお接待で頂いた。
 6時49分発、7時5分菊間駅着。お参り用具もなく完全に身ひとつで海岸線を歩く。曇り空で少し肌寒いが体は軽い。沿道には屋根や門の上に鬼瓦など火魔除けや招福の瓦製細工物を載せた家が目立つ。中には屋根のてっぺんは元より軒という軒の端々にシャチホコを載せ、ざっと数えたところ14個。通りから見えない部分も入れると20個は超えているだろう。お城だってこんなにはない。これがここのステータスか……さすが瓦文化の地域だ。
  9時39分、ホテルニュースガノヤ着。女将はやはり留守だった。リュックを取り出し背負ったらズシリと重い。「女将さん鉄板1枚入れたの!」久しぶりに出ました女房の『なげきの鉄板節』。気を取り直して延命寺をめざす。
 10時頃から雲は完全に消え晴天。10時40分、延命寺着。11時8分発。次の南光坊への遍路道の道標が大きく目立ちありがたい。墓地公園か、広い大谷霊園の坂を下る。墓地のあちこちに植えられたソメイヨシノが満開。その遥か向こうに見覚えのある塔のような今治国際ホテルが聳えていた。
 12時10分、南光坊着。本堂が修理中で大師堂が仮本堂を兼ねていた。納経所で瓦2枚寄進。係の男性と話す。藤堂高虎知ってます?「知ってるよ。築城の名手だよ」彼を主人公にした大河ドラマ誘致運動をやってるんだけど。「そう、それは知らんなぁ。でも高虎なら今治も出るし、なったらいいねぇ」と。
  12時37分発。駅前で昼食をとることにして市街地を歩くが、この頃から気温がグングン急上昇。もう20度を超えているかも。今日は4月5日、あっても不思議ではないが、奈良のお水取が終わっても異常低温で真冬並の寒さが続く毎日だっただけに体が全くついてこない。風邪でも引いたようにだるく、重い。女房ではないが全身に鉄板か鉛を仕込まれたかのようだ。
 駅前の小さな食堂で昼の休憩をとったが、一向に回復しない。南光坊から泰山寺まではわずか3キロしか離れていない。いつものペースなら45分の距離だが、食堂から1キロほどのサティでまたも休憩。ソフトクリームを食べて体を冷し、20分も休む。
  2時49分、もうぐったりヨレヨレで、城壁のような見事な石垣に囲まれた泰山寺着。どうにか勤行、納経を済ませると全身の力が抜けて、夫婦共々もう歩く元気なし。栄福寺までは3・1キロしかなく時間的にも十分ゆとりがあるが、とてもそんな気力はない。予定変更、今日はここで打ち止めにしタクシーで国際ホテルに向かうことにした。
 このていたらくはぼくら夫婦だけかと思ったら、境内で出会った中年男性遍路も手水場で水をがぶ飲み。「急に暑くなってバテてしまった。まだ3時を少し回ったところだけど、駅前に戻ってどこかビジネスホテルをさがす」と。駅前までは2キロはある。歩いて戻ろうというだけでも凄い。
 15時30分、今治国際ホテル着。入口には文化勲章彫刻家・中村晋也(三重県出身)の美神が二頭立ての馬車で疾走する躍動感あふれる作品。客室は広くバスもゆったり。別途シャワールームがあり、温泉露天風呂もある。さすが我が国造船界の雄、今治造船が海外から商談に訪れる人たちをもてなすために建てたシティホテル。バテバテの体には極楽だった。(西田久光)

瓦のまち菊間の巨大鬼瓦レリーフ

 35日目、晴れ。朝の内は冷えるが昼は最高18度の予報。今日は三津浜駅から52番太山寺(太山寺町)53番圓明寺(和気町)で松山市内の札所を打ち終え今治市に入る約28キロの行程。6日ぶりの長距離歩行。
 実は松山の外れで泊まる予定が満杯で断られ、1キロほど離れた宿に変えようとしたらここは廃業。近くのもう1軒は休業中……これでは満員になるはずだ。どうにか取れた宿は40キロ近くも先のJR予讃線大西駅前のビジスネ・ホテルニュースガノヤ。ぼくらの足ではとても無理なので10キロ手前の菊間駅で電車に乗り、翌朝また菊間駅に戻ることにした。「先日もそういう人がいた。朝6時49分発の電車で菊間に戻ると良い。荷物はうちで預かってあげるから」と女将さん。
 6時53分、三津浜駅を出発。2キロほど進んだところで石鎚山を信仰しているというおばさんから柑橘のお接待を頂く。太山寺は標高75mの小高い山の上。一ノ門をくぐり350mで仁王門(重文)更に550mでようやく本堂(国宝)にたどりつく。鎌倉時代の入母屋造り。屋根の両翼がゆるやかな弧を描き、軒で少し反り上がる。どっしりとした大鳥が翼を広げたような威風に、気を引き締めて勤行をあげた。
 次の圓明寺までは2・6キロ。8時56分着。大師堂の左手奧にマリア観音とおぼしき像が刻まれたキリシタン灯籠があった。なぜこの寺にあるのか文献も伝承もなく不明とか。9時25分発。県道347号を1時間少々、堀江町の出はずれで久々に海。瀬戸内の海岸線を歩く。11時5分、光洋台の大師堂で休憩。
 お堂前の遍路小屋には先客がいた。30前後の青年。地元の人?テーブルの上に就職情報誌を広げていた。三重県から来たと告げると懐かしそうに隣の愛知で車関係の会社で派遣で働いていたという。例の派遣切りにあったの?実はリーマンショックは発生の半年前には予測され、それに備えて中間管理職として正社員になるか辞めるかの選択を迫られた。自分の性格は管理職には向かないので潮時と帰郷した。松山はサービス業の町、隣の今治は造船の町。車溶接で培った技術が活かせると思ってチャレンジしたが、自動車と造船では扱う鉄板の厚さが違い全く別の世界と知らされた。何とか自分の技術を活かせる仕事はないか、せめて何か製造業の口がないか、求人誌で探しているのだと。
 職がないのはつらい。ぼくらは何の力にもなれず、ただただ話を聞き、時々相槌を打つばかり。「大変だと思うけど諦めずに頑張って」と言う他なかったが、「そちらも結願まで頑張って下さい」と励まされた。
 12時前、コンビニで弁当を買い外に出たところで古市さんから電話。今、松山だけどこれから今治城に向かうのでお昼を一緒にと。2キロほど先の西ノ下大師堂で合流し桜満開の河野川河川敷で急遽花見会。奧さんからまたも抹茶、桜餅を頂く。一行は宇和島城・大洲城は予定通りいったが、松山城はイベント開催中で車が駐められず断念。山本さんは岩屋寺の『遍路転がし』に足がパンパン、古市夫婦は山登りが趣味だけに平気の様子。酒抜きコンビニ弁当の花見だが、うらうらと温かい陽差しの下で気持ちの良い一刻を過ごす。
 1時間半の大休憩をへて2時前出発。2時58分、番外の鎌大師にお参りして80mの峠越え。坂下の浅海町を通り市境を越えて今治入り。春霞に煙る海原の向こうには島々が連なりうっすらと浮かんでいる。この辺りまで来ると行き交う船の数が一気に増えてきた。
 5時前、瓦屋が軒を連ねる菊間に入る。祠の中に年代物の鬼瓦が祀ってあり。更に行くと横4m、高さ5mほどの巨大な鬼瓦のレリーフ。さすが瓦の町だ。瓦屋街の一角に休憩所があった。中にいたおじいさんから焼き物のお守り『無事カエル』のお接待。瓦屋は10数軒あるが稼働しているのはわずか3軒。「不景気なのと瓦のいる家を建てる人が少なくなった」と嘆く。
 5時20分、菊間駅着。堂々たる瓦屋根の駅舎。ところが時刻表を見たら次の列車は6時22分までない。日が暮れて寒くなりとても1時間も待てない。結局タクシーを呼んだ。 (西田久光)

[ 5 / 13 ページ ]« First...34567...10...Last »