山本さん(左)と古市さん一家…三津浜駅にて

 一草庵から三津浜駅までは6キロくらいか。歩き始めてすぐ、ぼくが監事を務めさせて頂いている『みえ歴史街道構想津地域推進協議会』の事務局(三重県津県民センター内)担当者(当時)・山本晃さんから朝に続いて今日2回目の電話。このところ殆ど毎日のように電話があり、現在地を確認。お遍路に出る前に聞いていたが、ぼくら夫婦の進行状況をパソコンに記録しているらしい。今日の後の予定を教える。
 同じ県都でも津市と違って松山のような人口50万人もある大きな都市の市街地の道は分かりにくい。三津浜駅への道が合ってるのかどうか自信がなく、交差点の手前で立ち止まり地図帳を広げて女房と確認。すると、たちまち右から左から次々と人が寄ってきた。中年、熟年取り合わせ男性が3人。「道に迷ったのか?どこへ向かうの?」と尋ね一斉に地図帳を覗き込む。一人が「ちょっと貸して」とぼくの手から地図帳を受け取ると3人で首っ引き。
 男性たちは互いに知り合いではなく、それぞれ全くの通りすがりのよう。「三津浜駅ならこの道が」「いやいやこっちの方が判りやすいよ」と路上でのにわか井戸端会議の末に、このルートが最適と道順を教え、別れ際には「がんばって」と激励してくれた。
 松山の人たちのこの親切は一体なんなんや……ぼくら夫婦は驚き、そして感激せずにはおれなかった。
 4時15分、三津浜駅の裏口まで数十m。またも携帯に着信。今度は山本さんと同じく歴史街道仲間の津市芸濃町在住の近鉄イベントサービスOB・古市悦雄さんから。芸濃地区に歴史観光ボランティアガイドグループを立ち上げようと一生懸命動いてくれている人。お遍路に出てから初めて頂く電話だった。久々の会話を交わしながら線路をまたぐ跨線橋を渡る。下り階段はそのまま駅のホームに続き松山駅までの切符を買おうと駅舎改札口に進む。そこに立っていたのは山本晃さん、古市さん、古市さんの奧さん、それに抹茶とお菓子を載せたお盆を手にした娘さんの4人。
 何というサプライズ!山本さんが頻繁に電話してきた理由がやっと判った。
 前日から津を出て車を走らせてきたという。宇和島城、大洲城を見て、恐らく今日はぼくらは45番札所の岩屋寺あたりと予測し、そこで待ち受けるマルヒ計画で国民宿舎古岩屋荘に宿を取ったとか。「歩くのがこんなに速いとは思わなかった」。正岡子規記念館と一草庵で合わせて2時間半ほど道草をくったことを説明する。「それが良かった。道草しなかったらこの駅で待ち伏せできなかった」と山本さん。先に切符を買ってから、待合室で古市さんの奧さんが点ててくれた抹茶をゆっくりと頂く。こんなにも美味しいお茶は生まれて初めてだった。名残惜しかったが、37分発の電車に乗り手を振って別れた。
  5時、ビジネスホテル・モンブラン着。今日はお接待の連続、道案内まで入れると6連発。しかも中身は超弩級。信じられないような一日……嬉しくて女房と今日の夕食は奮発してリッチにいこうと目論んだが、あにはからんや松山駅はJR駅より少し離れた私鉄駅前の方が繁華街らしく、JR駅前は閑散としてこれといった目ぼしい店がない。道後界隈の賑わいぶりから駅前はさぞやと期待していたのに全くの当て外れ。
 日が落ちてまたも冷え込み、冬に逆戻り。寒さにふるえながら駅周辺をさまよい、人に聞きながら数百m歩いてコンビニを探し、取り敢えず明日の朝食分を調達。その帰り、ようやく古びたお好み焼き屋を見つけて夕食にした。安くついたが、こんなトビッキリの日には物足りず残念。
 夜、ホテルで一風呂浴びてから大学ノートに旅日誌をつける。繁多寺すぎで軽自動車の女性から頂いた小袋を開けて中身を再確認。傷バンは4枚綴りだった。何気なく裏を見る。そこにボールペンで書かれたメッセージ。
 『お疲れ様です。道中どうぞお気をつけて、無事結願できますように。がんばって下さい!!』
 文末には、かわいい豚の笑顔のイラストが添えてあった。   (西田久光)

墓地を行く…これも遍路道

  34日目、晴れだが、4月だというのに今日も朝は冷え込み吐く息が白い。6時55分、予約しておいたタクシーに乗り西林寺門前へ。そこから49番浄土寺(鷹子町)50番繁多寺(畑寺町)51番石手寺(石手)と松山市内の3寺参りの後、道後温泉を抜けてJR三津浜駅まで歩き、電車で松山駅に行き駅前のビジネスホテルに泊まる。歩行距離は20キロとゆとりを持たせ、前回松山を訪れたとき覗けなかった正岡子規記念館、それに漂白の俳人・種田山頭火終焉の地『一草庵』に寄る計画。
 7時5分西林寺発。市街地を歩き始めて10分もしないうちに沿道の無人販売所へ農産物を置きに来ていたおばちゃんから大きな柑橘が6個も入ったビニール袋ごとお接待。ありがたいがズシリと重く、顔で笑って心で泣いて納め札を渡す。
 古い団地の間を通り7時49分、浄土寺着。今日最初の巡拝勤行をあげる。8時18分、遍路道の表示に従いお寺の脇の墓地の間を通り更にレモン畑を横に見て8時42分、繁多寺着。ここで浄土寺でも一緒になった車遍路の親子連れに柑橘4個を『お接待分け』でもらって頂いた。
 繁多寺の門前には、露店のアイスクリーム屋があった。お参りを済ませた頃から漸く上がり始めた気温に食い気を誘われ一つ買う。門前に店を出して16年、気の良いおっちゃんはアイス1個に対して二人分と乳酸飲料を2本もお接待。これじゃ商売にならないと思うのだが、ニコニコして誰かの歩き遍路体験本を開いて見せ「ここにわしのことが出ている」と自慢げだ。
 今日2枚目のお礼の納め札を渡し、しばらく進むと前からきた軽自動車が急に停まり中から三、四十代の小柄な女性が降りてきた。「お接待させて下さい」と言ってビニールの小袋をぼくらに一つずつ渡すや、納め札を渡す間もなく「お気をつけて!」と急いで車に戻り走り去る。出勤途中なのだろう。
 小袋の中身を見る。女房のものとぼくのものとは若干異なっていたが、塩分やビタミンC、糖分など歩き遍路の健康に心を配った4種類のキャラメルに、数枚の傷バンがそれぞれセットされていた。
 こんな詰め合わせが市販されているとは到底思えない。恐らくスーパーかドラッグストアで買ってきたものを、夜、家でいったんバラにして自分で組み合わせを考え小袋に詰め直し、いつも何セットか車のダッシュボードに入れておき、その日出会った歩き遍路にお接待しているに違いない。お接待で陰徳を積むというが、ここまでやるか?何という人だ……。
 衛門三郎転生伝説の地、51番石手寺は松山屈指の名刹か、山門をくぐると参道は屋根付きの土産物屋通りに続き、ちょっと小ぶりの東京の浅草寺風。境内は土曜日ということもあり、赤ちゃんを抱いた宮参りの若い家族連れなど地元の参拝者から観光客、お遍路で大賑わいだった。本堂に上がる石段踊り場には2mを超す巨大な五鈷杵。三重塔、仁王門は重文。お堂の数がやたら多い。
 遍路道は境内の端から石段、地道で標高95mの裏山を越え、心地よい竹林の間を下りて、車道を進み道後温泉に至る。芸予諸島の水軍を束ねた伊予中世の雄、河野氏の居城湯築城址公園は桜満開。花見客でごった返し状態。向かいの正岡子規記念館はやたら『坂の上の雲』のポスターが目立っていたが空いていた。おかげで1時間10分もかけゆっくり観ることができた。
  この後、道後本館の前を通り観光客でいっぱいの道後商店街のレストランでお昼にオムカレーと名物の坊ちゃん団子を食べる。ここまで既に3度、松山の人のお接待に感激のあまり前回松山を訪れた時に世話になり、今は横浜に暮らす松崎美由紀さんに電話。相変わらず元気そうだ。
 商店街を後にして通りから少し脇道に入り1時50分一草庵着。展示施設は小さかったが真新しくきれいなトイレ付き。ボランティアガイドのおじさんが熱心に説明してくれた。更に「山頭火がこの地で亡くなるまで世話をされた高橋さんの息子さんが、ちょうどいま来ていますから話をされては」と隣の一草庵に案内され、縁側に腰を下ろして4人で談笑。気がつけばいつしか時計は3時。別れぎわ高橋さんからアメのお接待を頂いた。 (西田久光)

朝霧に包まれた三坂峠なべ割坂

   33日目、今日は三坂峠を越え愛媛の県都松山市に入り、浄瑠璃町の46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、高井町の48番西林寺の3カ寺参り。宿は浄瑠璃寺前の長珍屋で西林寺からタクシーで戻る予定。行程は21・2キロ。
 6時55分、あの美味しい雉ご飯のおにぎりをお昼用に女将からお接待いただき出発。笛ケ滝と三坂峠(710m)との標高差は224mだが、峠まで国道33号で7・6キロもあり緩やかな上り坂が続くので平地感覚。ただ、峠方面は真っ黒な雲にべったりと覆われていて、八丁坂どころではないゲリラ豪雨に襲われるのではないかと嫌な予感。昨日の帰路にお参りした国道脇の於久万大師に遥拝、何とか峠の麓まで天気が持ってくれますように祈る。
  峠1キロ手前のレストパーク明神でトイレ休憩のあと8時47分峠着。雨は大丈夫だったが濃い霧に包まれ20m先が見えず、寒い。自販機でホットコーヒーを買い一息入れてから、国道に別れ久万街道(土佐街道)三坂峠の遍路道に入り下り始める。
 最大の難所『なべ割坂』は鬱蒼とした木立に覆われ霧は更に深く5m先が見えかねた。ぼくらは一瞬たじろぎ立ち止まって顔を見合わせる。これは完全に雲の中だ。国道に戻ろうかとも思ったが、そうすると5キロも遠回りになる。道は一本、足許にさえ注意すれば何とか大丈夫だろうと気を取り直し霧の中を進む。余り気持ちの良いものではない。500mほどで霧は薄れだしホッと一安心。
 急坂の山道は2キロほどで漸く視界が開け、谷間に田んぼ、地道はアスファルトに変わった。途中、一抱えもある杉の倒木が道をふさいでいる所が2カ所。先日の雪で倒れたらしい。
 9時56分、峠を下りだして初めての民家。昭和初期まで営業していた旧遍路宿『坂本屋』。平成16年、地元のNPO法人が多くの方の協力で修復し、休日には歩き遍路にお茶のお接待をしているとか。この日は金曜日。板戸はしまっていたが脇の軒下に長椅子、その奧のトイレが自由に使えるようにしてくれてあった。
 更に2キロ弱で番外弘法大師の網掛け石にお参り。ここから浄瑠璃寺までは3キロ。気持ちにゆとりができ、10時51分、窪野公園で早昼。おにぎりを食べ1時間休憩するつもりが、風が冷たく重ね着してもじっとしておれない。止むなく30分で切り上げ歩く。
  11時50分、長珍屋にリュックを預け、浄瑠璃寺にお参り。900mで次の47番八坂寺。歩き遍路をしたことがあるという納経所の若い僧侶に、各札所で納経時に頂く御本尊の『御影』を結願後どう扱えば良いのか尋ねた。「大事にして頂ければ良いです。軸や屏風に仕立てる方もあるが金がかかる。差し込み式の御影帳なら二千円です」と。なるほど本の形なら保管しやすい。巡拝用品売り場に現物があったので買おうとしたら、「他のお寺でも売ってますよ」と欲のない話。益々気に入り2冊求め家に送ってもらうことにした。
 八坂寺を後にして1キロ先の別格霊場、衛門三郎菩提寺の文殊院(松山市恵原町)に向かう頃には日が差し始め、ようやく温かくなってきた。1時25分着。小さなお寺だったが、境内にはお大師さんの像や衛門三郎と妻の像などが並び『四国遍路開祖発祥地』の誇りがみなぎっていた。
  1・6キロで番外札始大師堂。三郎はここにお大師さんが泊まっていると聞き急いで駆けつけたが既に立ち去った後。止むなく自身の名を木札に記しお堂の壁に打ちつけたと伝える。お遍路することを『打つ』といい、また札所お参りの証拠に『納め札』を納めることの始まりのお堂。伝説ではあるが文殊院と共にお遍路には欠かせない霊場だ。
 気持ち的には今日はここで打ち止めとしたかったが時間が早く、予定通り48番西林寺まで歩きお参り。4時、タクシーで宿に戻り、翌朝7時の迎えを頼む。受付を済ませた後、女房のお杖のカバーが無くなっているのに気づき辺りを探すが落ちていない。記憶をたどってもどこで無くしたのか判然としない。諦め部屋で休んでいたら仲居さんが先程のタクシーが戻ってきて「座席の下に落ちていた」と届けてくれたと。今日もまた感謝だ。(西田久光)

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