慶長13(1608)年、伊予今治から津・伊賀に入府した藤堂高虎公が先ず着手したのは、関ヶ原の前哨戦で焼け野原となった津市街の復興と津観音の再建、更に津城と伊賀城を最短距離で結ぶ伊賀街道の整備であった。
 それまでは上野経由で伊勢へ向かう参拝客だけでなく、津方面からの水産物や塩、伊賀方面からの種油や綿などが運ばれる道路は他藩(亀山藩)を通らなければならず、しかも加太峠など難所が多く、伊勢・伊賀両国の経済、生活の大動脈としては不十分であった。伊賀街道は津から橡の木峠と呼ばれた長野峠を越えて上野に到る全長約12里(約50㎞)の街道で八つの宿場が設けられ、現在の国道163号に沿う形で通っている。
 その伊賀街道も、幕末の動乱や維新における廃藩置県など政治空白とも相まって荒れ果て、旅人たちは難渋、特に長野峠にかかる山路には追い剥ぎが多発するありさまであった。これを見かねた伊賀阿波村(旧大山田村)の有志が、長野峠の整備を各関係機関に呼びかけ、明治13(1880)年より隧道(トンネル)工事が始まることになる。これに伴い伊勢側も、安濃郡南河路から片田、五百野から足坂、三郷から平木に到る三つの工区に分けられ、それぞれの工事が始まる。中でも、片田から五百野にいたる山路に新しい坂道をつける工事が難工事で、この区間における事業費の拈出や工事一切の責任者となったのが、当時五百野と足坂二村の村長を務める野田正風であった。
 弘化4(1847)年生れの正風は当時34歳、先ず正風が取りかかったのは、二村合わせて180戸への工事費負担金割りと、関係機関への寄付金依頼、工事計画と物資の調達などであった。
 当時の資料によると、沿道の村々の負担金は数百円から数千円とあり、当時の1円は現在の2万円として換算すれば、小さい村でも400万円から500万円、大きい村ともなれば4000万円から5000万円にもなる。
 さらに、工事は農繁期をはずして村全員の出合いとなり、その日程調整、組み合わせなど、初めての仕事に正風は、夜遅くまでランプの下で予算書や工程書などを書き上げるのであった。
 今までくねくねと縫い登っていた片田から五百野への山道を、なるべく曲がりを少なく、それでいて拡幅した道をつけるのである。夜提灯を持った人を並べて高低を計り、鶴嘴や鋤で土を起こし、畚や臾に入れて天秤棒でかつぎ土堤をつくった。
 山肌を削って、掛け矢で杭を打ち込み、厚板をはめ込んで山崩れを防ぎ、途中、大きな石に突き当たると、それを割るのに何日も費やしたり、溝を掘って土管を埋め、竹を裂いて蛇篭を編み、そこへ川原から拾ってきた小石を詰めて積み重ね、それを段々に積んで坂道を上へ上へと造成していった。
 ところが、秋になって台風が来襲、一夜にして削った崖を崩し、平らにした道の土を押し流し、坂の下に小山をつくってしまう。工事はまた始めからやり直しであった。崖を削り直し、そこへ節を抜いた竹を打ち込んで水抜きとし、流された坂道へは小石と砂利を敷き詰めて踏み固め、小山となっていた流された土を土堤の蛇篭の覆い土として活用、なんとか危機を突破する。
 かくして、2年目の冬を迎えた或る日、今度は地下水が吹き出し、止めようとした全員が水びたしとなって風邪をひく者が続出、しばらく工事を中断するなど、何度も何度も工事延期を繰り返しながら、明治15(1882)年春、さすがの難工事も完成する。
 しかし、正風はさすがにほっとしたのか、冬にひいた風邪をこじらせ寝込んでしまう。心配した村民たちが交互に訪れ、正風の容態を気づかうのであった。その時、三つあった野田家の蔵が一つになっていたという。正風は一言も説明しなかったが、工事費の不足をだまって自分で算段していたのであろう。
 そして、間もなく床上げした正風を村人たちが迎えに来る。何事かと完成した吹き上げの坂に来てみると、登り切った左側に白布のかけられた碑があり、うながされて正風が綱を引くと「道路開鑿記念碑」と掘られた大きな石碑に、「明治15年7月建立 五百野人民一同」とあり、発起人7名の中に野田正風の名も刻まれていた。「ありがとう…」村人たちの手をとってしばし感涙にむせぶ正風であった。
 かくして明治18(1885)年、長野隧道が完成、翌19年、全線開通を祝う式典が三重県知事も出席して長野峠で挙行され、トンネル横に建立された「記念碑」にも野田正風の名が刻まれている。その日、関係する村村では花相撲が催され、夜には花火が打ち上げられ、日の丸をふって提灯行列で祝ったと、時の「伊勢新聞」は報じている。
 野田正風、明治42(1909)年10月9日没。享年63、五百野西方寺に葬られた。(この話は史実をもとにしたフィクションです)
 (新津 太郎)