2013年2月

展示されるつるし雛

 津市久居相川町2392─40の『ギャラリー水野』で、明日3月1日~3日10時~16時(最終日は15時まで)、毎年恒例のつるし雛まつりと作品展示販売会が開かれる。
 着物リフォーム作家の水野照美さんらが同ギャラリーで指導する着物リフォームやパッチワークなどの教室の生徒約40名が、つるし雛約30点を展示するほか、小物・着物からリフォームした洋服・バッグ・古布・はぎれの展示販売もある。
 「つるし雛は、1年かけてコツコツと作りました。年々、材料の古布の質や、色使いがグレードアップしています」と水野さん。
 なお着物リフォーム教室では生徒を募集中。
 問い合わせは水野さんへ℡090・7023・8932。

 津藩祖・藤堂高虎公にまつわるエピソードの一つに『出世の白餅』がある。戦前、映画化されたほか、講談、浪曲にも恰好のネタとして採り上げられ、現代でもしばしば演じられているし、筆者が高虎楽座用に書かせて頂いた楽座芝居『藤堂高虎一代記』でも序段を『出世の白餅の段』とさせて頂いた。このエピソードをもとに津市が制作したシロモチくんは、津を代表するゆるキャラとして人気を博し、県外にもファンが少なくないことは周知の事実である。
 改めて紹介すると、話の概要はこうだ。
 主に恵まれなかった若き日の高虎公、仕官の口を求め各地を放浪するうち遂に路銀が尽きてしまった。そこに一軒の餅屋。空腹に耐えかねて破れかぶれの無銭飲食。喰うは喰うは次から次へとお替わりを頼み、店の親父も呆れるほどの食べっぷり。人ごこちついた高虎公だが、さて我に返れば懐には一文の銭もない。意を決し、平身低頭して詫びた。すると親父は高虎公を責めるどころか、逆に「いや実に見事な食べっぷり」と褒めたたえ、その上に路銀まで与え、いつか必ず一角の将となられるお方と励ました。
 高虎公はこの御恩生涯忘れまじと後に自らの旗差しものを、『白餅三つ(三つ丸餅)』とし、また徳川幕府の世が到来し東海道を通るおりは必ずこの餅屋に立ち寄り、昔うけた恩に報いたという。
 映画、講談、浪曲では、高虎公単身ではなく後に股肱の臣となる居相孫作と二人づれであったり、無銭飲食を詫びないばかりか逆に「今日の餅代は出世払いじゃ!」と豪快に開き直ってみせるなど幾つかのバリエーションもある。また餅屋の所在位も幾つかあり「この餅屋こそ我が店なり」と名乗っているところもあるという。
 いずれにせよ話はできすぎである。津藩関係の史料類には『出世の白餅』に関する記述は一切見当たらない。もっとも後に恩返しをしているとはいえ、体面を重んじる武家としては無銭飲食を藩祖の恥と捉え、記載が憚られた可能性はあるものの、やはりこのエピソードは後世の創作とするのが長く通説であった。
 ところが、あながち全くのデタラメと否定できなくなったのが、昭和五十年代半ばの新史料『中川蔵人日記』の登場。同家は代々津藩の番頭・家老職を務めた千五百石の家柄である。日記を残した蔵人政寛(天保七年までは政挙)は、その六代目にあたり、寛政五年(一七九三)に生まれ慶応四年(一八六八)七十五歳で亡くなっているが、天保四年(一八三三)父・政師の後をうけ家老職について以来、亡くなるまで三十五年間まめに日記を書き綴った(但し安政三年~五年は欠落不明)。 
 その日の天候、主な行動から災害、事件、また、相当な釣り好きであったようで、その日の釣果まで克明に記録し、江戸末期の津藩や津の状況を伝える貴重な一次資料となっている。
 明治十四年、津を離れ伊勢に移った中川家に長く秘蔵されてきたが、十代中川英郎氏が公開を決意し、津市の郷土史家・七里亀之助氏(故人)の協力を仰いで原文を読み起こし、謄写版刷りで印刷製本して刊行。また、原本は出版を機に津市教育委員会に寄贈している。
 問題の白餅と津藩に関する記述は『中川蔵人日記』刊行に先立ち、七里氏が高虎公没後三百五十年祭記念に昭和五十五年、本紙三重ふるさと新聞のルーツ、夕刊新伊勢新聞社より出版、筆者が編集者を務めさせて頂いた『ふじの生涯~巷説藤堂高虎物語~』の中で初めて世に紹介している。
 参勤交代に伴う江戸での務めを終え、帰国途中の天保十年(一八三九)五月十四日の条の全文は次の通りである(ゴシック表記、及び文字空け、カッコ内は筆者)。
 「十四日 晴 当番七半時(午前五時)御発駕 荒井今切御都合能御渡船 御昼ニ而弥左エ門より酒肴差出ス 吉田御小寄 中西与左(正しくは右)エ門方知恩院泊リテ差支 相本陣江御案内申上 御吉例之通餅差上 一統へも差出 頗ル佳品 右餅ハ高山様被召上候より連綿 御宿入より亭主麻上下ニ而搗候例之由 夜五時(午後八時)頃赤坂駅ヘ御着 夫より定宿輪違屋作蔵(赤坂宿脇本陣)方ニ止宿 上宅料理も宜しく大鯵四尾もちくわし差出 御油宿よりも干うを七枚為持参ニ付金五十疋遣ス 昨今酷暑乍風有之ニ付少々凌易 今日舞阪辺ニ而長持釣人吐血大病ニ付玄乙ニ頼薬三貼もらい遣ス」
 この日は早朝五時、宿泊した東海道二十九番・浜松宿を出発。天候に恵まれたが、次の舞阪宿辺りで、長持ちを担いでいた者が吐血するというアクシデントが発生したものの、新居宿から浜名湖河口の今切はスムーズに船で渡り、昼には殿様(十一代高猷)に酒を出し、この後、三十四番・吉田宿(現・豊橋市。吉田城下)に立ち寄る。この記述では昼をとったのは三十二番・白須賀宿か三十三番・二川宿か判然としないが、『二川宿本陣宿帳Ⅱ』=豊橋市二川宿本陣資料館刊=には、この日、先乗りが午後一時より幕を張るなど準備を済ませ、二時に藤堂家一行が到着して、ゆっくりと休憩を取ったとあり、また米を八升炊いたとも記され、昼食は二川宿でのことか。
 余談になるが、この『二川宿本陣宿帳Ⅱ』は、本陣・馬場彦十郎家の文化五年(一八〇八)から慶応二年(一八六六)まで五十八年間の記録である。筆者が数えたところ藤堂家関係では久居藩も含めて六十九回の記述がある。ちなみにこの辺りでの藤堂家の宿泊は浜松~赤坂が主で、浜松~御油が副。稀に新居~藤川、白須賀~岡崎、白須賀~藤川、浜松~吉田、舞阪~吉田の記述もある。
 さて、吉田宿では吉田城大手門南前を、外堀とほぼ平行して東海道が東西に通っている。大手門導入路との交差点で東側が呉服町、西側が札木町に分かれている。問屋場は札木町側にあり、藤堂家一行が立ち寄る予定の中西与右衛門宅は問屋場(現NTT)から百メートルほど西に位置する。ところがあいにくこの日は中西宅には先客があり、京都知恩院の役僧一行が泊まっていたため、止むを得ず東隣の相本陣(江戸屋・山田新右衛門=元脇本陣、江戸中期本陣に昇格)にて休憩することとなった。
 亭主とは、おそらく当初予定の中西与右衛門を指すものと思われるが、麻の裃姿の正装で餅をつき、吉例の通り主君に差し上げ、随行の家臣達にも振る舞われた。
 「すこぶる佳き品」と中川蔵人は感激し、「右餅は高山様(高虎公)がお召し上がりになられ(以来)連綿(と続いている)」と記す。歴代津藩主が藩祖を偲び中西家で餅を食するのが代々の習わしであったことがこの記述でわかる。『出世の白餅』は全くの創作とは言えないのである。次号につづく (西田 久光 本紙会長、津観光ガイド・ネット会長)

ビールを囲んで歓談する会員たち

 19日、津都ホテルでキリンビール商品を通じた親睦などを目的とした「一番津よい会」の第3回目が開催された。
 元々津市とキリンはキリンビールが安濃津よさこいをバックアップしたり、キリンビバレッジも市内に津まつり応援自販機を設置するなど関わりが深く、その縁で同会が発足した経緯がある。
 今回も各界から大勢の会員らが出席。とっておきのビールや各種のお酒を味わいながら、あちらこちらで親睦を深めていた。
 同会は今後も年4回のペースで開催する予定。

[ 6 / 25 ページ ]« First...45678...20...Last »