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竹林を抜けた階段の先に阿由多神社の本殿はあった。社の大きさは参道の長さから想像していたものよりも、こじんまりとした印象。境内には往時の安濃城の姿を描いたが案内図があり、まずは二人で、それを確認する。すると、ここにはかなり大きな山城があったことが理解できる。神社に城跡があるというより、この神社が城跡の中にある、と認識を改めるべきだと理解した。
更に案内板によると、戦国時代にこの安濃城の城主だった細野藤敦は、織田信長の配下である滝川一益を退けたことなどが書かれている。滝川一益といえば歴史にそれほど明るくない私でも歴史小説などを通じてその名を知る織田家中きっての勇将。その攻めをものともしなかったというのは藤敦の戦巧者ぶりと城の堅牢な守りを想像するに十分すぎる材料といえる。
神社を参拝後、今も城跡に残っている櫓台や空堀の跡を見ながら、想像力をフル回転させ、当時の城の姿を思い描いていく。隣のМ君に至っては、私以上で「籠城するとすれば、ここからこういう風に…兵力差は…」などと、なんともいい加減な戦術論を口にし始める始末。私はそれを軽く聞き流しながら来た道とは別の参道で境内の外に出る。
参道を出て、すぐ脇には真宗高田派の寺院・松原寺がある。ここの境内の一角には「義士新三郎」を祀った碑が残っている。
この新三郎という男は、下手人(解死人)だった。下手人という言葉は、時代劇などでは殺人犯を指す言葉として使われているが、ここで言うそれは殺人を犯した集団の罪を肩代わりし身代わりとして殺される人間のことを指す。
江戸時代の初め頃、安濃村と隣の粟加村の間には安濃川の水利を巡る争いが絶えず、安濃村の人間が粟加村の村人を殺めてしまった。そこで、身代わりとして差し出され、命を落としたのが、この新三郎というわけだ。昨年、本紙・西田久光会長がこの史実を元に脚本を執筆し、劇団津演が「水の祈り」という劇を上演したのも記憶に新しい。
水道の蛇口から、いつでも綺麗な飲料水が手に入り、米も余っているという今の世の中。水を争って人が死ぬというのは想像すらできないことだ。その一方、昨年に安濃ダムが深刻な水不足になった際、最後は天に祈るしかないという現実に直面した。そう考えると今でも人は自然の前では、余りに無力で、それはどれだけ時が進もうとも変わらない真理なのかもしれない。
新三郎がどのような人物であったか詳しくは分からない。だが、隣村の村人たちの怨嗟を一身に受けながら、死んで行くのはさぞや無念だったろう。死して義士と崇められるより、愚者と嘲りを受けながらでも生を全うする方が余程幸せである。この碑に込められたドラマをM君に語ると、静かに頷くばかり。碑に合掌して寺を後にする。
自転車のところまで戻ると14時頃。まだまだ日没までには時間があるし、歩いてばかりで自転車に乗ったという満足感もない。ここからは余り詳細なプランを練っていなかったが、ペダルの赴くままという旅も乙なもの。次の目的地を求め出発する。(本紙報道部長・麻生純矢) 近年、ミトコンドリアの研究が進展して色々なことが分かり注目されるようになってきました。
2014年1月23日 AM 4:55