津市栗真町屋町の町屋海岸では長年の間、使用済みの針付き注射器が頻繁に見つかっている。糖尿病患者が家庭でインスリン注射に使ったものと見られ、事件性は薄いと考えられているが、注射針での怪我は肝炎の感染にもなるなど事態は深刻。一般家庭から出る中で最も危険な廃棄物に対し、使用する人のモラルはもちろん、製造元・行政・医療機関を含めたより厳しい管理体制の構築が求められているといえよう。

 

 津市栗真町屋町の住民たちでつくるNPO法人『町屋百人衆』は年5回、町屋海岸の清掃を行っている。6年ほど前から清掃をする毎に、5本前後の針付き注射器を回収しており、最大で30本余りを回収したこともある。それらは、いずれも使用済みのインスリン用注射器で、見た目は真新しいものから古びたものまで様々。伊勢湾を漂って遠くからきたのか、この辺りで捨てられたのかは特定できていない。
 同団体ではある程度の数を回収すると、海岸を管理している三重県津建設事務所に引き渡している。同事務所によると、町屋の他にも白塚や河芸の海岸でも見つかっており、いずれも麻薬などの違法薬物の注射に使われたといった事件性はないとみている。 
 最大の問題は、使用済み注射針による怪我は肝炎を引き起こす原因となる恐れがあることだ。従って、法律上、注射針は医療機関が捨てる場合「特別管理廃棄物」として、丈夫な密閉容器に入れ、専門業者が処理を行うなど厳しい管理が義務付けられている。だが、糖尿病患者などが家庭で使う場合、法的には普通の家庭ゴミと同じ家庭系一般廃棄物としての扱いしか求められない。つまり、最も危険な廃棄物の処理が、普通のゴミと同じような扱いをされているということだ。
 特に取り決めの無い自治体では、他のゴミと一緒にゴミ袋入れて集積場に出されているため、処理中に注射針で怪我をする事故が発生している。これを重く見た環境省では、患者に注射針を渡した医療機関や薬局での回収を通達しているが、中には処理費用で尻込みをする医療機関もあり、徹底しきれていない自治体も少なくない。
 津市はというと、津地区医師会と協議を重ねた結果、市はゴミとして回収はせず患者に渡した医療機関が針の回収までを行うルールを定めている。その結果、市が回収している一般ごみに混じっていたり、不法投棄されている例は今の所、ほとんど見られないという。しかし、市内の海岸に針付きの注射器が流れ着いているという現実がある。町屋百人衆では「裸足で歩ける海岸をめざしているので本当に悔しい。誰かが病気に感染したら取り返しがつかないので製造メーカーや行政は責任を持つべき」と憤りの声を上げる。
 まず、使用する人のモラルが問われるのは当然だが取り返しのつかない事故が起きる前に、製造メーカー・行政・医療機関などが一丸となり、注射針が、どこで誰に渡され、どのように処理されたのかまでを管理できるようなシステム構築が必要とされている。

市長に寄付金を贈る青山会長とメンバーら

市長に寄付金を贈る青山会長とメンバーら

 4日、津駅前ストリート倶楽部の青山春樹会長ら3名は、津市役所の前葉泰幸市長を訪問し、津市緑化基金への寄付金6万円をを手渡した。
 同団体は津駅前の活性化を目的に、春の津駅前ストリートまつりや清掃など、様々な活動に取り組んでいる。今回贈った寄付金は先月15日に、西日本セブンスリーゴルフクラブ=松阪市嬉野島田町=で行った緑化推進ゴルフコンペで募った浄財が中心。
 寄付金を受け取った前葉市長は「基金は津市の緑化に非常に役立っており、今回の寄付も大切に使わせて頂く」と感謝。青山会長も「これからもコンペを継続的に開催し、支援をしていきたい」と語った。更に事務局長の前川和幸さんも、「地道な活動だが、津のまちに少しでも緑が増えれば良い」と話していた。

ソ連兵と米軍兵士が握手する様子を描いた伝単の表面

ソ連兵と米軍兵士が握手する様子を描いた伝単の表面

 津市在住の戦争研究家・雲井保夫さんが、第二次世界大戦終戦間際に津市の上空で米国軍が撒いたビラ、「伝単」を公開した。
 伝単とは、戦時中、敵国国民や、兵士の戦意喪失を目的として配布する宣伝謀略用の印刷物のことで、日本上空の制空権を握ったアメリカ軍は、連日にわたりB─25爆撃機などで、空襲の目標となる都市に大量の「空襲予告」の宣伝ビラを散布している。
 雲井さんが所有するこの伝単は縦10㎝、横15・7㎝センチで、番号は「144─j─1」と印刷されている。今は故人となった津市在住のある人から雲井さんに託されたもの。ビラの表には「感激の握手」と書かれており、朝鮮半島を足で踏むソ連軍兵士と太平洋を渡った米軍兵士が日本列島を挟んで笑顔で握手する様子が描かれている。裏面には米軍の日本兵捕虜が書かされたと思われ

裏面にはソ連の対日連合戦線参加を知らせる内容が書かれている

裏面にはソ連の対日連合戦線参加を知らせる内容が書かれている

る文章が印刷されている。
 ソ連は昭和16年に日本と締結したソ日不可侵条約を破棄し、昭和20年8月8日に突如、日本に宣戦布告。翌日には南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。
 この伝単は、日本国民に、ソ連と米軍が手を組んだ以上、日本に勝目はないことを絵にしたもので、裏面の文章は、日本の早期降伏を促したものと思える。 
 昭和20年7月28日の津大空襲の前日の27日に、津空襲予告のビラが撒かれた事はよく知られているが、この「感激の握手」は、津市民には余り知られていない。また、「津市史」でも触れられておらず、津市香良洲歴史資料館にも展示されていない。
 しかし、津市図書館が蔵書する『津の戦災』には故・関口精一氏が書いた「戦中日誌」の8月10日付に、「日ソ開戦を知る。朝、友人浜へ散歩に行き、日本地図をはさんで米ソ兵握手の絵の入ったビラを拾う」という記述があり、このビラが終戦間近の8月10日に撒かれたことが分かる。関口氏は阿漕浦の近くに住んでおり、ここで云う「浜」とは阿漕浦海岸のことではないかと推察できる。
 雲井さんは「戦時中敵機が撒いたビラは個人が所有することは禁じられており、警察署、憲兵隊、警防団、市役所、町村役場に届けなくてはならなかった。届出を怠った場合は三カ月以下の懲役又は拘留、百万以下の罰金などとなっており、そのため撒かれたビラが現存することは非常に珍しい」と話している。
 
                                                                                                                伝単裏面の記述
 
 「蘇聯の對日戰參加は日本國民にとって日本が遂に全世界の陸軍を相手に絶望的抗戰を餘儀なく繼續しなければならぬ羽目に陥ったことを意味する。露西亞を一擧に席巻せんとしたあの精鋭を誇りし獨逸軍及其の猪突的進攻作戰の首魁者たる彼の軍國主義者ヒットラーの末路は諸君の良く知る處であらう。
 即ち東部戰線に在りし全獨逸軍も西亞東歐の豪、蘇聯の反攻に際會して結局は殱滅の憂目に會つたと云う事も諸君の脳裏に深く刻み込まれた事實である筈だ。
 苦戰敢闘數年、遂に獨軍制覇の偉業を確立した蘇聯軍も欧州戰の終焉に伴ひ現在迄遥かに戰前に優る數的、質的陸軍武容を回復充實し遂に對日聯合戰線に一役買って出たのである。
 聯合國の全面的日本進攻作戰を目前に控へ、それに伴ふ日本の必然的なる徹底的壊滅を前に日本國民の採るべき途─ 
 即ち美しき祖國日本を慘澹たる戰禍より未然に救ふ唯一の途が何であるかと云ふことも諸君は良く知って居る筈だ!」

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