検索キーワード
三重県は、三重県の文化の振興に貢献し、活動と功績が優れた個人や団体を毎年表彰しているが、今年も次の各賞の受賞候補者を募集している。
▼賞の区分及び対象
◆文化大賞…芸術、伝統芸能、生活文化等の分野での活動とその功績が極めて優れ、三重県の文化向上に貢献した個人又は団体。なお、以前の文化関連賞受賞者も対象となる。活動歴=概ね30年以上。
◆文化功労賞…芸術、伝統芸能、生活文化等の分野での活動と功績が優れ、三重県の文化の活性化に貢献した個人、又は団体。なお、三重県平成文化賞受賞者及び平成13年度以降の三重県文化賞の文化功労賞受賞者は除く。活動歴=概ね20年以上。
◆文化奨励賞…芸術、伝統芸能、生活文化等の分野での活動で功績を収め、三重県の文化興しに貢献した個人、又は団体。なお、平成12年度以前の三重県文化奨励賞受賞者及び平成13年度以降の三重県文化賞の文化奨励賞受賞者は除く。活動歴=概ね10年以上。
◆文化新人賞…県内在住者又は三重県出身者で芸術、伝統芸能、生活文化等の分野で活動しており、将来一層の向上が期待される新人(個人又は団体)。なを、平成13年度以降の三重県文化賞の文化新人賞受賞者は除く。活動歴=概ね10年未満(直近の2カ年度程度の活動を評価対象)。
▼候補者の推薦=自選他薦を問わず、個人又は団体を候補者として推薦できる。候補者の年齢は不問。
▼募集期間…平成26年9月16(火)日17時必着。
▼選考結果通知及び表彰…受賞者及び推薦者に通知のうえ、平成27年3月に発表する予定。表彰式は平成27年5月下旬予定。
問い合せ・推薦書類提出先…三重県環境生活部文化振興課、〒514─8570、津市広明町13番地。☎059・224・2176、Eメールはbunka@pref.mie.jp
2014年8月21日 AM 4:55
我が国初の五十音順国語辞典の「和訓栞」や「日本書紀通証」を著した国学者・谷川士清を顕彰する団体『谷川士清の会』=馬場幸子代表=が、9月から「平成26年度士清講演会」を開くにあたり、受講生を募集している。
同会は津市主催の谷川士清講演会をきっかけに平成11年に発足し、小学校への出張講座や士清まつり、絵画・書道・作文コンクール、津市八町にある士清の旧宅周辺のガイドなど幅広い活動で市民に郷土の偉人士清の業績を広めている。 講演会は、会員養成講座も兼ねている。
▼第1階・9月20日(土)・津市図書館2階視聴覚室にて。
①テーマは「『和訓栞』の中の万葉歌について。10時~11時15分。講師=片山武氏(谷川士清の会会員。元金城学院大学教授)。②テーマは「谷川士清の会の歩みと現状」11時20分~11時40分。講師=馬場幸子さん(谷川士清の会代表)。
▼第2回・9月27日(土)10時~11時半、・津市図書館2階視聴覚室にて。テーマは「垂加神道について」。講師は皇學館大学准教授・同大学神道研究所所員の松本丘さん。
▼第3回・10月4日(土)10時~11時半、史跡案内(ガイド実習)…津新町駅に10時に集合。会員が六阿弥陀堂・福蔵寺・士清墓・谷川神社・反古塚・旧宅・土手の地蔵・神宮寺を案内する。
参加無料。申し込みは、〒・住所・氏名・電話番号・参加予定日を書いて、葉書の場合は〒514─0041、津市八町3丁目6─21、士清の会事務局の佐野萬里子さんへ。電話&FAXの場合はは059・227・5092へ。締め切りは8月30日必
2014年8月21日 AM 4:55
突然「三重ふるさと新聞」様からお電話を頂いた。用件は去る7月24日付のの第一面に「津大空襲の記憶 今年も7月28日が近づく中、B─29搭乗員写真やボム・タッグ 津市の雲井保夫さんが初公開」と大きく報じられた記事を読まれた読者の方が、当時投下された焼夷弾の破片を義兄が大切に保管しており、それを私に託したいというものだった。
それで早速その方に電話連絡をさせていただき、「今すぐお伺いさせていただきたい」と申し出た。その方の自宅前で待ち合わせをして、その方の義兄宅へご案内いただいた。
「どうぞお上がりになってください」と、見ず知らずの私を、客間へと招きいれてくださいました。
早速、大切に白いビニールに包まれた「焼夷弾の残骸」を一見するなり、それは頭部の信管の形と位置から「M─69型焼夷弾」とすぐに判別できた。その焼夷弾は岩田橋交番の近く、ちょうどオキナマンショのある場所で、戦前「弓ノ町」、現在の「本町十番地」のお屋敷に住んでおられたK氏の邸宅を直撃し、同家を一瞬にして炎上させたもので、戦後焼け跡を整地された時に見つけてK氏が大切に保管してきたものだった。ここで私は新たな「謎」が出てきた。それは、津市はあの夜、米軍B─29爆撃機は新開発の「M─74A1型焼夷弾」のみ投下して、その威力を確かめるため、その実験地とし津市を選定していたからである。
そのような事実のなか、3月10日の「東京大空襲」を始めとして、日本本土焦土作戦に最も多用された「M─69」が何故、津市にあるのかという新たな疑問である。
私が津市に投下されたとする「M―69」を手にするのは実はこれが三度目だ。これまで私は余り疑問に思ってこなかった。「何かの間違いだ」と思っていた。
しかし、今度のこの焼夷弾は発見場所が完全に特定できている。加えて「岩田橋」近くである。あの夜の津市大空襲はその爆撃中心点が「岩田橋」付近なのだ。そうすると次のような推論が成り立った。B─29爆撃機は76機が投弾、うち12機が先導機である。
先導機には最も腕のいい爆撃手が搭乗し、後続飛行するB─29のために投下目標焼夷弾を投下して、爆撃照準点を燃え上がる焼夷弾で作る任務があった。そのため新開発の「M─74A1」では実際に火炎を上げるか否か不明だ。それでより確実な「M─69」を投弾したと、考えれば説明がついた。
一機の先導するB─29爆撃機はE─48型焼夷集束弾、いわゆる親爆弾を39発搭載した。それにより一発のE─48はM69焼夷弾を38発集束する。先導機は12機。そうすると、あの夜、M─69は合計で1万7784発が爆撃照準のために投下したと考えられる。
津大空襲を体験された方々の中に、「あの焼夷弾は六角形していた」と証言されるのはこのためによると私は考えるのだ。
今回「三重ふるさと新聞」の愛読者の方がくださった「M─69型焼夷弾」の抜け殻は私の津空襲研究にとても意味深くもっと研鑽する契機となった。快く寄付してくださった方に、改めて厚く御礼申し上げます。
(戦争研究家)
2014年8月21日 AM 4:55