親友が亡くなってから一年。長かったような短かったような不思議な感覚。
 彼が命を落としたのは、世間を揺るがす大事故だっただけに、この一年間、事故後の検証も含めて嫌というほど、関連報道を目にしてきた。
 このことを通じて、私が強く感じたのは、マスコミの在り方だ。
 彼の無言の帰宅を迎えた時、葬儀の後、また私の自宅でも報道陣に何度も友人としてのコメントを求められた。私たちが抱える悲しみを多くの人たちに伝えこのような事故が二度と起きないように促すのはマスコミとしての責務。当然、私自身もそれは理解していたが何も話せなかった。
 ただ、それには理由がある。私の前に現れたのは「何が何でもコメントをとってこい」と上からプレッシャーをかけられているのが見ただけで分かる記者ばかりだったからだ。彼らはシナリオ通りの報道をするためのパーツ集めが目的となってしまっており、なぜ報道するかという最も大切な部分が、抜け落ちてしまっていたように見えた。
 これは私にとっての戒めでもある。自分も同じ立場なら、彼らと同じ行動をとっていたのではないか。そんな疑問が胸をよぎる。親友の死という余りに重すぎる現実を受け止めた時に、報道に携わる者としての原点に立ち返れた気がする。
 あれから事故の原因究明が進められてきたが、どのようなことが判明しようと遺された私たちに突き付けられた事実は至ってシンプルで残酷だ。もう彼は帰ってこない。ただそれだけなのだ。
 命日に彼の墓前で手を合わせると、未だ癒えぬ心の傷が疼く。〝ありのまま〟を伝えるのは口にするよりも、遥かに難しいことだ。自分自身が当事者になって初めて見えたものがある。
      (麻生純矢)