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八雲神社からは、再び赤部の集落を経て、のどかな農道を河芸総合支所の方へとのんびりと走る。「この道は、ここに繋がっていたのか」と一人で頷きながら笑みを浮かべる。本当にささいなことだが、未知が既知へと変わる瞬間の快感は何ものにも代え難い。読者の皆様方に、未知をお届けするためにも、こういった積み重ねを日頃から心がけている。
河芸総合支所の前を通り再び伊勢鉄道の線路をくぐる。しばらく々に覆われた坂道を登ると、本城山青少年公園に到着。兄・織田信長との戦いで夫・浅井長政を失ったお市の方と、3人の娘である茶々、初、江が過ごしたと言われている伊勢上野城跡にある。そのおかげで、2011年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の放映時には、数多くの観光客が訪れた。
公園の中の小高い丘の上には展望台。早速登って四方を見渡してみると、なぜこの場所に城を建てたのかが自然と理解できる。近隣の集落のみならず、遠くは伊勢湾の向こうの知多半島までを容易に見通すことができるからだ。戦国武将が高いところに居城を構えたのは、何も城の周囲に居を構えた領民を見下すためではない。いち早く他国の侵略を察知して、大切な領民を守るためである。自分が武将だったらと考えると、眼下の集落からたち上がる炊事の煙など、領民の営みを目にするたびに、気が引き締まる思いで統治に励んだはずだ。まして、弱肉強食や下剋上がまかり通った時代である。砂上の楼閣という言葉に集約されるほどに儚い権力構造を盤石なものにするためにも領民との良好な関係は不可欠なはずである。
公園の後は、すぐ隣にある円光寺へ移動。この寺は伊勢上野城の城主・分部氏の菩提寺。後に大溝藩(現在の滋賀県高島市)を幕末まで治めた同氏の礎を築いた分部光嘉は、富田信高らと共に関ヶ原の戦いの前哨戦である安濃津城攻防戦において活躍。わずか1700の寡兵で3万にも及ぶ西軍相手に勇戦し、敗北こそしたものの、東軍の勝利に貢献している。
この円光寺は、同氏の移封に伴い、大溝へと移されたが後に当地を治めた紀州藩が寺領を認めたので旧伽藍が存続したもの。本堂はこじんまりとしているが、古風な禅寺の風格を漂わせている。覗いてみると、住職がいらっしゃったので、挨拶し、少し休憩をさせて頂く。平家物語でもおなじみの沙羅双樹や紅葉でも知られており、それぞれの季節になると、多くの参拝者が訪れる。
さて、いよいよこの旅の締めくくり。海に向かって自転車を飛ばす。(本紙報道部長・麻生純矢)
2015年10月1日 AM 4:55