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四日市市諏訪町のギャラリー慧で昨日6日~10日の11時~17時半(最終日は16時)、小学校時代を津で過ごし、現在ソウル在住の画家・さかべひとみさんの展示が開催中。
「作家の脳裏に刻まれた像をアーカイブするという意図の“像アーカイブ”シリーズと子どもや夏休みをテーマにした作品を紹介します」とさかべさん。
ギャラリー慧☎059・354・2567。
2016年7月7日 AM 4:55
津市内3会場で開催される短期教室「夏休みスポーツ教室」の受講者を募集中。 ▼ストリートダンス教室=7月25日(月)・26日(火)・27日(水)・28日(木)。津市海浜公園内会議室(津市末広町)にて。時間は幼児(年中・年長)…9時~9時45分。小学1~3年…10時~10時50分。小学4~6年…11時~12時。
▼エンジョイキッズサッカー教室=7月25日(月)・26日(火)・27日(水)・28日(木)。北部運動公園(津市栗真中山町)にて。時間は幼児(年中・年長)…9時~9時45分。小学1~4年…10時~10時50分。スキルアップクラス…11時~12時。
▼ドッジボール教室=8月1日(月)・2日(火)・3日(水)・4日(木)。南部緑地公園内運動場にて。時間は小学1~3年…10時~10時50分。小学4年~6年…11時~12時。
▼バラエティスポーツ教室=7月25日(月)・26日(火)・27日(水)・28日(木)。北部運動公園(津市栗真中山町)にて。時間は幼児(年中・年長)…10時~10時45分。小学1~4年…11時~12時。
参加費は全教室2000円と保険代1000円。
問い合わせは津市体育館☎津225・3171。平日9時~21時。担当・樋口さん。
尚、9月11日(日)10時~12時、北京オリンピック陸上日本代表の井村久美子さん(旧姓・池田)を講師に招き、様々な運動要素を取り入れたスポーツ教室も開催。会場は津市海浜公園内陸上競技場。対象は小学1年~6年生で、参加費は500円。定員30名になり次第締切り。
2016年7月7日 AM 4:55
津市内には午前6時32分から空襲警報が鳴り響いていた。天気は曇り。ラジオは「敵大型機、志摩半島を北上中」と放送していた。
第313爆撃航空団所属のB─29爆撃機は、爆弾投下高度1万5000~1万8600フィートから、午前10時17分から10時54分にかけて津市市街地に投弾した。
第314爆撃航空団所属のB─29爆撃機は爆弾投下高度1万8000~2万2000フィートから、午前10時38分から10時54分にかけて津市市街地に投弾し、津市市街地はたちまちのうちに阿鼻叫喚の巷と化した。
玉置町1895番地の今井医師の敷地内には以前に掘っておいた簡易式の防空壕の他にコンクリート製の頑丈な防空壕が新しく構築されていた。いざとなればここに退避すれがいい。それで糸井は安心していた。 村木氏家族3人と糸井しだれはこのコンクリート製の防空壕の方がより安全と考え何の躊躇をすることもなく防空頭巾をかぶり避難した。B─29の出す爆音と共に落下してくる爆弾が空気を切る音。「ガガーッ」「ズズズーッ」と音と地響きがして百雷が一度に落ちたような衝撃がしてくる。
「お母さん、助けて」と糸井しだれは心の中で叫んだ。次の瞬間、1発の250キロ爆弾が4人の避難しているコンクリート製の防空壕を直撃。全員爆死。糸井しだれ、享年27、津市玉置町1895番地が終焉の場所となった。なんとも不運なことに古い方の防空壕は無傷のまま残っていた。
玉置町、ここは藤堂家士族の閑静な武家屋敷町として津市内でも最も高級な住宅地であった。ここに「玉置町」の惨状を物語る資料がある。一部抜粋して引用する。
「津市玉置町1897番地、弁護士、山田寛さん(57)の家族5名は自宅敷地内に掘られた簡易式防空壕の中で息を殺して4、5波の爆撃にも奇跡的に無事だった。『火事だぞーっ』、『まごまごしとると焼け死ぬ』という山田の声でみんな防空壕からはい上がった。玉置町、北堀端の町。門構えの家々の屋根がみんな地べたに落ち、瓦が乗っているのは数えるほどしかない。山田の家族はとにかく夢中で逃げた。5mから10mおきに直径7~8mもある爆弾の穴。
ひどい所では穴と穴がダブり合うほど接近していた。穴の回り10m四方には掃き清めたように何もない。妻の千代が『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と呟きながらついてくる。安東村周辺で、ともかく一家の無事を確かめ合った山田寛さんは、翌日玉置町に帰った。爆弾のあと、榎の下方面など数箇所から出た火は、玉置町、北堀端の西半分から安濃川堤までを一面に焼き尽くし、まだそこから白い煙が上がっていた。人影は少なく死の町だった。山田さんは向こう三軒両隣の消息を聞いて回った。裏の北村判事の未亡人方は、乳飲み児をつれて、もらい乳に寄っていた若奥さんが助かっただけで、親類から来ていた人を含めて一家6人が全滅。
東隣、公証人の前田さん方では、荷物を疎開するために書類運びに来ていた使用人が死んだ。西隣の華道教師、北村さん方は、借家の人たちを含めて4人が死亡。そのとなり、県庁職員の廣瀬さん方は家にいた4人が全滅。その隣の長屋の人が2人、県立医専付属病院副院長の鷲尾さん方は先生が病院で殉職。家ではお手伝いさんが即死。鷲尾先生方の奥、小島さん方は一家全滅。西隣の岩田医院はお手伝いさんを含めて4人死亡。
道路を隔てた向かい側の日本キリスト教団津教会では小使いさんと附属施設の美良幼稚園の先生が死んだ。その西隣、今井医師の留守家庭では、奥さんと京都の第三高等学校から帰っていた息子さんの2人とも死亡。今井さん方の門長屋に住んでいた東京からの疎開家族3人全滅。また鷲尾先生方の隣にいた町内会長の信藤さんは、広瀬さん方の子供を抱いて、配給の知らせを町内に触れ歩いていて道路で直撃弾を受けて2人とも死んだという。
山田さんが直接聞いて調べたところでは、約40軒あった玉置町町内で68人が死亡していた」(出典『名古屋大空襲』昭和46年。毎日新聞社)。
(注釈)本文中に「今井さん方の門長屋に住んでいた東京からの疎開家族3人全滅」とあるが、この3人とは、村木正幹、美代子、玉枝を指すものと思われる。糸井しだれは美代子さんの友人で、山田寛氏は津市に疎開して間もない糸井しだれのことは知らなかったように思われる。
当時婦人の一般服はモンペであり、上衣の左側には白色の名札布が縫い付けてあり、そこには「津市玉置町1985番地、村木正幹方、宮田光子と血液型」が墨で明記されていたことだろう。
7月22日、糸井は宝塚の同期の千村克子を訪ね一泊して、翌日の23日に津市に戻った。「私の家にもう一晩泊まっていたら…と悔やまれます」と千村は後日に語っている。糸井しだれの男兄弟のうち次男と三男は戦死していた。
玉置町があった場所は、現在、津市立養正小学校と緑の多い玉置町公園になっている。
「麗しの あなたは何処 蝉しぐれ」拙作
取材協力団体=宝塚音楽学校。
参考文献:『名古屋大空襲』昭和46年 毎日新聞社。『別冊一億人の昭和史 タカラヅカ』1981年 毎日新聞社。『悲劇喜劇』昭和58年 早川書房。「Tactical Mission Report, Flown 24,July 1945.」 米国国立公文書館蔵。 (終り)
2016年7月7日 AM 4:55