大河ドラマもいよいよ佳境に入ります。真田家が東西に別れて戦わねばならない家の存続をかけた悲劇を背負いながら、軽妙かつ大胆な脚本で活き活きとした登場人物に、「答えがわかっていても」これからの経過がどう描かれるのか、わくわくさせられます。真田家と同じように家の存続のために身内が敵味方に分かれた例はほかにもいくつもあり、三重県では関ケ原の戦いのときの九鬼家が有名ではないでしょうか。
海賊だった九鬼は織田信長と結びつくことで水軍となり、最近話題の小説で題材となった木津川の合戦の描かれていない次の戦いで、村上水軍を撃破し大名としての地位を確立します。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、藤堂高虎などと海戦で活躍しますが、秀吉の死後、関ケ原の合戦のときは、父が豊臣方、嫡男が徳川方に別れて、伊勢湾と鳥羽城で戦っています。そのとき父は息子に対して、「疑われないように真剣にやれ」と命じたそうですが、家来たちも含めて身内の戦いは苦しかっただろうと思われます。九鬼家の場合は、関ケ原で徳川が勝利した後、息子が父の助命を嘆願し、それを許されたが、山中に逃れていた父は知らせが届く前に自刃してしまいました。
関ケ原の合戦のときの津城主は、石田三成に席を譲るまで豊臣秀吉の側近としての重責を担っていた富田一白の嫡男の富田信高で、籠城戦で西軍に敗れたあとも徳川方に認められてしばらく津城主をやっていました。やがて四国伊予の藤堂高虎と国替えになり、家康の腹心で津に加えて伊賀も与えられた高虎は大阪の陣でも真田幸村たちと激しく戦い、藤堂家の繁栄を幕末まで盤石なものとしました。海岸沿いの津の両側になる松阪と白子は関東と結ぶ重要地として紀州徳川家の藩領でした。領地が入り組んでいたことと藤堂家が徳川幕府の信用が高かったこともあって、藤堂藩領と紀州藩領に住む人たちは他の地よりも容易に行き来をしていたようです。
藤堂藩の藩校である有造館は、全国的に見ると大藩の中では遅い開校でした。けれども藩主自らの強い要望で設立した藩校は、明解な教育目的とそのための幼年期から大人になるまでの一貫したカリキュラム編成、それをきちんと具体化できる有能なスタッフをもって始まったので、他藩の多くの藩校に影響を与えることになります。江戸で生まれ昌平黌で学び漢籍に優れた能力を出していた若い藩士が藩校設立当初からスタッフの一人として参加するために津に戻りました。それが斎藤拙堂でした。
文学者の前田愛は、幕末の人たちが、出身地の方言や身分の壁を越えて情報交換や論議や意志の伝達をできたのは、漢籍の素養という共通の学力があったことを指摘しています。さらには、その学力を基礎としていたから外国の知識や技術、情勢などを理解できたと言っています。斎藤拙堂も、漢籍の大家として名を広めましたが、漢文に「翻訳」された海外の文献を多数読み、世界地図を眺め、諸外国の国旗を書き写すなどして、外国理解に努め、早くから条件付き開国を唱えていました。有造館の督学になると洋学館を開設し、藩士に洋学を奨励しました。そのような斎藤拙堂の私邸には、藤堂藩士だけでなく紀州藩領の松阪の町人や他藩のいろんな身分の人たちが指導を仰いでいます。吉田松陰や河合継之助が斎藤拙堂に会うために津まで来たのは有名です。
他に、土佐勤王党に暗殺された吉田東洋や幕臣ながら庶民のために乱を起こした大塩平八郎も、斎藤拙堂を師と仰いでいました。斎藤拙堂の門人や友人は、尊王派にも佐幕派にも幅広く広がり、それぞれの立場で、差し迫った諸問題をどう乗り切るかに奔走していました。
さて、この「始まった教育改革」の一連の文面の最終回として、日本が一つの国家としてまとまる激変の時代のことを書くことにしたのは、未来の創造のためには、確かな基礎学力と課題の共有をすることが大切であるということを言いたいためです。大国の大統領選も決着し、これから日本を取り巻く国際情勢はさらに厳しくなることが予想されます。今回の教育改革が少子高齢化対策や国際競争力強化のためという国内事情を軸として発想され実行されようとしているものであり、まだまだ多くの学校関係者や保護者や子どもたちがその必要性を真に理解していなくても、数年後の日本は今のままでは決して独立した国として安泰だとはとても言い切れないところまで来ています。
坂本龍馬が勝海舟や西郷隆盛や桂小五郎などと意志の共有を図れたのも、各自に漢籍という当時の共通語を操れる基礎学力があり、漢籍を学ぶことによって養われた思考力によって海外の知識や技術を理解し柔軟に近未来を予想しそのなかで行動できる力を持っていたからです。
斎藤拙堂の先見の明は、津市出身の洋学者も含めて、明治時代の表裏で活躍した人々をたくさん輩出しています。教育は創造だ、を結文とします。
(伊東教育研究所)