今年度の「親子洞津谷川塾」は、去る七月二十二日、津市内各地より保護者九名、子供十二名の参加により催行された。この塾は、津市が生んだ偉大な国学者、谷川士清翁について知り学ぶ事を目的に平成十一年より津市教育委員会主催、「谷川士清の会」のサポートにより継続されているものである。
「日本書紀通証」三十五巻を著した他、日本で初めての本格的な五十音順の国語辞典「倭訓栞」を著した谷川士清翁は、二十一歳年下の本居宣長翁とも交流があり、宣長翁をして、「国語学の猿田彦(導きの神)」とまで称さしめた偉人であったが、「倭訓の栞」の刊行を待たずに逝去したことや、著作「読大日本史私記」に対し江戸幕府の誤解等があった事で、本格的な評価がなされず、名誉回復が遅れ、残念ながら現在でも、津市に於いてさえも、谷川士清翁の名を知らない市民も多く、また知ってはいても「ことすが」と正しく発音してもらえないのが現実である。
その現実を打破すべく、私達「谷川士清の会」のメンバーは、「親子洞津谷川塾」に協働し、毎年二月には、自ら、「谷川ことすが書道コンクール」を主催し、他にも小学校へ出帳講座に出向いて、紙芝居やビデオで学んでもらったり、最近では、津まつりのみならず、
三重テラスまで出向いて顕彰活動に勤しんでいる所である。そうするうちに少しずつ、テレビや全国版の雑誌でも取り上げられるところとなり、外からの映像や文章で市民の方々に郷土の「宝」を認知して頂ける深みが増している事は望外の喜びであります。
視座を変えますと、谷川士清翁は教育者であり、京都へ遊学して二十六歳で津市八町三丁目へ戻った後は、家業の医業を行い、また、教授しつつ、神学、儒学、国学を藤堂藩の若き藩士や士清を師と仰ぐ多くの弟子に教え導きました。
「洞津谷川塾」の門弟の総数は、記録が無いため不詳ですが、著名人としては、頼又十郎惟清(頼山陽の祖父)、飯田元親(橘守部の父)、宇佐公吉(宇佐八幡宮の大宮司)、中川蔵人(津藩士一五〇〇石)、松本主禮(外宮一禰宜)、藤原安廣(厳島神社祠官)蓬莱尚賢等が門弟として記録されています。
医家であり、神道家、国学者、国語学者に加えて、教育者であった谷川士清先生。
「日本で初めての本格的な五十音順国語辞典を創った」と云う意味においては偉大な文理両道のジーニアス(天才)でありイノベーターであると私は考え尊敬致します。また、本居宣長翁をして敬愛を集めたご人格は谷川士清先生のふくよかなご風貌に表れている慈しみに満ちたご品性から醸し出されるものであると考えます。
偶々、谷川士清先生のお生まれになったのは宝永六年で、その二年前に富士山の噴火がありました。昨今の天災、人災を見るまでもなく、私は如何なる天災、人災も起こって欲しくはありません。が、しかし、谷川士清先生と云うマグマ、エネルギーの表出、〝休火山〟の噴火は望みたいのです。
表現が拙かったかも知れませんが、地域間競争の時代に於いて、医学、宗教、国語、教育と云う谷川士清先生が導いて下さったフィールドに於いて郷土津市の将来を考えます。
津に来たら、住んだら賢くなる、これは偏差値のアップも含めての話にしましょう。
津に来たら、住んだら、病気が治る、元気になる、長生き出来る。良い温泉もあるし、森林セラピーも良い。良い漢方のお医者様も居るそうだ。
私が大学を出た後に学んだ私塾の塾長からは「成功の要諦は成功するまで続けるところにある」と諭されました。
谷川士清先生の研究、顕彰活動に更に衆知を集め、多くの方々に絶えず感謝の気持ちを忘れないで勤しみ、郷土の生成発展を期します。
(谷川士清の会代表)