2017年8月

長谷川さん(奥)から、忍者のポーズの振付けを習う子供達

長谷川さん(奥)から、忍者のポーズの振付けを習う子供達

津市久居一色町に今年6月オープンした、障害がある未就学児・小中高生を対象に児童発達支援・放課後等児童デイサービスを行う施設『メープル』=運営・NPO法人いと健=で、9日と23日に音楽療法としてダンスレッスンが行われた。 講師は、津市出身のダンスインストラクター・長谷川祐子さん。長谷川さんは音楽イベント「a‐natiоn」のアクトダンサーを務めたり、テレビ番組「ものまね紅白歌合戦」「のど自慢」などの出演経験を持つ。
レッスンは、忍者のポーズなど簡単な振り付けのダンスで、体を使って楽しみ、達成感を味わってもらおうと企画した。
23日は、利用者の小学・高校生と、職員の子供合わせて7名が参加。
長谷川さんの丁寧な指導のもと、手足を伸ばして前に出したり、腕を大きく振ってドアをノックするような振り付けを覚えていった。
音楽が好きな子が、曲がかかると生き生きとした表情になり積極的に踊るなど、ダンスならではの魅力を楽しんでいた。
一曲分の振り付けを習ったあと、すぐ近くで同法人が運営している高齢者施設に移動し、利用者のお年寄りの前で、曲に合わせて覚えたてのダンスを披露。お年寄りは笑顔で手拍子しながら観ていた。
終了後、子供達からは自然に、「楽しかった」「嬉しかった」という声が上がった。

石川梵監督

石川梵監督

「世界でいちばん美しい村」のチラシ

「世界でいちばん美しい村」のチラシ

平成28年度文部科学省選定ドキュメンタリー映画で、写真家・石川梵さんの初監督作品「世界でいちばん美しい村」=2016年、108分=が9月23日、三重県総合文化センター小ホールで上映される。昼の部=13時半~、夜の部=17時~。開場は各30分前。
主催は「世界でいちばん美しい村」三重上映会実行委員会。
石川さんは以前、津市に約10年間住んでいた。2015年、大地震直後のネパールを取材したことをきっかけに同映画を製作。ナレーションは、東日本大震災の復興活動に参加している女優・倍賞千恵子さん。壮大なヒマラヤを背景に、圧倒的な映像美とカメラワークで綴った叙事詩的物語。大地震を乗り越えて明るく、強く生きる人々の姿を描く。
県内での上映は今回が初。昼・夜の部とも、上映後、監督によるトークと、挿入歌を歌うデュオ「*はなおと*」のミニライブが催される。
▼前売料金=大人1800円、大学生1500円、高校生1200円、小・中学生1000円、障害者割1000円(付添い1名まで同料金)。
▼当日券あり。ただし前売りで完売する可能性があるため、事前に問い合わせを。
▼未就学児入場不可。昼の部は託児サービスあり(要事前予約)。
▼全席自由席・昼夜入れ替え制。
▼チケット購入申し込み・問い合わせは同実行委員会の高木さん☎090・2774・1020、メールmie.sekautsu@gmail.comへ。チケットは、三重県文化会館チケットカウンターでも購入可。

◆キリストに捕らえられた薬物経験者で元ヤクザ、今牧師!
若者達が憧れる芸能界やスポーツ界の薬物汚染のニュースが社会を賑わせています。同時に立ち直ることの難しさも伝えられています。しかし今から十数年前、薬物経験者で元ヤクザ、救いようのなかった者が、今ではキリスト教牧師になっている進藤龍也牧師を紹介します。
自分を変えたくても変えられないで悩んでいる方々に、「あなたは愛されている」そして「あなたが求めるならば、あなたの心は変えられ、必ず、人生をやり直すことができる」ということをお伝えしたいのです。

◆ヤクザ以前…寂しい少年時代…
進藤牧師は一九七〇年、埼玉県生まれ。父は毎晩飲み歩き、小学校四年の時に母も夜働きに出た。兄弟もいないので夜一人になるのが無性に寂しかった。それが彼を非行に駆り立てた。高校一年で喧嘩が原因で退学処分。

◆十八才でヤクザデビュー、シャブを打ち、シャブ中毒へ
東京池袋を本拠地として人を脅かし、金を取り、苦しめてきた。覚醒剤の売人として自分も相手もボロボロになった。ヤクザ生活十五年、そのうちの半分は刑務所の中。前科七犯、服役三回。やがてシャブ中毒が原因でミスを犯し組も破門。三度の結婚も破綻。
こんな毎日から抜け出したいが抜け出せない惨めな自分。何度も生活を立て直そうとあがいたが、したいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っている惨めな自分であった。
拘置所の中で、「できることならやり直したい」と考えるようになっていた。出所後のことを考えると、不安感はますます膨らんだ。
これまで堅気仕事をしたことがない三十の男である。学歴無し、職歴無し、小指無し、あるのは前科とイレズミと薬物経験。こんな人間が、社会でやり直すことができるだろうか。悩みは日増しに大きくなっていった。

◆拘置所の中でキリストに捕らえられる
何もすることのない拘置所の中で、もしかしたら聖書の中に救いがあるかもしれないと思った彼は、内縁の妻が置いていった聖書を読んでみることにした。そして心に届いたのがエゼキエル書三三章十一節だった。

「神である主の御告げ。わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜあなたがたは死のうとするのか」

このみことばに触れた時、一字一句が、彼の目の前に浮かび上がってくるように迫ってきたかと思うと、頭の中にストンと入ってしまった。読むたびに彼の心に染みわたっていった。
あまりのうれしさに独居房の中で万歳をしながら、「やった、やった」と飛跳ねた。看守に怪訝そうな目で睨まれ、「おい、おとなしく座っていろ」と注意されてしまうほどだった。
彼は、第二の人生の出発点を、聖書のこの一節によって与えられた。神様に覚えられている自分、さらに神は、彼が人生をやり直すことを望んでいる。確かに神様はいる。しかもヤクザをやめてもキリスト者になれば、社会復帰も可能になる。口で説明できるだけの根拠はなかったが、その事を強く確信した。
頭の中は聖書や神様、イエス様のことでいっぱいになった。その急激な変化には彼自身も驚いたが、神に愛されているという満たされた感覚は、何ものにも替えられるものではなく、心はどんどん穏やかになっていった。これ以降、さまざまな点で変わっていくことになる。

◆聖書は神から人へのラブレター
聖書は、有限な人間を超えた創造主であり、人格神である方からの人間に対する愛の語りかけの書である。神から人へのラブレターと呼ぶ人もいる。人間を超えた神を、有限な人間の力では知ることは不可能である。
有名な「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」は、人間の力で知ることができるということが前提になっている。月を見るにはそれは当てはまる。しかし、それは、人間を超えた神を知るには、当てはまらない。
神の側から人間に働きかけて語って下されば知り得る、これを啓示という。聖書は啓示の書である。その神のことばが、人となってこの世に来られたのが、イエス・キリストである。
主イエスは、罪人である人間を愛し救うために彼らの罪の尻ぬぐいをされた。その為に、彼らの身代わりに、十字架上で呪われ、殺され、葬られた。が、三日目に死を打ち破って復活された。死に支配されないのが、真の神である。
自分の罪を通してイエスキリストによる罪の赦しを得なければ、人間に関わる神が定めた真理を知り得ない。
例えば、自分がどこから来て、自分が何者か、自分がどこへ行くのか、「わからない」のが答えである。それで自分の力で自分の人生の意味と価値をみつけなければならない。
しかし、人間は絶えず高慢と自己嫌悪に付きまとわれながら生きなければならず、謙遜とはほど遠い。それもまた虚しいことである。空なのだ。ところが、この神を知ると人生の不可解は解け、人生は一変する。(次号に続く)
(久居聖書教会牧師)

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