左から齋藤会長、加藤氏、椋本氏、西田会長

左から齋藤会長、加藤氏、椋本氏、西田会長

18日、津市センターパレスの津市中央公民館2階ホールで、津藩校有造館第3代督学(学長)で優れた漢学者・文章家で全国にその名を知られた齋藤拙堂(1797~1865年)の生誕220年記念パネルディスカッションが行われた。
齋藤拙堂顕彰会=齋藤正和会長の主催で、津市・津市教委との共催。同顕彰会は、拙堂が晩年を過ごし、全国各地から訪れる文人墨客たちと交流を深めた茶磨山荘の跡地碑が、昨年8月比佐豆知神社=同市鳥居町=境内に建立されたことを機に結成。この催しは生誕220年と顕彰会設立1周年を兼ねて開催。市民約160名が聴講した。
テーマは「津の生んだ偉大な学者・齋藤拙堂に学ぶ」。拙堂の子孫でコーディネーターの齋藤会長は「拙堂という偉大な学者がいたことを知って頂くことが文化振興に繋がる。そして、今学んでいる児童生徒に拙堂のことを知ってもらえれば学習意欲の向上にもなる」と挨拶。
パネリストの同顕彰会理事長で詩吟家の加藤龍宗氏は、拙堂が生涯で1200首残した漢詩から3首を取り上げ、文人としての魅力を解説。豊かな教養と巧みな表現に支えられた漢詩の美しさを紐解き、「自然を愛し、人を愛した拙堂のことを学んでほしい」と訴えた。
続く三重歴史研究会会長・椋本千江氏は拙堂は40年に渡って藩士や藩主・藤堂高猷にも藩の在り方や生き方を説いた教育者としてだけではなく、経世家(政治家)、歴史家、思想家であったことを説明。アヘン戦争など、当時の海外情勢を踏まえ、武士に改めて人格と精神を養い、西洋の知識や兵術を学び、敵が来た時は国や人々を守る義務を示したとし、「拙堂は文武両道の藩にしようとした」とその人物像を掘り下げた。
そして、津城復元の会会長である本紙・西田久光会長は、世を治め、民の苦しみを救う「経世済民」を語源とする経世家としての顔に迫った。下級役人だった父親が、果たせなかった貧しい農民を救いたいという思いを引き継いだことが拙堂の原点と指摘。郡奉行として直接政治に関わったのは2年弱だが、飢饉対策まとめた「救荒事宜」を記すなど、民を豊かにするため献策を続け、攘夷が盛り上がる中でも拙堂は条件付きの開国論を主張したことを紹介。「他国は侵略ではなく貿易が目的なので、条件を飲む代わりに軍艦をもらったらどうだと腹が座った明晰な意見を述べている」と、経世家としての優れた資質を示した。