悲惨な最期をとげた町民たち                  雲 井  保 夫

(前回からの続き)
村瀬隆さんの手記。
「7月24日〔火曜日〕の当日は、その前夜、勤務先の津市立高等学校で宿直した翌日に当たり、その朝は午前4時50分に起床、5時15分から朝食のため玉置町のわが家へ帰った。ところが5時30分に警戒警報が発令されたので、朝食もそこそこにして、6時15分から再出校した。
6時20分には空襲警報が発令された。東海、近畿地区は全般にB29爆撃機の大飛行機群が来襲するという情報が刻々と入り、緊張を募らせた午前9時頃には、いよいよ敵機がわが上空に姿を見せた。わたくしは、それで学校のグラウンド北端の防空壕に懸命に避難した。
そのうちに、爆撃が始まり、学校付近に物凄い音響と同時に爆弾が破裂し出し、全校舎が揺らぐ有様、その一弾はわれわれの退避していた防空壕の近くで炸裂し、防空壕の出入り口から爆風が砂塵とともに防空壕内に吹き込み、防空壕内の職員連れは瀕死の思いでお互いしがみつき合った。
そして、11時前には危機も去ったようなので、壕外に出て周囲を見まわすと、校舎の大半は倒壊し、付近の民家の大方は姿がなかった。辛うじて倒れた残った新校舎の二階から遠望すると、橋内辺りは猛煙に包まれて何も見えなかった。人伝えに聞くと、三重師範学校や津新町辺りは最も甚大な被害のようだとのことで、玉置町のわが家の安否が気遣われた。
それで正午すぎ、学校長に賜暇(しか)をとって、学校から足を踏み出すと、街路は倒壊家屋で埋まり、方々から負傷者の悲鳴が聞こえてきて、まさに阿鼻叫喚で、この世の生き地獄のようであった。
わたしは、いつもの通勤道路へは出られず、下弁財町から岩田橋へ出て、やっと橋内地区に入ったが、玉置町への路地はほとんど猛火に包まれ、どうにか塔世橋を渡って、津市立病院下から西進することができた。
この周辺には軍隊、消防隊員が取り巻き、古谷津連隊区司令官の顔も見え、負傷者は病院内へ続々と運び込まれていた。しかし目当ての御山荘橋は南端が爆破され渡れないため、わが家のある玉置町へ帰ることは諦めた。
そこでさらに、西方に向かい国鉄参宮線の踏み切りを越えて、戦況が激しくなるといつも疎開させてもらっている安東の三本松橋のそばの家に、這うようにして辿りついた。そこには生きた心地もなく、恐怖していたわが母と子と姪がいて、わたしの姿を見るや、喜んで飛びついて来た。その3人は午後3時ごろ、ここへ避難してきた。そしてわが家は倒れず、わが妻と妹は玉置町へ行って、罹災の跡片付けをしているとのことであった。
それで、わたしは早速、現地にかけつけた。その玉置町を眼にすると、市内で最も高い塔として有名だった基督〔キリスト〕教会堂は勿論、家屋といえば拙宅(せったく)と、向かいの朝川家だけが残り、中新町、北堀端、西裏辺りの住宅はまだ炎々と燃えていた。
四辺には煙が一杯立ちこめ、屍が累々と地上に転がり、また防空壕内に埋まっていた。わが家の東面は当時広い空き地になっていたが、そこには三重県医師会館の用務員が爆風で飛ばされ死んでいた。いつもならば、わが妻子がすぐそばの壕中に避難していたのに、その時は偶然、配給物を取りに出て、その壕から50メートルも離れた西方の防空壕へ入っていたので幸いにも助かったのである。わたしは現地〔玉置町〕に1時間ばかりいて帰ろうとしたころ、〔午後5時半ごろ〕、古河の公民学校が燃えさかっていたので、再度応急の仮御山荘橋を警官らの案内で渡り、安東の疎開先へ帰った。
午後7時半ごろ、その後のわが家が心配になって、現地近くまでいったが、その時は軍隊が出動でいて、警備をしてくれていたので安堵して帰った。しかし津市の夜空はまだ赤々と焼火に染まっていたため、不安な一夜を疎開先で送ったのであった」。
  『津市史』には「防空壕の中にいて一家全滅したもの、倒壊した家屋の下敷きとなったまま焼死したもの等、その数は数え切れない〔実際当時も未発表で不詳〕。玉置町は全町全滅し、当日他所へ行ったものだけを残して全員悲惨な最期をとげた。西新町〔除南部〕、西堀端もほぼ同様の状況であった。師範学校に48発の爆弾。いかにこの日の爆撃が激しいものであったかが想像できる」とだけあって、死傷者数は不明。
『三重県警察史』によると「24日、28日の被害で判明した死者は1239名、負傷者数千名」とある。当時被害調査を指揮した奥山篁市警部補は「はっきりとした数字は不明だが、この死者のほとんどが、24日の爆弾によった。またその全部が玉置町、西堀端、榎の下付近の橋内西部のごく限られた地域に集中していた」と証言した。しかし、この爆撃による死者については「本当はまだはるかに多く3000人以上あった」と町の老人たちは言っている。
とにかく、玉置町はこの空襲で滅亡した。旧玉置町はいま養正小学校の敷地、玉置公園になっている。「復興しなかった町」は日本空襲史上ここのほかには聞かない。
この日津市市街地に投下された爆弾はANM─64・250キロ爆弾が総数2528発、ANM─56・2トン爆弾は296発である。
この7月24日の惨状から4日後の7月28日の深夜、津市は新しく開発されたANM─74型焼夷弾がほぼ津市の市街地全域にわたって投下され、一夜にして、灰燼に帰した。       (終わり)
〔参考並びに引用文献〕
『名古屋大空襲』昭和46年9月10日発行 毎日新聞社。
『日本空襲の全容』1995年4月25日発行 小山仁示著 東方出版。
『津市史』
『三重県警察史』
『五十年目の戦想』平成8年3月10日発行、編集朝日新聞津支局、三重県良書出版会。
『21世紀への伝言』平成8年7月発行。編集発行三重県戦後50年体験文集発行委員会
『津の戦災 記録と回想』1989年 編集・発行 津平和のための戦争展実行委員会。
『三重の空襲時刻表』編集・発行 津の空襲を記録する会
Tactical Mission Report, Flown 24,July,1945  Twentieth Air Force.アメリカ国立公文書館蔵