香久山古墳を示す石碑

香久山古墳を示す石碑

火災で焼失する前の天益寺本堂

火災で焼失する前の天益寺本堂

桜の季節が過ぎ、新緑が雨に映える国道166号線。先月、詰めかけていた桜見物の車の姿は一台もない。今回は大宇陀商工会訪問である。
だが、前日、会長の体調が優れないとの報を受け、ディスティネーションを急きょ変更、商工会のメンバーの一員で、観光協会副会長でもあったお寺の住職を訪ねる事にした。同行者は本居宣長記念館館長、三重ふるさと新聞社長、そして旅館の八千代である。
正午前に大宇陀に入った私達は、同じメンバーである醤油屋さんと、会長である奈良漬屋さんに声をかけ、『天益寺』へと向った。天気が良くないので『宇陀松山城』は断念した。かつて濡れ落ち葉で滑った経験があるからだ。
古くは阿騎野とよばれ、宮廷の狩場だった大宇陀は、江戸時代前期に宇陀松山藩が置かれ、織田信長の次男織田信雄が1615年から藩主になり、1695年まで織田氏が藩主を勤めていた。その3代藩主・織田長頼が眼病平癒祈願で参篭したのが、1313年創建の天香久山『天益寺』である。
立派な竹林に囲まれた小高い香久山に建てられたこのお寺は、神仏習合によって生まれた神宮寺であり、元伊勢と呼ばれる阿紀神社に付随する仏教寺院だ。樹齢300年を超える枝垂れ桜も関西では名が知れており、コンサートなども開催したりと、いわゆる観光寺(良い意味で)の先駆者とも言える存在だった。
しかし、1999年1月、本堂、大威徳堂、倉庫の三棟が不審火で全焼した。そのありし日の姿は、住職が木戸を開けて通してくれた仮本堂の中で、新たに寄贈あるいは隣寺が救い出してくれた仏さんたち正面の額の中に拝む事ができる。牧歌的な美しい佇まいだ。
この合掌造りのお寺は再建途上にあるそうで、既に基礎は出来上がり、特徴的な茅葺き屋根の建築許可も下りたそうである。
気さくな住職は、『大亀和尚民芸館』と『香久山古墳』を案内してくれた。この民芸館は、1980年に大徳寺如意庵の元住職、立花大亀和尚(1899─2005)が再興した『松源院』(拝観謝絶)に付随する博物館で、和尚が所持する墨蹟、茶道具などのコレクションや民具などを保存・公開することによって、鑑賞・学術研究の資とし、文化振興を願ったものである。
展示品の入れ替えは春秋2回だそうで、今は川喜田半泥子の作品や、アポロ17号のジーン・サーナン船長から寄贈された『月の石』にも出会う事ができる。正直、この地にあるとは驚きだ。
古墳はこの民芸館の裏手にある。松源院の名を冠した『香久山古墳』の築造年代は6世紀後半。ヤマト王権による海路確保を背景とする船形埴輪が出土した松阪の宝塚古墳(5世紀前半)よりも若い。
1983年の発掘調査によると、『香久山古墳』は外部直径18メートルの円墳だそうである(前方後円墳との説もある)。あいにく開口部は格子戸で閉じられていたが、過去と現在を結ぶ存在感ある古墳だった。
香久山を後にして、重要伝統的建造物群保存地区『宇陀松山』に戻り、古民家を改装した蕎麦屋で遅い昼食をとると、私達はまちづくりセンター『千軒舎』を訪ねた。ここは薬屋、歯医者として使われていた旧内藤家の建物を2003年に改修した伝統地区の改修モデルハウスであり、まちづくり拠点、訪問者へのガイダンス、ミーティング会場として利用されているそうである。ちょうどこの日もミーティング場として機能していた。
だが、訪問者に提供する情報量はとても少ない。宇陀松山城の出土品はいくつか展示してあるが、重要伝統的建造物群保存地区の歴史や、一軒一軒についてのガイダンスはなく、物販もなかった。
帰路は再び166号線で、吉野村の『ひよしのさとマルシェ』に立ち寄った。残念ながら、一足違いで前回お会いした店長にはお会いできなかった。私たちは、本居宣長記念館の館長が撮った高見峠にある宣長の歌碑(1995年東吉野村建立)の立体加工写真を贈り、奈良を後にした。
今回は、奈良市行きの予定にはなかったので、比較的時間をかける事ができた。おかげで、隣接都市とはいえ所属する経済圏が違う為に、こちら側では未だ知られていない旧跡が沢山ある事がわかった。
もちろんそれはあちら側でも同じ事だ。インターネットが発達したとはいえ、テレビやラジオ、新聞社に縄張りがある以上、地域間交流は未だ知る人ぞ知るの域を出ないのである。
(O・H・M・S・S「大宇陀・東紀州・松阪圏サイトシーイング・サポート」代表)