津市民の目撃談

 

(前回からの続き)
日本上空でパラシュートで脱出したらどうなるか。ブリーフィング〔出撃直前の飛行士などに戦闘指示を出す短い打ち合わせ〕で非公式に言われていたのは「民間人に捕えられたら殴り殺される恐れがある」。ということだ。また「東京ローズ」のラジオ放送は「捕虜は戦犯として扱われ、裁判にかけられ、処刑される」と繰り返し警告していた。捕虜の人道的処遇について規則と実施を取り決めたジュネーヴ協定に日本は加わっていなかった。
一番初めに機外脱出に成功したのは、機体尾部機関銃手のジェントリィー伍長である。白いパラシュートが開き、ユラユラ降下してきた。多くの津市民が見上げる中、津市の安東村近く〔現在の津市安東地区〕の雑木林に降下した。
ここに津市民の方々の目撃談がある。それらを記す。
1「ある日のこと、周囲が騒いでいるので、防空壕の外へ出た。ふと上空を見上げるとB29と思われる飛行機が胴体から尾翼にかけて火を噴いて炎上しながら、津西高校のある西方向から東の伊勢湾方面へ向かい、やがてパラシュートが開き、米兵が1人、今の津西高あたりの当時は山林か山中でしたが降下した。  当時私は旧制中学の一年生で、他の人達と群集心理から、1キロ余りでしたが、米兵を見に行った。日本の軍人と思われる人に縄かヒモでくくられ、群衆のごく一部の心無い人が小石をぶつけたり、ロープのようなもので叩いていた」〔津市Y氏〕〔注・津西高校の所在地は津市河辺町〕
2「私が近鉄江戸橋通信区に勤務時、B29が1機火を噴いて飛行。間もなく米兵1名が上津部田の池の北にパラシュートで降りた。群衆大挙して烏合と化してその方に向いて走った。数名の者、竹槍をもって米兵に襲いかかり、米兵は額より鮮血をしたらせつつ逃走するを目撃す。言うまでも無く、当人のその後の消息定かならず。恐らく殺されたものと推察する」〔津市上田氏〕
3「昭和20年5月14日㈪晴れ、暑し。朝6時頃から警戒警報、続いて空襲警報。その後解除となり学校へ行く。学校から帰って津の上空を見ると海の方へ向かってB29が1機燃えて飛んで行く。しばらくして黒煙を吐いた。1人落下傘で降りて風に流され、元励商〔注・『励商』とは津市立励精商業学校の略で現在の津商業高校。当時の所在地は津市下部田焼尾〕付近へおりる。みんな寄ってたかってなぐる…以上は私が13歳の時の日記の断片です。当日、私は自転車で現場へ行きました。連行されて行く顔から血を流した若い白人の米兵は空ろな悲しい眼をしておりました」〔津市高木氏〕〔注・当時B29の搭乗員は、出撃前の打ち合わせで日本本土にパラシュート降下して捕えられたら、怒る住民に殺されるかもしれないということを、話されていた〕。
(次回に続く)