慎め降下米鬼の見物騒ぎ

(前回からの続き)
この出来事に関する新聞報道。
【逮捕に協力せよ 慎め降下米鬼の見物騒ぎ】
 警察部長談 爆撃機から敵搭乗者が降下した場合、県民は如何に処すべきにつき後藤県警察部長は語る。
 今後敵機が撃墜または爆破されて搭乗員が落下傘で降下する場合が多かろうと思う、かかる場合、実例によると遠方から多数の見物人が集まり中には子供や女子等戦闘力なきものまでが多数参集するが、軍に協力して敵兵を逮捕するため警防団とか一般市民が集まることは必要であり、当局でも之を要望しているところであるが、見物人が集合するのは逮捕のために参集する要員の行動を阻害するのみならず、警報発令下ならば各自の分担場所を放棄することにもなり、防空上よりも甚だ遺憾であり、また貴重なる農作物など害する場合も多い、逮捕を見たい国民の気持ちはわかるが只今は一分の時間と雖も忽せに出来ない重大な秋であり、一個の部分品でも早く作り、一鍬でも余計に耕すことが必要である。特に警報発令下ならばなおさら各自の部署を離れることは慎まねがならぬ、将来県民の十分なる注意を希望する。〔伊勢新聞、 昭和20年5月15日付け〕〔注・文中「米鬼」とはアメリカ兵のことを意味する〕
【見たり断末魔の紅蓮】
津上空の醜翼・全市民の歓声
 敵B29約百機は14日午前数回にわかれて聖地三重の上空に醜翼を現し、
うち一部少数機は北牟婁郡と神都に焼夷弾を投下したが人畜に被害はなく北牟婁郡内の某国民学校と神宮皇學館大学の教室の一部その他を若干焼いたのみ。わが制空邀撃部隊の果敢な邀撃により遁走した。友軍機のため3番エンジンを貫かれた敵一機は津市上空で火焔を発したが火の玉となりながらも尚も逃げのびんとする浅ましい生への執着から聖地上空をのたうち廻ったのち、遂に力つきて伊勢湾へ没入したのが望見され県民の戦闘意欲をいやが上にもかりたてた。〔伊勢新聞、昭和20年5月16日付け〕〔注・B29のエンジン番号はB29を上から見て、左端のエンジンが一番となる。B29は左に2つ、右に2つのエンジンある〕
 津市に降下したジェントリィー伍長は、津連隊区司令部のカワムラ曹長とその他の何人かにより、近隣の人々の協力を得て捕獲された。津憲兵隊の北越春雄准尉が同伍長を受け取り、ジェントリィー伍長をその日のうちに津連隊区司令部、東海憲兵隊司令部を経て名古屋市の東海軍司令部に送致した。
津市にジェントリィー伍長が降下したあと、およそ5分後にシャーマン機は伊勢湾に墜落する。
8名の搭乗員が機外脱出に成功した。8名は伊勢湾上に降下した。ラバディー伍長は行方不明となっている。レイノルズ少尉については、捕獲された経緯は不明だが、東京へ送られ、5月26日の東京陸軍刑務所の火災で死亡した。
8名の搭乗員は海上に降下していく時に、救命胴衣の左右の下に装着されている二酸化炭素ガスが充填されている小型のボンベ〔長さ約7㎝、直径約2㎝〕の下部にある綿製の紐を強く下に引っ張り、救命胴衣を膨らませた。海面に着水してからパラシュートを固定している金具をパラシュートの縛帯〔ハーネス〕から外した。
次に救命ボートキットをパラシュートの縛帯から外し、キットの包みを開けて救命ボートを引きずり出し、装着されている救命ボートを膨らますための二酸化炭素ガスが充填されている鉄製ボンベ〔長さ約30㎝、直径約7㎝〕の栓を開けると、忽ち救命ボートは膨らんだ。救命ボートに付いている取っ手を掴み、ボートの後部から乗り込んだ。これで救命ボートへ乗り込むことに成功。
次にパラシュートの縛帯を外したが体はずぶ濡れだった。もしかのことを考えて、救命胴衣は着けたままにしておいた。全員そうだった。
(次回に続く)

鳥羽水族館が12月28日㈯~1月5日㈰まで、正月イベントを催す。参加無料、入館料のみ必要。
①ジュゴンコ―ナー前に来年の干支・ネズミにちなんだ生きものを展示する「チューチュー神社」が登場。同館オリジナル絵馬やおみくじも。
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③1日・2日の2日間限定で、「生きものお守り」をプレゼント。1日=運気上昇間違いなしの「ラッコの毛のお守り」。2日=苦労とは無縁の「フクロウの羽のお守り」。両日とも9時~、エントランスホールで配る。各日先着100名、なくなり次第終了。

 立冬も過ぎて、北の方からは初雪の便りが聞かれる頃になりました。最近はめっきり日も短くなって、季節は、秋から冬へと一歩づつ近づいております。
今回は、秋から冬の季節の移ろいを感じる、「初雪」と、年末になると「赤穂浪士」の話が必ず出てまいります。その物語の中から多くの人に愛された「野暮な屋敷」の二曲をご紹介したいと思います。
初雪
 初雪に降りこめられて向島
二人が仲に置炬燵
酒の機嫌の爪弾きは
好いた同志の差し向い 嘘が浮世か浮世が実か まことくらべの胸と胸

この唄は明治20年頃、菊寿太夫の60歳後半の作品と思われます。小唄の舞台である向島は、梅若塚で有名な木母寺、その左の水神社、この辺が向島の中心になります。
水神の森には江戸時代から料亭が並び、その中でも「八百松」と、「植半」が有名でした。三代将軍家光の時代に植木師と御狩場の番人を本業としていた植木屋半右衛門は副業として腰掛茶屋を営んでいました。
植半の娘が四代目女将になった時、七代目団十郎や杜若と深く結んで植半の名を江戸中に普及させました。
吉原、山谷、柳橋から粋な芸妓が猪牙舟に送られて、向島に遠出するのはこの頃からで、右は木母寺、左は水神の森につらなる木立の奥の小座敷も灯の下に隅田の水音を聞きつつ、水郷情緒を味わうようになりました。この情緒は明治になっても続き、向島は遠出の場所として知る人ぞ知る所になっています。
小唄「初雪」は明治20年頃に作られ、向島情緒を遠虚なく描写しております。
人力車がまだ調法されていた時代、向島の水神で男女が、しめし合わせて落ち合った所、折から外は季節外れの初雪、大雪になって人力車も通えなくなり、もっけの幸いと置炬燵に入り互いに酒のやりとりをしながら、酒の機嫌でその頃流行の小唄を爪弾きで唄います。
「誠くらべの胸と胸」は二人の心意気を感じます。

  野暮な屋敷
 野暮な屋敷の 大小 すてて
腰も身軽な町住居
よいよい よいよい  よいやさ
 阿竹黙阿弥作で明治時代に作られました。
赤穂浪士の討入の日の明六つから明七つまでを十二時に書き分けた趣向で、「十二時の忠臣蔵」と呼ばれ好評を博しました。その中の小山田庄左衛門の変心の件が好評で、「野暮な屋敷」はこの芝居の辻番人が歌う都度逸を小唄にしたものでこの小唄が市中に流行したといわれています。
芝居の筋書は、小山田庄左衛門が、討入の当日、家臣の娘お雪が貧苦で身投げするのを助けたのが縁で、お雪の家に伴われ余りの寒さに、薬にと一杯酒を飲んだのが因果、二杯三杯と杯を重ねる間に前後を忘れ、お雪と枕を交わし、打入りの時刻に遅れてしまいます。
申し訳なさに切腹しようとするのを、後を追ってきたお雪が一緒に殺してとせまります。丁度その折、酒を飲んだ辻番人が手を叩きながら「野暮な屋敷の大小すてて」の都度逸を唄いながら通り過ぎるのをきき、ここで命を捨てた所が徒党にもれれば、ほんの犬死と、差した大小を下緒で結んで堀へ打込み、腰も身軽に今日からは町家の住い、楽に浮世が暮らされようと茶碗酒をあおるという有名な場面です。江戸時代、屋敷者は常に大小両刀を差し、これを捨てるのは町人になることで、武士にいためつけられていた町人が、武士の格好を「野暮」ったいと言い、「腰も身軽な町家住い」を「よいよい」と唄ったのは、町人の武士階級へのいささかな抵抗であると見られています。武士の生活を「野暮な屋敷」と唄ったのは、明治初年の江戸市民の考え方の一端を伝える小唄で、黙阿弥ならではの曲といえます。
 朝晩の冷え込みが厳しくなってまいりました。年末に向けてご多忙な次期、お体充分気をつけてお過ごし下さい。
小唄 土筆派家元
木村菊太郎著「江戸小唄」参考

三味線や小唄に興味のある方、お聴きになりたい方はお気軽にご連絡下さい。又中日文化センターで講師も務めております。稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。☎059・228・3590。

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