発達障害のリアルを当事者・専門家らが語る対談連載。発達障害は、生まれつき脳の発達が通常と違うために幼いうちから現れる様々な症状。出生率は数十人に一人と言われる。発達障害者の仕事や自立を、県内在住の当事者、浜野千聡さん(28)、Aさん(仮名・29歳男性)と、千聡さんの母・芳美さん(60)が語った(敬称略。聞き手は本紙記者・小林真里子)。

 

 

──発達障害に関して、職場の人やお客さんに知ってもらいたいことは何ですか?
A 困ったりパニックになった時の形は色々で、誰も彼も「ギャー」となるわけじゃなくて、逆に真っ白になって立ち尽くす人もいるということです。
千聡 レジ打ちで、文句を言われたことがあります。
芳美 娘が働き始めたばかりの時、レジでモタモタしていたらお客さんに怒られたことがあって、私らが謝り「ここは障害のある人が働いていて、この子も障害を持っているんです」と説明したら「見た感じ分からないから、胸に何かマークを付けといてよ」と言われたんです。それで私は本当に「私は障害者です」と示すバッチを付けようと思い、娘にもそう言ったら娘も「うんうん」と。だけど、お店の皆で話し合ったらそれはちょっとねと。だから、「ここは障害者も健常者も働く喫茶店です」という貼り紙をしたんです。それからは、お客さんに何も言われなくなりました。
特に発達障害って見た目で分からない障害なの で、気付いてもらいにくいんです。「ぽっカフェ」ではそこを周りのスタッフが上手にカバーするので、発達障害がある人たちも皆さんそれぞれのペースで楽しく仕事をしてもらっていると、私は思っています。

小学生時代は乱暴な行動多数   理解ある職場で褒められて変化

──親としての、千聡さんの将来への思いは、昔と比べて変化しましたか?
芳美 周りのお母さん方は「とにかく他人様に迷惑をかけない子にしたい」「犯罪に関わるような人にはさせたくない」とよく言ってますが、私は実際、そうなるんじゃないかと思った時期がありました。千聡が小学生の時、高機能自閉症の子が人を殺す事件があって、当時、自分の子供もそういう風になってしまうんじゃないかとすごく怖かったんです。家で暴れて物を壊したり、壁に穴を開けたり、ペットを殺したりしていたので。だから、あすなろ学園(現・子ども心身発達医療センター)での入院も含め周りの色んな人に助けてもらって皆さんにこの子を育ててもらったなと思っています。今では「この子は癒やしの存在だ」と言われ、ヘルパーさんにもすごく好かれて「ちーちゃんのお世話なら私がしたい」と手をあげてくれる方が何人かいるので、ありがたいことだなって。娘が小学生の時はこんな風になるとは思っていなくて、将来が不安で不安でしょうがなかったです。
──千聡さんが変わった理由は何でしょうか?
芳美 多分、楽しいことが一杯あったんじゃないかなって。昔は親にも周りにも理解されなくて、自分のすることに「これはだめ」「こうせなあかん」と言われて嫌で辛かったんだと思う。仕事を始めてからは周りの皆さんが「すごいね」とたくさん褒めてくださる中で働かせてもらっているので、それが良い状態に繋がっているのかなと。
A 僕の職場の方も良くしてくれて、配慮してくれているのかあまり厳しく言われることはありません。分かってくれている人に囲まれて働けるというのはやっぱり良いですね。(第5回終わり)

織田さんが美杉にオープン予定

織田さん(ウッズランドMio内の川辺で)

織田さん(ウッズランドMio内の川辺で)

上空から見たウッズランドMio 国道の東側がメインのキャンプ場

ウッズランドMioでのキャンプのイメージ

上空から見たウッズランドMioとその周辺

大阪出身で津市美杉町上多気在住、多分野で美杉の活性化に取り組む会社「美杉イノベーションおりたく企画」を経営する織田拓さん(35)が、自宅がある山間部に、地域住民、学生と都市の交流を促進するキャンプ場「ウッズランドMio」を整備中。5月の大型連休にプレオープンを予定している。
織田さんは近畿大学生物理工学部卒。岐阜大学大学院での研究や、会社勤めを経て三重大学大学院に入学。その際、通学のため母親が上多気に所有する家に移り丸7年になる。移住後、住民に頼まれ自治会や消防団に参加し、地域に必要とされ嬉しく感じ、恩返しとして様々な地域おこしイベントを企画。2017年同社を設立した。現在、三重大学の教員でもあり、同大の「三重創生ファンタジスタクラブ」でも学生を指導している。
そして「今後も美杉に住むと共に、美杉で稼ぎたい」と同社としてキャンプ場の事業に着手。自宅前の国道368号を挟み東西に広がる敷地に、メインのキャンプ場となる約1500㎡の平地などを整備している。
またモニターを募り、これまでに約25組を受け入れて運営に関する意見を集め参考にしている。
オープン後は、森林セラピーをはじめ美杉ならではの体験メニューなどを通じ、地域住民、同クラブの学生と、都市から訪れる人々との交流を促進していく。
同クラブのキャンプ場プロジェクトリーダー・三浦友斗さん(19歳、同大1年)は「色々な人と交流して学びを得ることができたら」。織田さんは、「キャンプ場利用料金をサブスクリプション(定額制)にしたり、利用者の方にキャンプをしたいスペースを自ら開墾してもらうことを検討しています」と皆で作り上げるキャンプ場を目指す。問い合わせは☎090・8388・3164。

入田古墳の入り口

入田古墳の入り口

七栗神社の門前

七栗神社の門前

国道165号津市庄田町交差点より西は歩道が消える。普段、車で走っていたらなんとも思わないことであるが、徒歩旅にとっては文字通り死活問題。張りつめない程度に緊張の糸をめぐらせながら、慎重に車道の脇の白線に沿って進む。
10時過ぎなので交通量はまばらなのが幸い。大型車や2台以上連なった車が来た際はできる限り見通しが良く、白線の内側に法面などがある場所でやり過ごすように進む。当然ながら巡航速度は落ちるが、安全第一で進んでいく。
長野川にかかる橋を渡り、しばらくすると北側に神社が見える。門前の石碑には七栗神社と刻まれている。その脇にある案内板の由緒によると、聖武天皇の時代につくられた1300年近い歴史がある八幡宮と伝えられているという。八幡宮ということは自ずと主祭神は品陀和気命すなわち応神天皇である。かの那須与一が扇の的を射るときに「南無八幡大菩薩」と祈ったことからも分かるように、古くは武神として全国各地の八幡宮に祭られ、現代に至っても、身近な神様の一人として信仰を集めている。
先ほど、お地蔵さまに道中の安全を願ったばかりだが、ここまで来て素通りするのも気が引けるので鳥居をくぐり境内へ。社殿の前に立ち、賽銭を入れ、二礼二拍手一礼の作法で、今日ここに健康でお参りできたことに深く感謝する。
参拝を終えると、社殿から少し離れた境内に腰を下ろして一休み。左足裏の違和感があったので靴を脱いで確認すると、小さな水膨れが出来ていた。この時、余り気にはしなかったが後で、苦しめられることとなる。
再び国道に戻り、少し進むと「入田古墳」という立て看板。この看板には以前から気付いていたのだが、前を通り過ぎるだけで一度も訪れたことがなかった。絶好の機会と看板の指し示す方向へ誘われるままに進むと想像以上の光景が広がっている。国道に向けてぱっくり口を開けた古墳の横穴式石室がほぼ直結しており、中には石棺も残っている。後に調べたところ、昭和39年の国道の改良事業の際に発掘調査が行われ、石棺の中からは鉄刀や矢尻などが出土。昭和46年に旧久居市の史跡になっている。現在は地元の自治会が手入れをしているそうだ。
通勤などで、ここを毎日通っている人でも、ここがこんな風になっているとは気付いていない人もいるのではないか。この古墳にどんな人物が眠っていたかは知らないが日々、墓所の前をせわしくなく行きかう鉄の塊を見て、何を思うのであろう。太古と現在が交錯するこの場所は、既知の向こう側にある未知そのものである。(本紙報道部長・麻生純矢)

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