今、世界中に新型コロナウイルスが流行していて大変な危機です。テレビをつけると各局は「新型コロナウイルスに打ち勝とう。うがい、手洗いをし、人との接触をしないで下さい」と訴えています。歴史的にみても人類はまさに疫病との戦いです。感染症は天然痘、麻疹、熱病、肺結核、チフス、ペスト、梅毒、コレラ、淋病、エイズ、ポリオ、新型コロナウイルスなどが挙げられます。
世界では紀元前の昔から感染症と戦ってきました。日本では遣隋使によって持ち込まれ奈良時代に藤原不比等の子、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が天平九年(737)の天然痘のパンデミックであっという間に全員死んでしまい政治機能がマヒしています。鎌倉幕府三代源実朝が罹患し、戦国時代の明智光秀の妻・煕子も天然痘にかかり、あばた面であったのは知られています。江戸時代のことわざに「天然痘は器量定め、麻疹は命定め」とあり、天然痘は顔にぶつぶつと跡が残るので器量が悪くなり、麻疹は命の危険があり、当時七歳まで育ったら神の子だと言い、幼児の生死は神の手中にあると言われていました。麻疹は2~30年ごとに流行し、特に文久二年(1862)にインフルエンザと共に大流行した記録が残されています。
現代のように予防、消毒施設や高度な医療が望めなかった江戸時代では、庶民は病気をもたらすものを邪気や悪霊と考えて伝染病流行の時は鐘馗、鬼面を戸口に張って疫除けしたり、赤色の玩具(赤べこ等)、御幣や錦絵で疱瘡神の退散を祈る等、神仏に祈り、おまじないや薬頼みでした。
薬は頭痛薬、胃腸薬、強壮剤、軟膏が開発され使用していました。しかしながらワクチンに相当する薬がなかったので伝染病にまじないや祈禱を行っていました。各藩でも疫病と戦っています。 日本は中でも天然痘、麻疹が流行。津、久居では久居藩祖の藤堂高通は三五歳の時に天然痘にかかりあばた面となり、娘の栗姫は一四歳で死去。三男で津五代藩主となった高敏は三六歳で死去。久居九代藩主高興は一八歳で死去しています。
更に津藩校有造館第三代督学となった齋藤拙堂は三歳の時に天然痘に罹ってあばた面になっています。いかにこれらの病気の感染力が強かったのかわかります。
人が病から救われるためには薬と医者が必要です。江戸時代には多くの名医が出ています。当時は今のように医者の免許制度がなかったので誰でも医者になれました。良き医者を志した者は名医のもとで修業を積んでいます。実力が必要です。  江戸時代中頃以降はオランダからの西洋医学と東洋医学の両方が共存となり、日本独自の高度医療の開発がされていきます。津、久居地域では三重の名医として小屋延庵、橘南渓、河合魯斎を挙げることができます。
小屋延庵は久居藩開府以来の医者家で七代目の名医は御典医をも務めています。河合魯斎は津市神戸出身の医者で人々に愛され慕われたいわゆる赤ひげ先生のような人物。橘南渓は久居藩百五十石の武士の五男で医者を目指し、人体解剖を行って、解剖図を表し、また脚気対策の本や旅行記などの著書も多く、近代医学の先駆者の一人です。
思想家で漢学者の齋藤拙堂は京都から種痘のワクチンをもらって自分の孫娘に種痘を実施しており、藩の人々の心配を取り除いています。齋藤拙堂や他藩の賢人らの勧めで津藩は修文館内と立町に種痘所を、久居藩は旅籠町に種痘所を設地し、緒方洪庵の適々斉塾門生である福島立庵を用いて松阪、鳥羽に出張所を開きました。後に天然痘は昭和55年に世界からその姿を消しました。各藩の典医、侍医、在郷医達はその心意気で、世のため、人のために大いに活躍をしました。
江戸時代二六〇余年間の名医たちは現代医学の源といえましょう。世界中の医療の発達は現在生きる私たちを心強くしてくれます。感染症は嫌だ!今回の令和の新型コロナウイルスの流行で大きく時世の変化があると思います。この試練で家族が更に一つとなり、これまでの日々を取り戻せるのかどうかコロナ感染症の終息の日が待ちこがれます。世界中の医療に携わる関係者の方々に私たちは感謝と敬意の気持で一杯です。本当にありがとうございます。
私たち人間は未来を見据えるのに新型コロナウイルス感染症をこれまで過去の歴史に学び、謙虚な心で共に協力して打ち勝つことだと思います。
(全国歴史研究会、三重歴史研究会、ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)