毎日、夕方のニュースで、各県別にその日のコロナ感染者の人数を報道していますが、いつしかそれを見るのが私の日課になってしまいました。このところ、三重県は徐々に減少してきました。
七月中旬に、今年は県外への旅行をやめて、伊勢にでも行こうかと、家族と相談し、昨年と場所を変え、温泉へ一泊旅行に八月中旬にでかけました。
いつものことながら、伊勢へ行くと、士清さんの事が頭に浮かんでしまいます。
伊勢は士清にとっては非常に縁の深い土地です。愛娘八十子が伊勢の御師職、蓬莱尚賢に嫁したことから、何度も伊勢を訪れているようです。
今回は士清の友人、幸田(度会)光隆について述べてみます。
士清は子世子明神の境内に『日本書記通証』『倭訓栞』『勾玉考』の草稿を埋め、反古塚をたてましたが、建碑の所に玉虫が三日間続いて現れたので、吉瑞と喜び、玉虫勧進の歌を募りました。その時、幸田光隆が「題谷川淡斎瘞稿図」を記しました。それには「洞津淡斎先生、日本書紀通証、倭訓栞、紙蔵諸石櫃をいれて碑たてた。三日間緑金蝉が出た」と、書かれていました。
『勾玉考』は奇石、珍石について士清が調べたことをまとめていますが、三輪山とか鈴鹿の長瀬神社、安濃郡長岡町、安濃郡五百野へは、自分で出かけて行っていると思われます。「勾玉考序」を書いたのも幸田光隆です。士清を先生と呼び、「穏やかで重厚、謙虚なお人柄で、まるで玉のようである」と、褒め言葉がつづきます。
光隆は『度会人物誌』によると、「幼児より和漢の学を修め、詩文に長じ、また神典にも通じ、宮崎文庫の講師たりしこと数年、著書に『山田人物誌』『談助篇』等がある」とあります。宮崎文庫は伊勢市にあった伊勢神宮外宮祠官度会氏の文庫で明治時代に内宮文庫の林崎文庫と合併し、神宮文庫と名を改めました。
『日本書紀通証』が出版されたのは宝暦十二年、士清は十三年に宮崎文庫、林崎文庫に献納しており、ちょうど蓬莱尚賢が士清の娘八十子を妻に向かえた時期で、伊勢との行き来があり、士清と光隆の交流が深くなったのだと思われます。
『藤花集』という光隆五十の賀を祝う、諸家の短歌を集めた物にも、谷川士清の名があります。これには河北景楨、平宣長(本居)も寄せています。

度会のぬしの五十を賀してよめる
谷川士清

しき浪の数にをとらんいせの海 よする齢も豊のみや人
(谷川士清の会 顧問)