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いよいよ奈良県と大阪府の県境を越え、柏原市へ入る。ここも大阪市のベッドタウンで25㎢の市域の多くを山間部が占めており、7万人弱の人々が暮らしている。市に入ってすぐの国道沿いにある近鉄大阪教育大前駅に無事辿り着き、この日はゴールを迎えた。時刻は16時過ぎ。下校時間ということもあり、駅のホームは大学生でいっぱい。到着した電車に乗り込んだ私は、今まで知らなかった柏原市について、スマートフォンでリサーチ。すると有名な戦いの舞台となった場所であることがわかる。
それは、1615年に徳川家康と豊臣秀頼が雌雄を決した大坂夏の陣における激戦の一つ・道明寺の戦い。豊臣方の後藤基次(又兵衛)が寡兵にも関わらず、徳川方を相手に激闘を繰り広げ、壮絶な最期を迎えた場所である。市内各地には古戦場の後を示す碑が建てられており、その主戦場となった付近にある玉手山公園にも基次の奮戦を称える碑と戦没者の供養塔がある。
基次は関ヶ原の戦いで戦功を挙げた黒田長政に仕えていたが、反りが合わず出奔。後に大阪城入りし、日本一の兵と今も語り継がれる真田信繁(幸村)や家康をあと一歩まで追い詰めた毛利勝永らと共に主力として戦った豪勇無双の士である。相対する徳川方の先鋒を率いていたのは水野勝成。明智光秀の官位だったことから避けられていた日向守を自ら欲するほどの豪胆さと、類稀なる武勇から鬼日向と呼ばれた猛将。勝成は家康の従兄弟で、いわばサラブレットだが、短気が災いしたおかげで父に勘当され、若い頃は槍一本を携え、様々な主に仕えた。短い期間だが長政にも仕えていた時期があり、二人は共に戦場に出たこともある間柄。年齢も基次が4歳上と近い。そんな二人が戦国最後の大戦で相まみえるのは運命のいたずらと呼ぶ他ない。
後日、国道から少し北にある玉手山公園を訪れ、慰霊碑の前で基次と勝成がどのような気持ちで戦ったのか、歴史の一幕に思いを巡らせる。「敵の大将は六左衛門(勝成の通称)か。齢五十を超えた今も自らが一番槍とは、いかにもあやつらしいわい」、「流石は又兵衛殿。劣勢にあっても一糸乱れぬ見事な用兵よ。しかし、いつぞやの殿争いと同じく勝つのは儂じゃ」。これはあくまで私の妄想に過ぎないが、現代に生きる私たちには及びもつかない感覚で二人の胸中は満たされていたに違いない。
ちなみにこの戦いから密かに落ち延びた又兵衛が植えたといわれる「又兵衛桜」が、ここから国道165号を津市向きに戻った先の宇陀市にある。ここまで国道を歩いてきたおかげで、この古戦場と桜の位置関係を当時の人たちの感覚でとらえることができる。「もしかしたら…」という伝承が生まれるにはちょうど良い距離感なのだ。
国道に話を戻そう。この旅の最終到達点である大阪市の新道交差点まで凡そ25㎞ほど。次回の行程がおそらく最後になる。どのような旅となるか非常に楽しみだ。(本紙報道部長・麻生純矢)
2022年3月24日 AM 10:09