津市と縁の深い映画監督、小津安二郎の「生誕120年記念映画祭in三重」が6月17日㈯12時半(開場12時、閉会16時45分予定)、三重県文化会館中ホールで開かれる。主催=小津安二郎生誕120年三重連絡協議会(田川敏夫会長)、後援=三重県、津市、津市教委、中日新聞社、本紙ほか。
 第1部(12時半~)では、小津安二郎監督が孫のように可愛がった俳優でエッセイストの中井貴惠さんによる音語り(朗読90分)とトーク「秋刀魚の味~小津安二郎映画を聞く~」
 第2部(14時40分~)では、小津監督の遺作となった名作「秋刀魚の味」をデジタル修正版で上映する。
 小津は、日本を代表する映画監督。「世界のOZU」として20世紀の文化芸術分野における世界最高峰の一人として認められている。普遍的テーマである「家族」を見つめ続け、家族こそが人間とその生活の原点であることを、映画を通じて訴えている。
 中でも『東京物語』(1953年)は2012年、英国Sight&Sound誌で世界の監督が選ぶ映画の第1位に輝いた。小津の世界的評価は、没後に長い時間をかけて高まっていき、生誕110年の2013年には世界三大映画祭(カンヌ、ヴェネチア、ベルリン)で小津作品が上映されるという快挙も成し遂げた。
 1903年12月東京で生まれた小津は、9歳の時に父の故郷である三重県松阪へ転居し、旧制宇治山田中学を卒業後、飯高町の宮前小学校で一年間、代用教員をしてから松竹蒲田撮影所へ入社している。小津の母も祖母も生粋の「津」の人で、津は小津の映画表現の根本にかかわる美意識を育てたところと言える。
 今回上映する「秋刀魚の味」=1962年カラー113分=は、これまでに小津が一貫して描いてきた、妻に先立たれた初老の父親と婚期を迎えた娘との関わりが、娘を嫁がせた父親の「老い」と「孤独」というテーマと共に描かれている。また、笠智衆演じる父親と中村伸郎、北竜二演じる友人たちとの応酬が喜劇味を加えている。
 入場無料。先着順、当日10時半から中ホール入口で整理券を配布(1人2枚まで)。
 問い合わせは事務局の岩間さん☎090・3389・1454ヘ。

 「津市一身田寺内町の館」で5月21日㈰まで「一御田神社の津指定有形文化財・神社外初の一般公開」が開かれている。同神社の本殿には、高皇産靈神と神皇産靈神が祀られている。神社の創立は不詳であるが、棟礼に嘉吉元年(1441年)のものがあるので、これ以前と思われる。寛文8年(1668年)に往古は天ッ宮と称してきた社号を高野山沙門春深により梵天宮と改称されたが、明治に至り往古の地名により一御田神社と改称された。
 昭和34年には、宝物である能面・棟礼・ささら・田植歌・扁額など27点が津市指定文化財に指定された。
 今回の一般公開は神社外では初めての展示となている。「またとないこの機会をお見逃しなく」と呼びかけている。
 公開時間は9時半~16時、休館日は毎週月曜(休日の場合は翌日)。
 問い合わせは同館☎059・233・6666。

 街道沿いの風情を残す集落を抜けるとJR紀勢本線の一身田駅の木造に瓦ぶき屋根の駅舎が見える。この路線のルーツが私鉄であることは余り知られていないかもしれない。四日市に本社があった関西鉄道が亀山から津間を走る津支線を明治24年(1891)に開通させ、この駅の歴史もその時に始まった。その後、日本が国際社会で台頭するために軍事輸送が強化されていく中で明治40年(1907)に関西鉄道が国有化された。津支線は明治42年(1909)に同じく国営化された私鉄・参宮鉄道(伊勢神宮の参詣路線)と共に路線を編成し、参宮線という名称となった。現在では紀勢本線に編入されており、新宮駅までの区間はJR東海が管轄している。
 この駅舎は大正時代に改築されたもので、高田中学、高校、短大の生徒たちが主に利用しているため、一日の平均乗車人数は1000人を超えている。私は最寄りの駅やダイヤの関係もあり、この路線を利用したことが一度しかない。それも大人になってからである。しかし、利用したのは亀山津間。計らずとも路線のルーツに準じた区間を利用していたことを後に知ることとなる。この駅では降りたこともないし、メインストリート沿いではないから前を通ることもないので、恥ずかしながらこれほど趣深い木造駅舎があることも知らなかった。
 踏切から線路を渡ると、すぐに大きな常夜灯が見えてくる。前の立て看板に目を通すと常夜灯の来歴がまとめられている。高さ8・6mで市内最大。文化14年(1817)伊勢別街道の宿場町であった窪田宿の東端にあった旅籠の近江屋と大和屋の隣につくられたもの。言い伝えによると、近江国(現滋賀県)の商人が伊勢神宮に寄進しようとしたが断念し、地元の人たちとの話し合いで、ここに建てられたと言われているそうだ。すっかり黒ずんだ偉容が、風雪に耐えて200年以上の歴史を証明している。街道を通る人は、60年周期でやってくる伊勢神宮の参拝ブームである「おかげ参り」の際には爆発的に増えた。特に文政13年(1830年)の際には当時の日本の人口約3000万人の6分の1に当たる約500万人が伊勢神宮にやってきたことからも当時の熱狂ぶりが伺える。主な交通手段が徒歩から自動車に変わり、それに合わせて周辺道路も整備された現在、常夜灯の前を地元の人以外が通ることは少なくなってしまった。参宮客の姿が絶えることが無かった往時と比べるべくもないが、ここに歩いて来ないと常夜灯をじっくりと眺めることができないと考えれば、徒歩旅の醍醐味といえる。
 国道23号中勢バイパスの交差点を西へと進み、街道を進む。明治2年(1869)3月10日に伊勢神宮を参詣した際、明治天皇がここで小休憩したことを示す石碑が残っている。翌月には、東京と改称した江戸を都として定める奠都が行われ、日本が欧米列強と肩を並べる近代国家として急速に発展していくことなる。
 ここで「遷都ではないの?」と思われた方も多いはず。実際に私もそう学んだ記憶がある。しかし、明治政府は奠都という言葉にこだわった。それぞれの違いは奠都が単純に都市を都と定めるだけに対して、遷都は旧の都を廃して新たな都へと移るというニュアンスが含まれる。つまり、奠都という言葉を使うことは、長きにわたり、日本の都であり続けた京都を蔑ろにしませんよという意思表示なのである。江戸時代には、徳川幕府が置かれた世界屈指の大都市・江戸を中心に政治や経済が回っていたが、あくまで都は京都、征夷大将軍も朝廷から任命される役職である。明治維新で国の中心となった天皇と政治中枢が東京に移れば実質的な遷都であることは間違いないのだが、それを公称すれば京都の人々の反発を買ってしまう。詭弁のようにも思えるが、正論を並べるだけでは人間関係の悪化を招くだけ。伝え方一つで、コミュニケーションに齟齬が生まれたり、トラブルに発展してしまうことなんて日常生活でもそう珍しくない。ここで私は自らを振り返る。妻との会話の中で、私が正論や理詰めによる「正しさ」を全面に押し出したせいで、酷い喧嘩に発展したことが何度もある。私たちが歴史を学ぶのは、大局を見据える判断材料を得る為だけではなく、日々の暮らしに生かせる教訓を得る為でもある。歴史の一幕から、また一つ賢く生きる術を学んだ気がする。(本紙報道部長・麻生純矢)

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