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時刻は12時前。関宿の東の追分にある大きな木製の鳥居「一の鳥居」が見えてくる。この鳥居は伊勢別街道と東海道の分岐点を示す目印でもあり、江戸時代中期に建てられたことが始まりと言われている。江戸時代の終り頃からは伊勢神宮の式年遷宮に合わせて20年に一回建て替えられるようになり、伊勢神宮内宮の宇治橋の鳥居の旧材が使用されている。
東海道47番目の宿場町として栄えた関宿。街道に沿って1・8㎞にもわたって江戸時代から明治期の町屋が軒を連ねる様は風情に溢れており、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。人の少ない平日の特権で、じっくりと町並みを愛でながら、小公園の百六里庭まで移動。ベンチに腰掛けてスマートフォンのアプリでJR亀山駅から、ここまで歩いた記録を確認。歩数は約1万8千歩、距離は14㎞。ひとまず伊勢別街道を歩くという目的は達成されたので、ここからは東海道を西へ進み、京都の三条大橋をめざすことになる。日没まで相当時間があり、体力的にはまだ余裕があるとはいえ、今から鈴鹿峠を歩いて超えられるかと言われたら少し自信が無くなる。一人旅なので送迎も期待できず、峠の向こうの交通事情には全く明るくないため、無理をして戻ってこられなくなるのが一番怖い。ここからであればJR関駅から亀山駅までは確実に戻れるし、次回の再スタートも容易。そう考えると潮時だろう。考えがまとまると私は立ち上がり、敷地内にある建物「眺関亭」に登る。視界一杯に広がる瓦屋根を眺めながら、この先の旅に期待を膨らませる。
その後、街道沿いの福蔵寺に立ち寄る。ここは織田信長の三男・信孝の菩提寺。信孝の母は、兄である嫡男・信忠と信雄の母と比べると身分が低く、彼の織田家での序列は兄たちよりも一歩劣っていた。しかし、明智光秀による本能寺の変が起こり、信長と家督を継いでいた信忠が横死すると好機が巡ってくる。信孝は中国大返しで畿内へと舞い戻った羽柴秀吉と合流し、光秀を討つ功を手にしたのだ。これで、政治の主導権を握れると思われたが、全ては天下を狙う秀吉の掌上。後に、秀吉と対立を深めた信孝は政治と軍事の両面で完敗し、自害に追い込まれる。享年25歳。
この寺は元々、信長の冥福を祈るために信孝が建立したが、前述の経緯で信孝自身が亡くなったために菩提寺となった。境内にある信孝の墓前で目を閉じ、手を合わせ冥福を祈りながら、私の心中に歴史の敗者である彼の悲劇は決して他人事ではないという感情がわきあがってくる。というのも私の母方の祖母が細川藤孝・忠興に仕えた譜代の家臣の家の出だからだ。細川親子は、本能寺の変後に、縁が深かった光秀の協力要請を断って秀吉につき、その後も難局を乗り切り、最終的に肥後五十二万石を有する大大名となった。しかし、一つ選択を誤れば、信孝と同じように滅びていても不思議ではなく、今この文章を書いている私も存在していない。
歴史上の出来事の結果を知る私たちは、いわば超越者的な視点から、敗者の至らぬ点を批判しがちである。しかし、勝者と敗者の差など、まさに紙一重。一寸先すら見えない闇の中、一筋の光明を掴むために知恵を振り絞り、必死に行動した結果、明暗が分かれたに過ぎない。我々も先の見えない人生の戦いの真っ最中である。それがどう幕を閉じるかは誰にもわからないが、勝敗に関わらず果敢に生きた先人への敬意を忘れない自分でありたいと願う。
福蔵寺を後にした関宿を西の追分まで歩き、JR関駅から電車で帰路についた。次回は鈴鹿峠を越えるところから。(本紙報道部長・麻生純矢)
2023年9月28日 AM 4:55