旧東海道を辿りつつ私は、坂下宿の方へと入っていく。普段、鈴鹿峠を越える場合は、国道1号を通るので、この辺りを歩くのは初めて。静かな山里の景色だけでなく、空気の肌触り、漂うにおい、生活の息遣いなどの音を五感で楽しみ、記憶に刻み込んでいく。
 途中、コミュニティ施設の「鈴鹿馬子唄会館」と、登録有形文化財にも指定されている旧坂下尋常小学校の木造校舎を活用した施設「鈴鹿峠自然の家」の下を通り過ぎる。馬子唄とは昔、馬に荷物や人を乗せて運ぶ職業の人たちの間で歌われていた労働歌で、鈴鹿馬子唄は民謡として今も歌い継がれている。「馬子にも衣装」ということわざも汗と泥にまみれた服で、懸命に働く馬子たちの姿に起因している。
 少し進むと坂下宿。東海道五十三次の48番目の宿場町で東の箱根と並ぶ難所の麓ということもあり、江戸時代には参勤交代で江戸に向かう大名が宿泊する本陣や脇本陣も含めて、多くの宿屋が軒を連ねていた。現在は、集落の真ん中に立派な二車線道路が走っており、その工事で往時の町並みは失われているが、本陣や脇本陣跡の石碑が残っている。元の坂下宿は更に西の峠寄りの場所にあったが、洪水によって壊滅したため、現在に移されたという経緯がある。ここまで一時間ほど歩き詰めだったので、集落の途中にある公園で一休み。年季の入った動物をかたどった遊具はなんともいえない趣があるが、流石に童心に帰って遊具で遊ぶほど、はしゃいではいない。ポケットからスマートフォンを取り出してグーグルマップ上で、ここからのルートを確認する。ネット上には有志によって、旧東海道のルートがマップ上に打ち込まれているので、それを辿れば道を間違えることが無い。便利な世の中になったものである。坂下の集落を抜けた後は再び国道1号に合流し、峠の方を目指す形になるようだ。しかし、ここに落とし穴が潜んでいた。
 鈴鹿峠の国道1号は登り専用と下り専用で道路が分かれており、先述のルートでは登り側に誘導されている。いざ、登り側に来てみると、歩道がないだけでなく、二車線共に同じ方向に車が走っており、右側通行がほぼ意味をなさない。すぐに下り側に戻ると、こちらには、しっかり歩道が整備されていて一安心。インターネットによって、自分が知らない情報を簡単に得られるようになった反面、その正確性は自分の知識や経験によって確かめるしかない。結局のところは「百聞は一見に如かず」ということを痛感する。
 国道から再び、旧東海道に戻ると、針葉樹の林に覆われており、路面は、茶色くなった枯れ葉と鮮やかな緑の苔がコントラストを織りなしている。少し奥には元の坂下宿があった場所があり、目を凝らすと生い茂る木々のところどころに石垣が残るなど、人の営みの痕跡が感じられる。400年ほど前にこの閑寂とした場所が多くの旅人で賑わっていたことや、新しい坂下宿も今は姿を消していることを思うとまさに諸行無常である。(本紙報道部長・麻生純矢)