2024年2月

石水博物館の桐田さんが講演会で内容を紐解く

 2月17日、津センターパレスで行われた津藩祖・藤堂高虎を顕彰する「ときめき高虎会」の歴史講演会で、(公財)石水博物館学芸員の桐田貴史さんが登壇。「『藤堂家覚書』最古の高虎伝を読み解く」と題し、資料の記述から伺える高虎やその家臣たちの姿に迫った。

 石水博物館所蔵の藤堂家覚書は津藩祖・藤堂高虎の最古の伝記資料。寛永18年(1641)2月、江戸幕府3代将軍・徳川家光の命で、諸大名の系譜をまとめた『寛永諸家系図伝』の編纂が開始された。それに当たって、幕府からは諸大名の徳川家への忠節や事績、関係など記載すべき事柄をまとめるよう指示があった。津藩でも同年7月3日を期限に数種の覚書が作成され、藤堂家覚書もその一つに当たる。
 講演会で桐田さんは、最初に藤堂家覚書の特徴を紹介。幕府がまとめた『寛永諸家系図伝』に記載されている高虎伝が家康・秀忠への忠誠のみが強調されているのに対し、藤堂家覚書には豊臣家との関係や家臣らの活躍など多彩なエピソードを収録。生前の高虎と共に戦った武士たちからの聴き取りが元となっているため、公文書に使う漢文ではなく、漢字かな交じりの文体で記されており、戦国時代を知る最後の世代の肉声を記録している。長さ約8mに及ぶ覚書の巻末には藤堂仁右衛門家の藤堂高広ら一門、西嶋八兵衛ら重臣計8名の花押(サイン)が据えられていることからも、当時記された原本であると判断できる。寛永諸家系図伝のために作成された藩祖の伝記資料の中で原本が残る唯一の事例で日本史的にも極めて価値が高く、高虎の死後11年後に編纂された信憑性の高い資料とした。
 内容としては、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士に生まれた高虎が父・虎高と共に参戦した元亀元年(1570)の姉川合戦から江戸上野に東照宮を建立する寛永3年(1626)の56年間を記述。構成は①豊臣秀長への奉公②慶長の役③関ヶ原合戦④大坂の陣。それぞれの要旨は以下。
 ①は浅井長政から点々と主人を変えてきた若き高虎が秀長の下で武将として活躍する姿を強調。織田信長に謀反した別所氏が立てこもる三木城の攻城戦で一番槍を挙げたことなど高虎の記録という側面に加え、最古参の家臣である居相孫作の但馬国一揆での活躍も語られるなど家臣団の記憶としての側面がある。
 ②は分量の約4分の1を占めており、徳川家への忠誠を強調すべき寛永諸家系図伝の性質を考えると異例。本来は豊臣家への忠義を示した慶長の役の描写はもっと簡素であるべきだが、朝鮮水軍との戦闘で高虎が負傷する様や家臣の苦闘などが生々しく描かれている。これは聞き取りをした古参の家臣の記憶に、異国での戦いの光景が焼きついていたことに由来しており、高虎の記録と家臣団の記憶という二つの要素を結びつけるために作成された資料といえる。
 ③は最も多くの記述があることから、家中では徳川家に対する最高の奉公と認識されていることが推測できる。高虎と家康の親密な関係が秀長に仕えていた頃に遡ると紹介され、石田三成と家康の対立が明らかになった際、動揺する諸大名に先駆けていち早く家康へ奉公したことなど、他の外様大名との差別化を意図した記述がある。関ヶ原合戦では井伊直政や本田忠勝と共に家康が到着する前に西軍と戦端を開こうとする諸将を制止し、小川祐忠・脇坂安治を調略で寝返らせるなど抜群の戦功を記録。藤堂新七郎(良勝)の一番首、藤堂仁右衛門(高刑)が大谷吉継の母衣衆(親衛隊)の湯浅五助を討ち取ったこと、藤堂玄蕃(良政)の討ち死になど、家臣の功績も記されている。
 ④は編纂時から直近かつ最後の合戦である夏の陣で、津藩は諸大名で最大級の戦死者を出し、論功行賞の最後の機会に関わらず、記述は簡素。幕末に関連資料を基にまとめられた高虎の伝記である高山公実録は全50巻のうち23巻が大坂の陣関連が占めているのとは対照的。同時代に大坂の陣に参加した武士たちの記憶をまとめた文書などが多く作られているため、藤堂家覚書の他にも資料があった可能性がある。
 まとめとして、桐田さんは「藤堂家覚書は高虎最古の伝記だが、ここに書かれているのが本来の姿とは思わない。あくまで死後11年後に一緒に戦った家臣から見た高虎ということを忘れてはならない」とした。一方で「高虎の記録と家臣団の記憶という二つの要素が交錯しており、津藩は高虎の力だけでなく、優秀な家臣の活躍と犠牲の上に成り立っていたという共通認識があった」とし「藤堂家覚書は高虎伝であると同時に藩史」と締めた。
 藤堂家覚書で、草創期より高虎を支えた家臣たちが口々に功績を語る姿は、家格が高い大名のように代々仕える家臣を持たない高虎が非常に近い距離感で家臣と接し、団結してきた証拠ともいえる。高虎と家臣の強い絆を改めて垣間見られるのは非常に興味深い。

 

美しく咲くしだれ梅

津市藤方の結城神社で「しだれ梅まつり」が開かれている。
 南朝の忠臣・結城宗広公を祀る同神社は紅白のしだれ梅約300本が咲き乱れる東海地方屈指の梅の名所。現在ちょうど見頃を迎えている。
 また、同神社は宗教・宗派の壁を越えた霊場めぐり『伊勢の津七福神』の福禄寿霊場でもあり、2月24日11時からは七福神の他の6寺社(四天王寺=栄町=・津観音=大門=・円光寺=河芸町上野=・初馬寺=栄町=・高山神社=丸之内=・安楽寺=一志町波瀬)と共に「観梅祈願祭」を開催する。参拝者は御志納金千円を納めた上で、梅園を回遊できる。梅園の拝観料は大人800円、小人(小中学生)400円。しだれ梅まつり開催中の開苑時間は9時~17時。
 問い合わせ☎059・228・4806。

昨秋の褒章で黄綬褒章を受章した「むらた表具店」=津市一身田上津部田2129番地の3=店主の宮﨑祐史さん(46)の「受章祝賀会」が11日、四日市都ホテルで開かれ、櫻井義之・亀山市長、三重県技能士会会長の松浦貞勝氏をはじめ表具業界、紙業界、恩師、表装師仲間など約80名が出席した。主催=発起人会。
 宮﨑さんは亀山市出身。日本画家の父に影響されて表装の世界に入った。真宗高田派本山専修寺の御用達表具処の指定を受け140年の歴史を持つ「むらた表具店」に弟子入りし、先代の村田義行さんの指導のもと掛軸修復・ふすま、額装、屏風、表具などの技に磨きをかける。現在、11代目村田善右エ門を伝承し、全国の寺院の表装・修復も手がけている。
 平成31年3月に第30回技能グランプリ一般製造部門・表具職種で最高賞となる内閣総理大臣賞を受賞。令和4年11月には「現代の名工(卓越技能章)」に選出された。
 祝賀会で櫻井市長は「日本画家のお父上やご家族ともに公私にわたって長くお付き合い頂いている立場として受章に感激している。マイスターの匠の技が問われている現代にあって、受章をひとつの礎として技術を継承して頂き、ひいては人づくりに繋がることを願っています」と祝辞を述べた。
 宮﨑さんは「表具師として今日あるのは、今まで私に携わって頂いた皆様のおかげ。恩師の村田義行さんには技術はもちろん、人としての道筋を示して頂いた。簡単には言い表すことはできませんが、心より感謝申し上げます。日本画家の父に表具師への道へと導いてもらい、母には陰ながら支えてもらった。少しばかり孝行できたと思います。受章は光栄ですが、ここからが新たなスタートです。またまだ職人として、ひとりの人間として未熟者ですが、日々感謝の気持ちを忘れず、一層精進して参ります」と気持ちを表した。
 また、村田義行さんは「思い立ったらすぐに行動するのが宮﨑君の良いところ。日本の伝統と技を伝えて行ってほしい」とエールをおくった。

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