新商品の「ジズライザーエレスマート90」(左)とジズライザー2個パックを手に北村社長

大手企業の下請けに頼ることなく、独自商品を開発し続けることで中小企業の新たな活路を見出してきた津市庄田町の㈱北村製作所=北村清司社長=がこのほど、同社が独自に展開するブランド「ジズライザー」シリーズに、充電式刈払機に最適化した「エレスマート90」を加え、2月中旬より販売を開始する。
 ジズライザーは、刈払機の先端にある刈刃の押さえとして装着するもの。刈払機と共に高速で回転することで発生するジャイロ効果(姿勢を安定しようとする現象)により、安定した操作性を実現。女性や高齢者でも使いやすく、作業性抜群の〝地ズリ刈り〟で草刈りの疲労を軽減するとの好評を得て大ヒット。
 以来、様々な派生商品を「ジズライザーシリーズ」として開発し、市場のニーズに応えてきた。現在までに同シリーズは累計販売数650万台を突破するなどヒット商品を生み出し続けている。
 「エレスマート90」は昨今、普及が進む充電式刈払機に最適化した製品。サイズは直径90㎜、厚さ20㎜。重さは従来のジズライザーより10g軽い68gとし、接地面積を24%少なくしたことで摩擦抵抗が減少、バッテリーの負荷を軽減する。もちろん作業性の良さは従来通り。
 北村社長は「刈払機安定板のパイオニアとして広くご愛顧いただいている当社として、充電式刈払機に対応する製品の開発は責務であると考えておりました。約1年間、試行錯誤とテストを繰り返してようやく自信を持って発売できるようになりました」と話す。末端小売価格税込1180円。
 このほか、従来の「ジズライザー」(直径100㎜、厚さ20㎜)を2個パックにした新商品も発売。こちらは末端小売価格税込2280円。
 JA・農機具店、全国のホームセンターなどで販売予定。
 問い合わせは同社☎059・256・5511。

 津城復元の会(西田久光会長)は4月14日(日曜)津リージョンプラザお城ホールにて、「津城復元第8回資金造成チャリティーコンサート」を開く。12時開場・13時開演。後援=(一社)津市観光協会、津観光ガイドネット。
 今回の協賛出演は
 ①マンハイム・カルテット=ソロや室内楽団、オーケストラなどで活躍しているフルート岡本有希、ヴァイオリン中村葉子、ヴィオラ足立順子、チェロ中野雅敏らが2018年に結成した四重奏団。クラシックからジャズ、タンゴ、映画音楽、ポップスまで様々なジャンルの幅広いレパートリーを持ち、県内各地で演奏している。
 今ステージでは、モーツァルト「フルート四重奏曲第1番ニ長調KV285」、E・モリコーネ「ガブリエルのオーボエ」「ニュー・シネマ・パラダイスより愛のテーマ」、ガルデル「ポル・ウナ・カベーサ」、ピアソラ「リベルタンゴ」、スウィング・ジャズ・メドレーなどを演奏する予定。
 ②かつてカーネギー・ホールで演奏したこともある一絃琴の名手、津市分部の本願寺住職・荒井眞道尼が率いる一絃琴正流・清壽会。「そして たのしく」をテーマに古典からお馴染みの唱歌、昭和歌謡まで演奏。出演は他に一絃琴=別所悠紀子、西村政伊、奥山文子、姫野由美、尺八=牧原一路、太鼓=伊藤卓哉、ギター=岸宏勝、歌=落合悦子、後藤晴子、東尾克己、ほか。賛助出演は本願寺詠歌講。
 荒井尼は年齢が80歳を超え「大々的に演奏できるのは今回が最後かも。みんなで渾身の演奏をお聴かせしたい」と張り切っている。
 また、コンサート冒頭では、復元の会役員で城郭に詳しく、安濃津ガイド会のボランティア・ガイドとしても活躍している深見和正が「津城について」と題してミニ講演も行う。(敬称略)。
 全自由席千円(前売完売の場合は当日売りはなし)。前売券取扱所=アスト津1階津駅前観光案内所、大門の近藤楽器、中央の三重額縁、東丸の内・本紙。
 因みに復元資金は年末現在で延べ約3万2500名から7331万円の浄財が寄せられている。問い合わせ実行委員長・西山実江さん☎090・7315・5308へ。

 

日も暮れ始めた17時前、ようやく東海道五十三次の五十番目の水口宿へと続く集落の入り口に到着。スタート地点のJR関駅から鈴鹿峠を経由し、ここまで歩いた距離は30㎞を超えている。ゴールの近江鉄道水口石橋駅まではもう数㎞という距離まで来た。
 1・5㎞ほど閑静な住宅街を歩いていくと、夕闇に浮かび上がる小高い山が目に飛び込んでくる。あの山の上には国史跡の水口岡山城跡がある。天正13年(1585年)に、この城を築いたのは、豊臣秀吉の腹心・中村一氏で、京の都から伊勢国へと通ずる交通の要衝を守る軍事拠点。築城の際に、宿場町の原型が山の南側に整備され、江戸時代には「街道一の人止場」と呼ばれるくらい栄えた。天正18年(1590)に、豊臣政権の中枢を担う五奉行の増田長盛、文禄4年(1595)には同じく五奉行の長束正家が入城していることからもこの城がいかに重要視されていたかが伺える。
 この城の最後の城主だった長束正家は、数多の戦国武将の中でもひときわ異彩を放つ存在である。といっても正家は一騎当千の武勇や軍勢を自在に操る将才、はたまた謀略を巡らせるのに長けたわけではない。正家が誰よりも優れていたのは算術である。元々、織田信長の宿老・丹羽長秀の家臣だったが秀吉に直臣として取り立てられ、政権の財政を担う優秀な行政官として活躍した。
 正家の人間性を強く印象付けるエピソードを紹介しよう。天下をねらう秀吉は、強大な丹羽家の力を削ぐため、長秀の死後に領地没収や重臣の引き抜きを行っただけでなく、不正会計疑惑をでっち上げた。これに対して丹羽家の財務管理を任されていた正家は、完璧な帳簿を提出して主家を守った。そんな正家の気骨溢れる姿に秀吉も信頼を寄せたのであろう。
 正家最大の見せ場と言えば、秀吉の天下統一を決定付けた天正18年(1590)の小田原征伐である。秀吉は難攻不落の小田原城を陥落させるため、本隊だけでも15万を超えるといわれる空前絶後の大兵力を動員した。しかし、それほどの大軍を動かすためには、膨大な兵糧が必要となり、その管理を担ったのが正家である。正家は緻密な計算を行い、20万石にも及ぶ兵糧を滞りなく輸送しただけでなく、小田原周辺の米を買い占めて兵糧攻めまで行っている。
 しかし、そんな正家も非業の最後を迎える。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、石田三成らと共に西軍の中心として、前哨戦の安濃津城攻めなどに参戦したが、本戦では、東軍を率いる徳川家康と密かに通じていた吉川広家の妨害で戦うことすらままならず、撤退を余儀なくされた。その後、水口岡山城へと攻め寄せた池田長吉、亀井茲矩らから、開城と引き換えに助命すると欺かれ、重臣たちと共に捉えられた。そして切腹させられた上で京の三条河原に首を晒された。正家の正室・栄子は城を脱し、男児を出産した後に亡くなったといわれており、彼女を弔う供養塔「姫塚」が建てられている。城は落城後に、ほどなくして破却されている。
 水口岡山城跡は標高289mの大岡山の尾根の東西に沿って廓が配置されており、大きな堅堀、石垣、虎口の跡などからも、往時の偉容を窺い知ることができる。以前に城跡を訪れた時は、正家に思いを馳せながら、城下を見つめていたことを思い出す。今は逆に城のある山を見上げつつ、正家への敬意を胸に、水口宿へと入っていく。(本紙報道部長・麻生純矢)

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