検索キーワード
日も暮れ始めた17時前、ようやく東海道五十三次の五十番目の水口宿へと続く集落の入り口に到着。スタート地点のJR関駅から鈴鹿峠を経由し、ここまで歩いた距離は30㎞を超えている。ゴールの近江鉄道水口石橋駅まではもう数㎞という距離まで来た。
1・5㎞ほど閑静な住宅街を歩いていくと、夕闇に浮かび上がる小高い山が目に飛び込んでくる。あの山の上には国史跡の水口岡山城跡がある。天正13年(1585年)に、この城を築いたのは、豊臣秀吉の腹心・中村一氏で、京の都から伊勢国へと通ずる交通の要衝を守る軍事拠点。築城の際に、宿場町の原型が山の南側に整備され、江戸時代には「街道一の人止場」と呼ばれるくらい栄えた。天正18年(1590)に、豊臣政権の中枢を担う五奉行の増田長盛、文禄4年(1595)には同じく五奉行の長束正家が入城していることからもこの城がいかに重要視されていたかが伺える。
この城の最後の城主だった長束正家は、数多の戦国武将の中でもひときわ異彩を放つ存在である。といっても正家は一騎当千の武勇や軍勢を自在に操る将才、はたまた謀略を巡らせるのに長けたわけではない。正家が誰よりも優れていたのは算術である。元々、織田信長の宿老・丹羽長秀の家臣だったが秀吉に直臣として取り立てられ、政権の財政を担う優秀な行政官として活躍した。
正家の人間性を強く印象付けるエピソードを紹介しよう。天下をねらう秀吉は、強大な丹羽家の力を削ぐため、長秀の死後に領地没収や重臣の引き抜きを行っただけでなく、不正会計疑惑をでっち上げた。これに対して丹羽家の財務管理を任されていた正家は、完璧な帳簿を提出して主家を守った。そんな正家の気骨溢れる姿に秀吉も信頼を寄せたのであろう。
正家最大の見せ場と言えば、秀吉の天下統一を決定付けた天正18年(1590)の小田原征伐である。秀吉は難攻不落の小田原城を陥落させるため、本隊だけでも15万を超えるといわれる空前絶後の大兵力を動員した。しかし、それほどの大軍を動かすためには、膨大な兵糧が必要となり、その管理を担ったのが正家である。正家は緻密な計算を行い、20万石にも及ぶ兵糧を滞りなく輸送しただけでなく、小田原周辺の米を買い占めて兵糧攻めまで行っている。
しかし、そんな正家も非業の最後を迎える。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、石田三成らと共に西軍の中心として、前哨戦の安濃津城攻めなどに参戦したが、本戦では、東軍を率いる徳川家康と密かに通じていた吉川広家の妨害で戦うことすらままならず、撤退を余儀なくされた。その後、水口岡山城へと攻め寄せた池田長吉、亀井茲矩らから、開城と引き換えに助命すると欺かれ、重臣たちと共に捉えられた。そして切腹させられた上で京の三条河原に首を晒された。正家の正室・栄子は城を脱し、男児を出産した後に亡くなったといわれており、彼女を弔う供養塔「姫塚」が建てられている。城は落城後に、ほどなくして破却されている。
水口岡山城跡は標高289mの大岡山の尾根の東西に沿って廓が配置されており、大きな堅堀、石垣、虎口の跡などからも、往時の偉容を窺い知ることができる。以前に城跡を訪れた時は、正家に思いを馳せながら、城下を見つめていたことを思い出す。今は逆に城のある山を見上げつつ、正家への敬意を胸に、水口宿へと入っていく。(本紙報道部長・麻生純矢)
2024年2月8日 AM 4:55