士清生誕三百年祭も無事に終え、「谷川士清の会」も、地に足がついてきたように思えてきた五、六年前、まずは自分でやってみようと、難解な漢字の読みと意味を、県立図書館の『大漢和辞典』等で調べ、直訳で考えました。何ともたどたどしい文になってしまいましたが、道の上をしっかり踏みしめて歩いている気もしました。
 話の途中、近くの安濃郡五百野、安濃郡長岡町、少し離れて、鈴鹿郡長瀬神社も出てき、三輪山を含め、士清さんが実際歩いて調べていることが想像できます。また、たくさんの書物を読んでおられることも随所から伺えました。
 士清さんが『勾玉考』を出版したのが一七七四年、一六歳年下の木内石亭さんが『勾玉問答』を著したのは一七八三年です。『勾玉考』にも二人の親密さが窺える箇所があります。
 松浦武四郎記念館で講義された米本一美氏の土殷けつと石亭さんが『雲根志』に書いた土殷けつ、そして士清さんが記した菅玉との関係はどうなのかと、どんどん繋がっていきました。これは勾玉は女性の憧れだけでなく男性の憧れでもあったことを証明しています。
 士清さんは今でいう「子持ち勾玉」を「太古の刀剣」とし、石剣の柄頭と考えていました。この説は木内石亭や藤貞幹らに受け継がれ、「子持ち勾玉=柄頭」とされていました。この考えは、明治一七年、神田孝平(洋学者・蘭学者・政治家)が『日本太古石器考』において一〇項目ほどの理由で「子持ち勾玉=勾玉の一種」とするまで続きました。特に次の二つが印象に残ります。○勾玉は多く古墳より出るが、石剣頭は未だかつて古墳から出たとは聞かない。○曲玉も子持ち勾玉も小さな穴がひとつある。
 士清さんも人間、間違いもあるんだと思えた話でした。
 士清さんの人柄をよく表している部分を訳で書きます。
 「右勾玉考一篇、諸家塾に刻む、似て同志に差し上げる、ただ転写の労を省くのみ、発売はゆるさず、総じて全体の利益である」

  (谷川士清の会顧問)