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㈱岩出菌学研究所(津市末広町1の9。池田豊代表取締役)が、5月18日㈯、きのこへの関心を高めてもらおうと、「光るきのこ!ワークショップ」を開催した。
光るきのこ、ヤコウタケは、小笠原諸島、伊豆大島の八丈島に自生し、降水量の多い5月頃に緑色に発光することで知られる。当日は三重県内および愛知県、大阪府から16組(31名)の親子が参加した。
岩出菌学研究所の所長で農学博士の多田有人さんが日本国内の光るきのこの紹介や特徴、きのこ自体の生体について他の光る生物との色の違いを解説した後、乾燥したウミホタルを水で濡らして潰すことにより青く光る実験も披露し、参加者らは光の美しさに驚いていた。
参加親子は、「夏休みの自由研究に応用します」などと話し、興味を示していた。
2024年6月13日 AM 4:55
石部金吉(金兜)という言葉をご存じだろうか。生真面目で融通が利かないお堅い男性を表現する言葉である。ただし、色欲に負けない道徳的な人間というニュアンスもあるため、単純な悪口とも言い難い。なぜこんな話をするかというと、その語源は東海道の51番目の宿場町である石部宿の近くにあった石部金山に由来するともいわれているからだ。
石部宿は京都を出発した旅人が最初に泊まる宿場としても有名だった。江戸時代の人が一日で步く平均的な距離が9里(36㎞)から10里(40㎞)と言われており、この京都から石部宿までの距離も38㎞。朝に出発して夕方くらいにつくのが一般的だったため、「京立ち、石部泊り」という言葉が定着していた。多くの人が無理なく、毎日フルマラソンに近い距離を歩いても支障なく旅が出来た当時の人の健脚ぶりには驚かされる。この旅では、一日に歩く距離を20㎞前後に設定しているので、先人たちには遠く及ばない。
石部宿は真っすぐ引かれた街道に沿って、参勤交代で大名が宿泊する2つの本陣と多くの宿が立ち並ぶ宿場町だったが、残念ながら現在は当時の町並みは残っておらず、その残り香を辿るしかない。石部本陣跡には街角サロンの「いしべ宿驛」が整備されており、街道を旅する人たちや地元の人たちの憩いの場となっているようだ。ゆっくりと休憩したかったが、時間的に少しシビアなため、今回は先を急ぐ。石部宿の途中で街道が直角に曲がる「鉤の手」が設けられており、敵が容易に進軍先を見通せない工夫が施されている。
後日、石部宿について調べ物をしようとインターネット検索をすると「石部宿の惨劇」という物々しい候補が出てくる。凄惨な殺人事件でもあったのだろうかと、野次馬根性で検索してみると、幕末の「江州石部事件」のことであることが分かった。
この事件のきっかけは、幕末に江戸幕府の大老だった井伊直弼が主導した安政の大獄。ご存じの方も多い安政の大獄の発端は江戸幕府の第13代将軍・徳川家定の継承問題。直弼が率いる政権中枢にいた譜代大名が中心の南紀派は血筋を重視したため紀州藩の徳川家茂を推し、相対する一橋派は水戸藩の一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推した。両派閥はアメリカへの開国を巡る対応でも対立を深めており、やがて朝廷を巻き込んだ争いへと発展していく。直弼は、尊王攘夷の色が強い一橋派や、それに連なる大名・公家・志士らに苛烈な弾圧を加え、吉田松陰らが死罪となってた。これが大まかな安政の大獄流れで、その報復として、水戸浪士が直弼を殺害したのが安政7年(1860)の桜田門外の変である。文久2年(1860)に起った江州石部事件は、安政の大獄に協力した役人たちが報復として各地で暗殺された事件の一つ。京都西奉行所の与力・渡辺金三郎ら4名を暗殺するため、土佐、長州、薩摩の志士が協力し、計25名の刺客を差し向けた。志士は与力ら4名を暗殺後、うち3名の首を京都の粟田口に晒した。
私は過去の歴史的事件について、現代を生きる私たちの価値観に当てはめて善悪や美醜を考えるべきではないと強く思う。しかし、この事件から、今も中東で繰り返される憎しみの連鎖を連想せずにはいられない。復讐は空しいだけなんて綺麗ごとを言うつもりはないが、報復が続く限り、争いは永遠になくならないのもまた真理。明治維新という権力構造の再構築の過程で、旧体制側に罪を押し付けて一連の憎しみをなんとか抑え込んだことで、現代も国内の平和は保たれている。
ただこの事件やその発端である安政の大獄も含め、どの陣営の人間も極めて真面目で己の信じる正義に真っすぐな「石部金吉」揃いだったのではないかと思う。正義と正義がぶつかった時、力や理屈(時には根回し)で対立する相手をねじ伏せるやり方は、現代を生きる私たちも是としがちであるが禍根を残す。
石部宿の西の入り口には東海道五十三次の全体図碑が設置されており、これまでの道程を少し振り返ることができる。私が歩いたのは、47番目の関宿から51番目の石部宿なので、全体の10分の1にも満たないが、碑を眺めているだけで数珠つなぎに旅路の光景が蘇ってくる。東海道の全行程を踏破すれば、比べ物にならないほどの経験が得られることだろう。東海道を約二週間かけて移動した東京京都間は今や新幹線で約2時間。約168倍のスピードで移動できるようになり、私たちは沢山のものを得た反面、沢山のものを失ったのかもしれないと杞憂する。
さきほど紹介した一連の事件は、風雲急を告げる時代の出来事だったことも理解している。だが、どんな時でも、自分とは違う正義の存在を認める寛容さと対話を試みる努力の必要性を、石部金吉という言葉が生まれたこの地で起きた事件を通じて学べたような気がする。歩みも対話も、終着点や結論ばかりを見るのではなく、時には、じっくりと過程を楽しんだ方が良い結末を迎えられることもあるだろう。徒歩旅を続けるほどにそれは確信めいたものへと変わっていく。(本紙報道部長・麻生純矢)
2024年6月13日 AM 4:55
津南ロータリークラブ(以下RC)=今西孝彰会長=が5月26日朝、ゴミゼロ例会を阿漕浦海岸にある「友愛の庭」で行った。
同クラブは昭和51年11月10日、設立10周年記念事業の一環として、三重国体開催の地である津ヨットハーバー前にある「友愛の庭」に植樹コーナーを寄贈し、以来、毎年ゴミゼロ運動の名称で清掃活動をしてきたが、当時の阿漕浦一帯は心無い人の捨てた空き缶やゴミが山積しており、清掃が追いつかず、いつしか海岸一帯はゴミの山に。
昭和55年(1980)に当時の広田正夫会長は、それまでロータリー会員だけで取り組んでいた清掃活動を地域全般に広げようと、「とり戻せ、きれいな伊勢の海と山」のスローガンのもと橋南地区自治会、社会福祉協議会などに呼びかけ、老人会、婦人会、子ども会、ボーイスカウトなどの団体の協力を得て、同年10月の第1回に続き、翌年には1000人を超える地域住民による第2回阿漕浦海岸清掃が実施された。
同RCは活動の輪を広げる起爆剤としての役目を終えたとして、現在は
地区社会福祉協議会等が主催運営を引き継いでいるが、同RCは独自に清掃活動を行っている。
当日は、45名が参加。「友愛の庭」にうっそうと茂った草を刈り集めながら落ちていたゴミも拾い、ヨットハーバーの美化に貢献していた。
2024年6月13日 AM 4:55