民間救急の仕事は患者搬送が多いが、それ以外にも遠出の搬送・付き添いの仕事もある。
 社会には、介護が必要なために好きな旅行や遠出ができないという人もいる。他の人達に迷惑をかけそうで気が引けたり、同様のことで余計に家に引きこもりがちになる人も多い。このような家族の思いに寄り添うのも我々の大切な仕事なのだ。今回は、それを見事にクリアした家族の思い出旅をご紹介する。
 案件は、車椅子を利用している母親を連れて故郷の四国まで二泊三日で連れて行きたいとのこと。大切な親に最高の親孝行をしたい、親が生まれ育った懐かしい地で墓参りをして親戚にも会い、久々の親子水入らずのふるさと帰りを希望している。
 今回は介助をしながら安全安心に、慣れない長距離をどのようにするか悩んだらしい。
 一本の電話から始まった遠地への墓参介護サポート。緊急時は救護も可能な民間救急として迅速な対応を可能にしているため安心して楽しむことができる。長距離に精通した乗務員を始め我々が積んできた搬送業務の経験は、久々のふるさとの風景の中で新たな喜びを見出だせてもらえると思った。
 「母親を念願の故郷の墓参りに連れて行ける」。家族や本人にも期待が溢れ、着々と道中の計画が進んだ。
 本人の体調について詳細を聞く。幸い、車外での移動を除いて、車への移乗も介助をすれば可能なようだ。先祖の墓は香川県にある漁港の近く。古い墓石が縦横無尽にあるため、サポートなくては難しいらしい。
 三重県から普通に走って4時間弱。途中のトイレ介助や食事などの休憩を入れると、それ以上かかる。いかに休憩を要領よく入れて本人の疲れを減らし、目的地へ着けるかが課題だ。
 出発当日は雨模様。それでも何とか乗降でき、母親の緊張した気分も少しほぐれた様子。そのうち、運良く天候も回復した。向かうのは香川県さぬき市。このような遠距離地へ向かうのは、家族と本人の体力、そして搬送業者の「安心感とアドバイス、コミュニケーション」が三位一体にならないと実現できない。
 道中、本人の様子を伺うが問題はない。好調に3時間を過ぎた頃、眼前に雄大な明石海峡、次いで渦巻く鳴門海峡が見えた。
 「ここ、随分前に主人と一緒に車で来て、見た光景よ」
 過去に走った時の思いが甦っているようだ。海の色は見事なコバルトブルー。家族の気持ちも一層華やぐ。出発してから4時間半以上は経った。やっと到着した宿泊予定地は広大な松原で有名。観光客も多いという。凪いだ湾口へ足を延ばして道中の疲れを癒し、翌日に備えた。
 ハプニングもあった。2日目は台風1号の北上で四国地方は前線が刺激されて大雨になった。前日の湾内の風景とうって変わって道路から泥土が流れ出すような豪雨と化した。
 それでも、予定していた現地の施設に入所している人に久しぶりに会うため、何とか決行したい。ドライバー兼務の私も、ずぶ濡れになりながら乗降介助をした。その夜も宿泊所の窓を雨が強く叩く。それを聞くと最終日に迫った墓参りが不安になった。
 しかし、夜が明けて窓を覗くと、小豆島が凪いだ海面の向こう側に見事な姿を見せていた。
 「よかった」
 自分が呟いた安堵の言葉。漁港近くで特有の砂地に建立された墓地を訪れた。複数の墓石の間を車椅子で進むのは並大抵ではないが、やっと来た念願の墓参りに本人と家族は涙ぐんでいる。青く光る海、さえずる小鳥の鳴き声は、この地特有のもの。
 皆で来れたことに感謝して手を合わせた。母親も、やっと満面の笑みを見せる。
 「家では見なかった笑顔です。来てよかったです」
 小一時間の墓参だったが、本人の想いは随分以前へ遡っているようだ。
 帰路の明石海峡はブルーを一層濃くしていた。親子共々「別天地を走るよう。また、来たいね」。民間救急車での幸せのお手伝いがまたひとつ増えた。充実感と達成感を胸に帰路についた。
 (民間救急はあと福祉タクシー代表)

講演する辻会長

 津市の経営者で作る「丸之内倶楽部」の第190回例会がホテル津センターパレスで開かれた。各分野の専門家を講師に招いて隔月で実施しているもの。今回の講師は、辻製油㈱(松阪市嬉野新屋庄町)代表取締役会長の辻保彦さん。テーマは「菜の花の夢」。
 同社は、昭和22年になたね搾油専門工場として創立。以来、商品開発の研究を重ね数多くの関連新製品を開発。現在では製油関連事業に加え、アグリ関連事業なども手掛けるなど発展している。 辻さんは「私は昭和18年の戦中生まれ。春になれば一面が『菜の花畑』になる村で育った。好奇心旺盛で5歳の時に母親の腕時計を解体し怒られた記憶がある。
 わが社は、先代が菜種の搾油で起業し、ご縁を大切にして抽出技術と発酵技術を徹底的に追求してきた。昭和30年代、戦後復興が始まると物資が出回り、生活も潤沢になってきが、急性腎膵炎に罹り生死と向き合ったこともあった。昭和40年代の大学院生の頃にビジネスに目覚め、大学院をやめて辻製油に入社した。
 中小企業が競争社会を生き抜くにはナンバーワンになること。そうすればプライスリーダーになれる。1位と2位では天と地と違いがある。そこで昭和45年にコーン油の生産量でナンバーワンになるための戦略を開始した。
 昭和50年代の高度経済成長時代には経営方針を転換。下請けの仕事はしないと決め、大手商社だった『東食㈱』オンリーの取引から脱却。取引商社の拡大と海外へも目を向け、日商岩井、伊藤忠商事、三菱商事、住友商事との取引を開始。コーン業界で最強のライバルであった三井物産とも和解し10年後には三井が最大の取引商社となったほか、外資系メジャーであるXキャン社(カナダ)、カーギル社(米国)。ブンゲ社(ブラジル)との取引も実施した。
 しかし、事業をコーン油だけの『一本足打法』では危険だと判断し、他社が研究していない物質に着目。化学理論と技術開発を駆使し、日本で唯一の精製レシチン製造に成功。酵素分解レシチン、分離精製レシチンは国内独占となった。これは天然の界面活性剤で強力な乳化力を持ち、幅広い食品で使われている。
 昭和50年以降は、会社の財務・経理の透明化を図るために毎月の全社朝礼で社長が訓示し、会社の経営状態を全社員に公開した。また、中村天風の思想である天風哲学に共感し、成功の実現とは積極精神から始まる事を学んだ。
 資源の乏しい日本の究極の財産は『技術力』。美と健康に役立つ商品開発に専念することに。そのジャンルでオンリーワンを達成するため、昭和52年から研究開発型企業を目指し、各大学から研究員を積極的に採用するようにした。中でも機能性素材の開発に注力。レシチンとセラミドに特化した研究員を育成するために学費を全額会社が負担して学位取得者を増やした」と話した。
 しかし会社として発展してきたが、決して順風満帆ではなかった。
 「戦後最大の経済危機であるバブル経済が1991年から93年にかけて崩壊。97年から上場企業の倒産が相次いだ。平成9年頃には大手銀行、証券会社、商社が倒産。㈱東食も倒産し5億円の不良債権を被ったが、東京で発足した異業種交流会で知り合った優秀な弁護士事務所の支援で債権を回収することができ、人脈の大切さを実感した。
 平成13年4月には本社の搾油工場に隣接する製品サイロが爆発し警察・消防・労働基準監督署・マスコミの対応に追われた。さらに、同19年に佐藤食品㈱と合弁会社『T&S食品㈱』を設立するも、7年後に10億円の損失を出して会社を清算した」と過去の苦い経験から、経営に『気学』も取り入れているとし「気の流れに逆らわない経営に切り替えた」と話した。
 また、産官学の連携も重要な要素とし、三重大学、京都大学、藤田医科大学、高知大学、プラント&フードリサーチ(ニュージーランド)など、国内外の研修機関との共同研修を通じて天然由来成分の更なる可能性を追求。三重大学と同社で『辻H&Bサイエンス研修室』を設立した。
 一方で、「当社のサラダ油工場はエネルギー多消費型産業。いずれ石油が高騰する」と判断。平成7年(1995)にはエネルギー戦略の一環としてバイオマス発電所の建設を提案。社員、役員、取引先など全員が反対する中での取組みだったが、その予想は見事に的中。平成15年(2003)にイラク戦争が勃発。エネルギー危機が現実のものとなり石油が大暴騰した。
 「当社の第二創業はバイオマス事業から始まった。2007年には『松阪バイオマス熱利用協同組合』を設立。『ウッドピア木質バイオマス利用協同組合』で間伐材、林地残材、製材廃材、建築廃材を破砕して木質チップ製造。これを『松阪バイオマス熱利用協同組合』で燃焼し本社製油工場で使用することで、石油換算で年間9000㎘、CО2発生を2万3000トン削減し、A重油換算で8億円の経済効果を実現した。
 平成23年からは工場から出る排熱を利用したトマト栽培『トマト物語』も始めた。トマト栽培もエネルギー多消費型の温室栽培であるため、温室の冷暖房に余剰蒸気と工場排熱を有効活用した。 平成25年(2013)には、三重大学医学研究科の西村訓弘教授、浅井農園㈱の浅井雄一郎社長との出会いから『うれし野アグリ㈱』を設立。化石燃料を使わない植物工場を完成させた。
 さらに、世界で最先端であるオランダの農業技術を採用した日本で最初のLED照明機能併設大型ハウスでは、収穫量が多くなる房どりトマトの栽培に国内で初めて成功したほか、柚子の皮から香気を含むオイル成分を抽出した柚子エッセンスオイルを世界で初めて開発している」と新分野へのチャレンジする大切さを語った。
 最後に「地域資源を活用し新たな産業を創出するには最先端の技術と優秀な技術者が必要」とし、若い研究者に技術を継承することの重要性を説くと同時に、「持続可能な産業構造を構築するために、辻製油グループで発生する炭酸ガスを吸収し環境に配慮した循環型の企業活動に取り組む」と締めた。 

 雨の道を歩いていたら、道路わきのコンクリートに黒いぶよぶよを見つけた。黒いワカメみたいなもの。これは知っている。排水の悪い空き地や運動場の隅にあった陸地の藻類だ。
 頭を絞ったら、名前が出てきた。イシクラゲだ。クラゲの仲間でもないのにどうしてイシクラゲというのだろう。キクラゲに似ていると言えないこともないか。
 コンクリートがぶよぶよで黒く覆われている様子は美しいとは言えない。我が家の庭にこれが繁茂したら、躍起になって駆除するだろう。
 このイシクラゲは食べられるらしい。昔から食用としている地域もあると聞いた。酢の物、味噌汁などにして食べるらしく、それはワカメと同じように食べられるということだ。
 栄養も豊富で漢方に利用できるとも。少し気持ちが悪いけれど試食してみたい気もする。
 ところで、アメリカやオーストラリアでは日本の船が持ち込んだワカメが大繁殖して嫌われているそうだ。ワカメを食べる文化は日本や朝鮮半島辺りにしかないそうで、アメリカの人がワカメを見る目と私がイシクラゲを見る目は同じかもしれない。どこかの地で食用だが気持ち悪いもの。
 柔軟に考えられるなら、イシクラゲを美味しく食べられるかもしれない。しかしながら固定観念は打ち消しにくく、すぐにはぶよぶよを食べられない。 (舞)

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