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時刻は8時半。私は前回のゴール地点である滋賀県栗東市のJR手原駅近くの有料駐車場に車を停めた。降車すると同時に、灼熱の太陽は私の皮膚をじりじりと焼き始める。気温は既に30度に近い。私は左手で目の上にひさしをつくり、空を見上げながら「暑すぎる」と恨めし気につぶやく。のんびりと進む徒歩の旅は、気候の影響をもろに受けるため、これまで真夏と真冬をできるだけ避けるように調整をしてきたのだが、それもとうとう年貢の納め時。やるしかない。前日は、ワークマンで通気性が良く動きやすい服を購入し、早めに就寝。水分補給と休憩を十分取るという凡事徹底を心掛け、距離を稼ぐよりも無事に行程を終えることを重視する等…。こういった背景から導き出された今日のゴールは、20㎞ほどの距離にある大津市のJR石山駅。
出発前に、手原駅前にある神社で道中の無事を祈る。私はそれほど信心深い人間ではないが、神前で謙虚になる時間は有益だと考えている。いついかなる時も人間がその身を亡ぼす原因は傲慢さだからである。自分の無力さや世のままならなさを認めた上で、しっかりと腰を据えて物事に対峙していく姿勢こそが、人生を好転させる本質にあるように思う。自動車や電車に頼らず、自分の足で目的地まで進んでいく徒歩旅もまた裸の自分と向き合い、謙虚になれる貴重な時間が得られる行為と考えている。
祈り終えた私が出発しようと思った矢先、神社の奥に偉容が見えたので近寄ってみる。それはSLである。近くの案内板によると展示されている車両はD51型403号機で昭和15年(1940)に製造されたもの。草津線は昭和47年(1972)まで蒸気機関車による列車が運行したが、近代化の中で姿を消すこととなった。それを惜しんだ地域住民たちの要望によって昭和48年(1973)より今に至るまで保存・展示されている。近づいて、気付いたのはこの列車の保存状態が素晴らしく良いこと。屋根付きで線路が敷かれた駅のホームを模した公園にSLは展示されているが、細部に至るまで日頃から行き届いた手入れをされていることが一目でわかる。前述したような流れで、全国各地にSLは保存・展示されているが、予算や人手などがネックとなり、高温多湿な日本において良好な保存状態を保つことは難しい。どのように維持しているのか気になり少し調べてみると、地域住民たちによる同好会の尽力の賜物のようだ。同好会のSNSのアカウントを覗いてみると、日頃からの清掃活動だけでなく、地元の子供たちがSLについて様々なことを知る機会を提供しているようだ。何より参加している人の楽しそうな笑顔が印象的である。歴史とは単なる事実の記録に過ぎず、それをどう語り継いでいくのかが大切といえる。どれだけ多くの人に歓迎されたSLであっても時間を経るごとに当時を知る人は減り、熱は冷めてしまうもの。SLを守りながら、歴史を語り継いでいく活動は、未来へと地域の宝を受け継ぐというミッションを果たす上で、お手本のように思える。
心が満たされたところで、いよいよ今日の行程が始まる。街道沿いの家の軒先には、昔営んでいた店の屋号が書かれた看板がかけられていたり、所々に道標が設置されている。おかげで街道から外れる心配もなく、歩けるのが有り難い。滋賀県に入ってからというもの、明らかに東海道が地元のアイデンティであり、重要コンテンツとして認識されていることを改めて窺い知ることができる。「しかし、暑いな」。ほんの5分歩いただけで、手の甲に玉のような汗がにじんでくる。「無理と焦りは禁物だが、今日もきっと良い旅になる」。私は、なんの確証もない言葉を確信めいた口調でつぶやくと期待に胸を躍らせる。(本紙報道部長・麻生純矢)
2024年8月8日 AM 9:41