時刻はちょうど10時。一歩踏み入れた草津市は滋賀県の南西部に位置しており、市域は約68㎢。特筆すべきは人口で、市が誕生した1954年の約3万2000人と比べると、現在の人口は約14万人。わずか70年で人口が4倍以上に増えている計算になる。元々、東海道と中山道が接する草津宿を擁する交通の要衝だったが、その要素は現在にも引き継がれ、電車や自動車を利用した交通の利便性に優れる京阪神のベッドタウンとして成長したという経緯がある。昔、草津市に初めてきた時、草津温泉がある群馬県の草津町と勘違いをして「せっかくなので温泉に入ろう!」と友人と一帯を探し回ったのは若気の至りというほかない。
 旧東海道は、国道1号の手前で脇道に入っていき、歩行者専用の草津宿橋で国道を横断する形で整備されている。この場所には以前、周囲の平地よりも川床が高い場所にある天井川、草津川が流れており、国道に川の下を通す形で草津川隧道と草津川第2トンネルが設置されていた。天井川はその構造上、大規模な水害が発生する危険性があるため、平成14年(2002)に河川の一部を平地化した新草津川放水路の通水を開始。これによって、草津川は廃川となった。
 二つのトンネルに話を移すが、坑門の中央に仕切り壁を配した草津川隧道は昭和11年(1936)に造られ、当初は上下2車線という形で供用開始。しかし、自動車の普及に伴う交通量の増加に対応できなくなったため、第二草津川トンネルが昭和42年(1967)に造られることとなった。以降は、草津川隧道を上り、第二草津トンネルを下りとした4車線として長らく使われてきた。しかし、両トンネルは高さが約4・6m~4・7mしかなく、草津川隧道上を草津川が流れていたため、改修できないまま、長年使われてきた。しかし、前述の通り草津川が廃川になったことで、高さと交差点の改良が可能となり、平成29年(2017年)に草津川隧道、平成30年(2018)に草津川第2トンネルがそれぞれ撤去されることとなった。そして、平成31年(2019)にトンネルが無くなったことで国道1号によって分断されていた旧東海道を結ぶために草津宿橋が設置された。
 橋の近くにある案内板には、こういった経緯が写真や図を交えながら、丁寧にまとめられており、第二トンネルから取り外された銘板も設置されている。この銘板を揮毫したのは、草津中学校3年生だった松田(旧姓)明さんという女性。案内板には、取り外された銘板と彼女が50年以上の時を経て再会した際の写真も掲載されている。
 本能寺の変や関ヶ原の戦いなど、誰もが知る歴史的な事件が起こった場所に足を運び、思いを馳せる人は多い。有名、無名を含めて無数の人が行きかっていた旧東海道を巡る旅も似た色合いを帯びているといえる。そういった歴史的な価値が担保された史跡と比べると、私たちの生活を支える道路やそれに付随するトンネルなどは、その価値が軽んじられている感が否めない。それらは時代のニーズや土木技術の進歩に合わせて、どんどん姿を変えていくものではあるので、いちいち全てを記憶してはキリがないという現実も理解している。とはいえ、まごうことなき先人たちの知恵と汗の結晶であるトンネルが天井川と共に姿を消しても、忘れ去られないように〝痕跡〟を残す姿勢には共感を抱かずには居られない。
 案内板を隅から隅まで読み終えた私は、草津宿橋上へと歩みを進めて、眼下に流れる無数の車に目をやる。きっとここの景色も、いずれ姿を変える。誰もが東海道を徒歩で旅する時代から、車や列車や飛行機での移動が当たり前となり、それに合わせて世界は流転してきた。天井川の廃川とトンネルの設置と撤去もその一幕に過ぎない。遠い未来には、今は絵空事のように思われている空飛ぶ車がここを行き来しているかもしれない。
 当たり前のことであるが時代が進むほどに、我々が背負う過去は増えていく。現代の便利な生活を謳歌しつつも、その礎を築き上げた先達のことを知り、然るべき敬意を払うことから生まれる正の循環が健全な発展を続ける原動力となると私は信じている。「持続可能な社会」が人類共通のキーワードとなって久しいが、美辞麗句を掲げつつ、政治的なパフォーマンスやマネーゲームに利用している〝偉い人〟の姿に冷ややかな視線を向けてしまうことも少なくない。私は、しおらしく世界の行く末を憂うよりも、見慣れた道から繋がっていく多くの場所に自分の足で辿り着き、未知を明らかにしたい。その過程で得た経験や知見を皆さんにフィードバックし、『何もない』と思われがちな景色の中に潜む面白さに気づくきっかけをつくることこそが、私にできる持続可能な社会への貢献だと確信している。(本紙社長・麻生純矢)