国道165号を遡る

国道165号の側道(大和高田市出付近)

国道165号の側道(大和高田市出付近)

ノウゼンカズラの花

ノウゼンカズラの花

自動車専用道で高架化している国道165号を見上げる形で側道を歩き続ける。最初は不満を感じていた私も、いつの間にか心が和らぎ、気付けば歩くことを楽しんでいる。なぜなら、徒歩旅の醍醐味は旅先の日常に触れることだからだ。のどかな田園風景の中で、埋もれた遺跡の発掘を行っていたりと、土地柄も感じる。私たちが旅先に選ぶことの多い観光地はいわば非日常を楽しむ場所である。地域のアイデンティティを濃縮してある分、うがった見方をすれば、よそ行きの顔が前面に押し出されている。一方、現在周囲に広がっているのは、肩の力が抜けた日常。ところ変われば、それを取り巻く日常も変化する。車なら一瞬で通り過ぎてしまうこのような景色もじっくり咀嚼すればそれは味わい深いものである。
国道に沿った側道はずっとまっすぐというわけでもない。例えば川がある場所の場合は、橋に向かって道が伸びていくし、大きな道路を横断する箇所でも側道が途切れて、いわゆる地元道を歩くことになったりと、文字通り右往左往させられる。それに、歩き疲れたら住宅街の何の変哲もない公園のベンチに腰掛けて休む。これがまた楽しいのだ。交通量が少なく危険な思いをすることもないので、側道の旅は想像以上に快適なことも特筆すべきポイントだろう。
側道を歩いているうちに、気付くと橿原市から大和高田市へ入っていた。市境を示すプレートも見かけなかったので、いつの間にか市境を越えていたようだ。日本を代表するような名所旧跡スポットが数多ひしめく奈良県内にあって、有名な観光地というわけでもないため、三重県に住んでいる人たちには、あまり馴染みのない地名かもしれないが、大阪都市圏のベッドタウンで奈良県内でも指折りの人口密度を誇っている街。観光を目的に旅をすると、通過点になってしまうことも少なくない街とふれあい、思い出を刻んでいくことに高揚感を覚える。
側道沿いの民家に目をやると、赤い花が力強い生命力を示すように咲き誇っている。夏を代表する花の一つであるノウゼンカズラだ。よく庭先や公園などに植えられているので、一度は目にしたこともあるかもしれない。花木にも疎い私が、なぜこの花の名前がすぐわかったかというと大好きな曲に登場するためである。その曲というのが、安藤裕子の「のうぜんかつら」。彼女の祖母が、祖父が亡くなった際に書いた詩が基になっている。愛しい人と過ごした甘い思い出が残る街を彩る赤い花。最後まで愛し合っていた祖母と祖父の姿に、上手くはいかない自らの恋を重ね合わせ、しっとりと歌い上げている。
「そして 赤い花 空に舞う度に あたしと つないだ手と手 道で揺らして このまま二人つづくと言って」(安藤裕子 のうぜんかつら 2006年より引用)
なんだか国道を愛しているのに、思い通りには歩かせてもらえない私の境遇にも重なるような気もする。国道を歩けないまま、側道の旅はまだまだ続いていく。(本紙報道部長・麻生純矢)

香久山を越えてしばらく。国道165号の北側に香久山・畝傍山と共に大和三山と称される耳成山が見える。この山は、少しいびつな香久山と比べるととても美しい円錐形をしている。万葉集には中大兄皇子、後の天智天皇が大和三山を詠んだ歌がある。
香久山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし古へも 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき
要約すると、神代に香久山と耳成山は、愛しい畝傍山を巡って争った。だからこそ、今の世の中でも(人々は)妻を取り合って争うのだ。
といったところだろうか。
後世の人たちがこの歌を巡って様々な想像を巡らせ議論も交わされてきたが、ここではそれにはふれない。
私の率直な感想を述べると香久山と比べると耳成山は、ずいぶんと美形だ。人間に例えるなら均整の取れた肉体に甘いマスク。逆に整いすぎていることに違和感すら覚える。今の世間でも見目麗しい芸能人に対して、整形疑惑というものがかけられ、根も葉もない話が喧伝されるといったことは、そう珍しくもない。実はこの山にも、整形疑惑がかけられている。
正確には整形というより、この山が人の手でつくられたものではないかという疑惑である。そんな噂話が出た一つめの原因は、余りに山容が整いすぎていること。山裾の左右がほぼ対称で、いかにも山のお手本のような形。自然の産物であることを疑う人がいることにもうなづける。標高は140mで最も高い畝傍山(標高199m)、ライバルの香久山(152m)と近いサイズであることも、なんとも、おあつらえ向きに思える。
もう一つは大和三山の位置関係。畝傍山を頂点に耳成山と香久山を結ぶと藤原京をすっぽりと囲む綺麗な二等辺三角形が出来上がる。今でこそ、ほとんど聞かなくなったが、ひと昔前に流行ったピラミッドパワーをおぼえているだろうか。ピラミッド形の物体内部では、疲れが取れやすくなったり、食べ物が腐りにくくなるといった効果があると騒がれた。藤原京の配置も、三つの山が描く三角形から受ける呪術的な恩恵を考慮していたなどと意識し始めると、空想はどんどん膨らんでいく。
そういった話が積み重なって、耳成山が人工的に作られた山であるという説が古くから根強く存在している。完全に人工ではなく、とりわけ天然の山を古墳として改造した山であるという話は、文字通りの「整形疑惑」である。
ロマンは感じるものの、にわかには鵜呑みにしづらい話だが、私は強い否定も肯定もしたくないタイプの人間である。出鱈目を流布するつもりは毛頭ないが、歴史の余白を楽しむくらいの余裕は欲しい。古代ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩イリアスに魅せられ、伝説の都市トロイアを発掘したハインリッヒ・シュリーマンのような先例もあるではないか。嘘を嘘と、実を実と決めつけることほど、真理の探究という至上命題からほど遠い考え方は無い。
私はもう一度、耳成山を一瞥し、再び目的地である大阪方面をめざして国道を歩き始めた。(本紙報道部長・麻生純矢)R165_210909

大神神社の門前町

大神神社の門前町

藤原京大極殿跡から仰ぎ見る香久山(手前の山)

藤原京大極殿跡から仰ぎ見る香久山(手前の山)

7月6日9時半頃。奈良県桜井市の近鉄桜井駅に降り立った私は前回の中断地点まで戻る。月並みだが、国道165号を終点から始点に向かって遡る旅も思えば遠くまできたものである。旧の国割で考えると伊勢、伊賀、大和の三国にまたがる旅路。ここから先は、今までプライベートでも訪れたことがないため、私にとっては文字通り未知となる。どこまでいけるかは分からないが、肩ひじ張らずいけるところまで行く。要するに「いつも通り」である。できれば奈良と大阪の県境を越えたいと思いながら歩き始める。
建物が密集していた桜井駅近辺から離れるにつれ、田舎の風景が広がる。歩道は途切れ途切れで、交通量はかなり多いため、安全第一で焦らず、車を一台一台やり過ごしながら進む。
少し歩くと桜井市と橿原市へ。その名の通り、最初の天皇である神武天皇をまつった橿原神宮が市のシンボルである。20分ほど歩くと「香久山交番」という看板が立てかけられている。それを見た私は、すぐに周囲を見渡し、それらしき山を探す。香久山といえば、そう百人一首に収められている持統天皇の歌「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」でご存じの方も多いはず。耳成山、畝傍山と並び大和三山の一角を成す山である。
どの山かわからなかったため、安全な場所まで移動してスマートフォンの地図アプリで山の場所を確認する。少し見づらいが、それらしき小山が見える。古くから神聖な山として信仰を集め、多くの歌に詠まれた山であるが、平べったい小山で特段見栄えが良いわけでもない。
どうやら、国道からほど近い場所には持統天皇が築き、694年に遷都された藤原京の跡地があるようだ。国道からは少し距離があるので、この日は立ち寄らず、後日改めて訪れてみることに。すると、なぜこの山を持統天皇が歌に詠んだのかが少し理解できた。
持統天皇については以前も少しお話をしたことがあるが、彼女の父である天智天皇、そして夫である天武天皇の時代に、皇族同士の権力闘争が激化。血で血を洗う権力闘争を繰り広げた時代を生き抜いた女性である。彼女が他の女性天皇と一線を画す点は、自身が優れた為政者であったこと。時には非情な判断を下し、権力闘争を勝ち抜いた彼女のことを強く賢い女性と捉えるか、したたかで冷酷な女性と捉えるかは人それぞれである。
藤原京の跡地は史跡として整備はされているが、門のあった場所に柱が建てられているのみで往時の景色は図面と照らし合わせながら想像するしかない。持統天皇が政務を行った大極殿の位置から香久山を仰ぎ見る。なるほど、彼女が毎日見上げていたこの山は、神聖な存在であると同時に、彼女にとって日常の象徴だったのではないかと感じる。深読みさえしなければ、彼女が詠んだ歌の内容は、季節が春から夏へと移り変わる様を香久山に干された白い衣を見て感じるというシンプルなもの。血なまぐさい政争を幾度となく乗り越えた彼女だからこそ、あえて歌に日常の貴さを詠み込んだのかもしれない。耳成山、畝傍山と共に古都を囲む香久山を見ながら、そんなことを考えていた。(本紙報道部長・麻生純矢)

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