国道165号を遡る

四天王寺の南門

四天王寺の南門

大都会の真ん中にそびえ立つ伽藍…。聖徳太子が建立したといわれる四天王寺は、1500年以上の歴史を持ち、蘇我氏が建立した飛鳥寺と並ぶ本格的な日本最古の仏教寺院。現在は和宗の総本山。所在する天王寺区の名前も当然この寺に由来する。津市の四天王寺は、この寺と時を同じく聖徳太子が各地に建立した4つの四天王寺の一つという言い伝えを持つ。
国道から最も近い南門から境内へ入ると一直線上に中門、五重塔、金堂、講堂が南北一直線に並び、それを回廊が囲んでいる「四天王寺式伽藍配置」が非常に印象的。6~7世紀の朝鮮半島

国道沿いにある「真田幸村戦没地」の碑

国道沿いにある「真田幸村戦没地」の碑

や中国の建築様式を模したものと言われている。
昭和20年のアメリカ軍による無差別爆撃により、境内にあった建造物のほぼ全てが灰になってしまったが、後に多くの人々の協力を得て復興し、今に至る。この寺の歴史を振り返ると、戦国時代の戦火や落雷などで何度も焼失しているが、そのたびに人々の協力を得て蘇っている。古より受け継がれる建造物の歴史的な価値は計り知れないのは当然だが、何度焼け落ちても蘇り続けるこの寺の歴史には勝るとも劣らない価値がある。
四天王寺を後にして、西へと進むと歩道沿いに「真田幸村戦没地」と刻まれた小さな碑が立っている。この「安居天満宮」は大坂の陣で活躍した真田信繁が戦死した場所。「幸村では?」と疑問が浮かんだ方も多いと思うが、実は幸村という名前は、彼の死後に広まった軍記物や講談を通じて広く知られるようになった名前。この中では信繁で統一することとする。
時代の勝者たる徳川家康を相手に戦い抜く様は薩摩藩祖・島津忠恒(家久)をして「日本一の兵」と称えられた(本人は信繁の戦いぶりを見ていないが)。歴史のターニングポイントで徒花を咲かせた信繁は、判官びいきの語源となった源義経、悲運の名将・楠木正成と並び、日本人に愛されてきた。ただそういった経緯から、実像とはかけ離れた完全無欠の人物像が独り歩きしているように思う。
見事な最期は史実通りだが、関ヶ原の戦いの後、いわゆる西軍として戦った責任を問われ、紀州の九度山に流された時の話から彼の実像が少しだが伺える。東軍として戦い、必死の思いで父・昌幸と信繁の助命嘆願した兄・信之や家臣に生活費や酒を無心する手紙を送っている。兄や家臣は必至に工面し、献身的に信繁たちを支え続けたが、そんな周りの苦労もどこ吹く風といった呑気さを感じてしまう。この頃には容貌も歯が抜け、髭も白くなっていたそうで、現代人が抱く美男子のイメージとは大きな隔たりがある。その後、信繁は大坂城へ入るが、豊臣家への忠義だけではなく、捲土重来をねらう意図も多分にあっただろう。物語のような綺麗事で語り尽くせるほど、現実は単純明解ではない。
神社は緑に覆われており、境内には信繁の像や碑も建てられている。以前、信繁と共に戦った後藤基次(又兵衛)が最期を迎えた場所を紹介したが、一本の国道を遡るだけで、歴史のスターゆかりの地と出会えるのは非常に面白い。(本紙報道部長・麻生純矢)

そびえたつあべのハルカス

そびえたつあべのハルカス

国道からも見える杭全神社の鳥居

国道からも見える杭全神社の鳥居

杭全。この地名を読める人はどれくらいいるだろう。こうぜん…。くいぜん…。全部ハズレ。正解は「くまた」である。由来は、百済が訛ったとか、河川の氾濫を防ぐ杭を全て打ち終わったことにちなむ、など諸説あるが定かではない。
この地名を冠する杭全神社は平安時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫にあたる坂上当道が創建したと伝わっている。各町から出されるだんじりが行きかう「平野郷夏まつり」でも有名。国道からほど近い場所に鳥居が立っており、参道を進むと立派な拝殿に辿り着く。3つある本殿は全て国の重要文化財。ちなみに、杭全は平野区の西側の東住吉区の町名だが、杭全神社は平野区にあるというのが面白い。
まずは拝殿の前に立ち、ここまで無事にこられたことへの感謝をささげると共に、前回お話した二人の幸せを祈る。その後、レインコートを脱ぎ、境内のベンチに腰を下ろして一休み。すぐにリュックサックからペットボトルを取り出し、緑茶で喉をうるおす。一息ついたところで、この旅の終着点である北区の梅田新道交差点までのルートを確認する。まだまだ先は長いが、夕方までには問題なく到着できそう。徒歩旅でGPS機能や地図アプリが使えるスマートフォンは生命線。モバイルバッテリーにケーブルをつなぎ、充電しておく。時刻は12時過ぎ。早朝から歩き詰めなので足が少し重い。午後からは疲労の蓄積によって歩くペースぐっと落ちるのは、これまでの経験でも分かっているので油断は禁物だ。
相変わらず小雨が降り続いているため、再びレインコートに袖を通し、境内を後にする。国道を西へと進むと間も無く東住吉区。国道は桑津交差点で西へ進むバイパスと分離。JR関西本線の高架くぐり、北西に伸びる本道に入る。昼食を取りたい時間だが、先ほどの休憩のおかげか足の調子はすこぶる良い。この勢いを逃したくないので、いけるところまで進む覚悟を決める。国道にかかる標識には難波の文字。確実に終着点が近づいているという事実が心を奮い立たせる。
ほどなく、大阪市に入ってから三つ目の区である阿倍野区へ突入。この名前を聞いて、皆さんの脳裏に浮かぶのはきっと、高さ300mを誇る巨大ビルのハルカスだろう。もちろん、国道からもバッチリとその威容を見ることができる。遅ればせながら「大阪に来た!」というハッキリとした実感が湧いてくる。
阿倍野というだけに、陰陽師・安倍晴明の生誕伝説が残っている地があるだけでなく、三重や津とのゆかりがある地でもある。 実は、あべのハルカスもその一つ。このビルが建設当時日本一の高さとなったことには、近鉄の副社長を務めた津商工会議所の岡本直之前会頭(三重交通グループホールディングス㈱代表取締役会長)が深く関わっている。以前取材で、この話を伺って以来、ハルカスを見る度に思い出す。歴史的なスポットも、南朝方として足利尊氏と戦った北畠顕家とその父である親房を祭神とした阿倍野神社は、顕家の弟で伊勢国司の顕能を主祭神とする津市の北畠神社や、結城宗広を祀る結城神社と共に、南朝方の皇族や武将を祀る建武中興十五社に名を連ねている。その他、津の隣の松阪ゆかりの天才小説家・梶井基次郎が生まれた土地でもある。桜の花を見る度に彼の作品の「櫻の樹の下には」を思い出す。見事に咲く桜の木の下には、とあるものが埋まっているというショッキングな書き出しは脳裏に焼き付いて離れない。
心細くなりがちな旅先で〝地元〟との縁を感じられると、少しだけ心も安らぐ。私は歩みを緩めることなく、終着点へと着実に向かっていく(本紙報道部長・麻生純矢)

八尾市と大阪市の市境

八尾市と大阪市の市境

すっかり都会の様相を呈してきた国道沿いの風景(大阪市平野区)

すっかり都会の様相を呈してきた国道沿いの風景(大阪市平野区)

八尾市内を北西に進むと近畿自動車道の亀井跨線橋。この区間は天理吹田線という名称で、その名の通り奈良県天理市と大阪府吹田市を結んでいる。この道を北に行けば、以前に踏破した国道163号にも繋がっている。二つの旅が交差する地点を前にすると心が踊る。
この跨線橋をくぐると、いよいよ大阪市平野区に入る。ゴールは確実に近づいている。平野区は大阪市の中央に位置し、最も人口が多い区。この区に足を踏み入れるのは初めてだが、以前から不思議なご縁を感じている場所でもある。
ご存じの方もいると思うが、私は新聞記者をしながら、結婚相談所のアドバイザーもしている。よくどちらが本業かを尋ねられるが、どちらも本業である。そして、街で起こっている問題を分析し、解決方法を提案していく新聞記者の仕事と、一人ひとり異なる条件や悩みへの解決方法を提案していく婚活アドバイザーの仕事の内容は非常に似ている。この区とのご縁は、結婚相談所の仕事を通じて生まれた。
話は1年以上前に遡るが私がサポートした津市の男性は、この区で暮らす女性とお見合いすることになった。といっても、その時期は政府の緊急事態宣言などが出されていたため、県境を越える移動が難しく、オンラインでのお見合いに。画面を通じての会話だったが二人は意気投合し、交際が始まった。その後もコロナ禍が立ちはだかり、直接会えない日々が続いたがが、二人は創意と工夫を凝らして逆境を楽しんですらいるようにも見えた。毎週、ビデオ通話をして仲を深めるなんてのは序の口。それぞれがカラオケボックスに行き、交互に歌ったり、それぞれが地元のお気に入りスポットの風景を中継するなど、ビデオ通話を駆使したオンライン交際の無限の可能性を示しているようにも感じられた。そんな交際が3カ月ほど続いた頃、緊急事態宣言が解除され、二人は直接会うこととなる。もちろん、すぐに愛を誓い合う仲となり、結婚にまで至った。二人からは「本当のご縁はコロナになんか負けない」という不変の真理を学ばせてもらった。
現在二人は津市で暮らしているが、自分の足でここまで歩いてきたからこそ、改めて感じるのは、一人で見知らぬ土地に嫁ぐ覚悟を決めた女性の男性に対する愛情の深さである。それに伴い、私も心の底から、彼女に対する感謝の気持ちが湧いてくる。平野区に入ってすぐのコンビニで一休みしながら、彼にスマホからLINEでメッセージをするとすぐに返信がある。今も仲良く二人で元気で暮していること、コロナ禍で先延ばしになっていた結婚式を近日行うということなどが綴られている。メッセージに目を通した私の胸中は温かい気持ちで満たされている。
国道165号の終点がある津市で生まれ育った彼と始点の近くで生まれ育った彼女が出会い、深く結ばれるこの物語。いや、出会う前から実は二人は国道という赤い糸で結ばれていたのだろう。そんな二人の出会いに、このような連載をしている私が関われたことに不思議なご縁を感じずにはいられない。
こみあげる思いを抑えながら、私は再び国道を溯る。しばらく歩くと、国道は片側2車線に広がり、隙間なく建物が密集した風景は都会そのもの。柏原市から25号と重複する区間が続いているが、この25号の三重県を走る区間の一部(伊賀市と亀山市の間)は、道幅が狭いいわゆる〝酷道〟として有名。バイパスに当たる名阪国道が平行して走っており、交通量が少ない本道の整備を必要最小限に抑えた結果である。しかし、この立派な道が、いずれ、あれほど〝頼りない〟道になるとは、この辺りに暮らす人たちには信じられないことだろう。同じ国道の名前を耳にしても、生活する区間によって、抱くイメージがまるで違うのは面白い。(本紙報道部長・麻生純矢)

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