国道165号を遡る
雨に濡れながら大和川沿いの国道を北上。時刻は8時20分頃、国道の歩道には川沿いにある柏原市役所に向かって出勤する職員の姿。足早に急ぐ人、同僚を見つけて挨拶する人…。人の群れとすれ違いながら、あれこれと想像は膨らむ。見知らぬ人たちの日常は私の非日常。それが楽しい。
しばらく進むと国道に沿って細長く整備された公園と、ある人物の銅像が建てられている。その男の名は中甚兵衛。全国的には余り知られていないが、江戸時代に大和川の付け替え運動に尽力した人物である。今でこそ一筋の大河となっている大和川だが、本来は何本もの支流に分かれ、複雑な流れを成す川だった。その支流は土砂が堆積し周囲の土地よりも高い天井川であったため、事あるごとに氾濫し、流域に大きな被害を及ぼしていた。そこで古くは奈良時代より川を付け替える構想があり、治水工事も行われてきた。
ここからがいよいよ甚兵衛のお話。彼は江戸時代中期の1700年頃の河内国河内郡今米村(現東大阪市)の庄屋。私は調べるまで全く知らなかったが、大阪では小学校の授業で彼のことを学ぶらしく、それなりに知られた人物だそうだ。世間に流布しているイメージは大和川付け替え運動のリーダーで、私財を投げ売って工事を成し遂げたというものや、はたまたその熱意が農民たちを盛り上げて、やがて幕府を動かし悲願を達成した英雄といったものらしい。 しかし、これらは彼の実像とは大きくかけ離れている。庄屋である彼が私財を投げ売ったところで大和川の付け替えという大工事が実現するわけもなく工事を行ったのは幕府である。そして、彼の熱意が幕府を動かしたわけでもない。実は付け替え運動は工事が始まる17年前には終息しており、大和川の水の流れを良くする運動にシフトしている。しかし、その運動も年々、下火になり、最終的には参加していた村の数は7分の1にまで減少している。その中で最後まであきらめずに運動を続けていたのが甚兵衛なのだ。つまり、幕府はあくまで治水の意義を感じ、付け替え工事に踏み切ったというのが史実。ただ、その決定に至るまでに地道な活動をつづけた甚兵衛の思いが影響していた可能性も否めない。その証拠に甚兵衛は川の付け替え工事にも関わっている。実像を辿ると英雄的な偉業を成した人物ではなく、地道な活動を続けた〝地に足の着いた〟人物なのである。それが語り継がれるうちに尾ひれがつき、分かりやすい英雄として喧伝されている。そんな話しは世間に溢れている。
その代表格が織田信長だろう。将軍や天皇など旧来の権威に縛られない斬新な手法で周囲の大名を次々と打倒していく型破りな革命児といったイメージを抱く人も多いはず。しかし、研究が進んだ現在導き出されている人物像からは、生真面目で旧来の権威や諸大名との関係を尊重するどちらかといえば保守的な印象を受ける。いわば正反対である。世間に一度広がったイメージは中々、払拭されない。実像とかけ離れた姿で英雄として語り継がれていることに彼らは何を思うのか。はたまた自分の死後、どのように語り継がれていくのだろうなどと考えるとなかなかに面白い。(本紙報道部長・麻生純矢)
2022年5月12日 AM 4:55
いよいよ国道165号を遡る旅は締めくくりを迎えようとしている。最後の行程は前回のゴール地点である近鉄大阪線の大阪教育大前駅(大阪府柏原市)から、大阪市北区梅田の新道交差点までの約25㎞。
5時に家を出て、名張駅前に車を停め、電車で大阪教育大前駅まで移動。春休みのため、学生も少なく落ち着いた雰囲気の駅のホーム。改札を出て国道へと戻ろうとしたが、天気予報通りの雨。用意しておいたレインコートを着込み、7時半に出発。天気が悪いことは数日前から知っていたが、年度の締め繰りに旅を終わらせたいという強い気持ちを胸に今日この時に至る。そして、ここまで読者の皆様からもお便りを頂き、沢山の方々が楽しみにしてくださっていることを実感する。そういった皆様のおかげでここまで来られたといっても過言ではなく、もう私一人の旅ではなくなっているのだ。それでは、この旅の終着点まで、今しばらくお付き合い頂きければありがたい。
ちょうど駅近くの土手に植えられている桜が満開。鈍色の空に、濡れた薄紅色がよく映える。まるで最後の門出を祝福してくれているように感じる。出勤するために駅へと向かう人たちを背に、国道165号を大阪市方面へ進んでいく。
間も無く国道25号との合流地点。中勢地域で暮らしている我々にとってなじみの深い名阪国道はこの国道のバイパス。起点は三重県四日市市で終点は165号の起点と同じ大阪市北区の梅田新道交差点。三重、奈良、大阪の主要部を結ぶこの道については以前、同じく津市に終点がある国道163号を踏破する旅をした際にも少しふれたことがある。自動車専用道で走りやすい名阪国道完成に伴い、交通量が少なくなった本道は、伊賀市と亀山市の区間などで道幅が狭くなり、路面の状況も良くないことから「酷道」と呼ばれることもある。この旅が終わったら、歩いてみるのも面白いかもしれないなどと考えている。
柏原市の市街地を進むと近鉄河合国分駅。駅の出入り口から伸びる巨大なグリーンの歩道橋がロータリーを始め、駅前一帯に広がり〝空中回廊〟を形成している。有効に使える土地が狭い中で考え出された知恵だと思うが、この地で暮らしている人にとっては当たり前の景色も、よそ者にはいちいち面白い。
駅を超えると、奈良県から大阪府に注ぐ大和川にかかる国豊橋。大和川は近畿地方を代表する河川の一つ。津市近辺に暮らす人々には馴染みのない川だと思うが、百人一首でも有名な在原業平の歌、「千早振 神代もきかず 龍田川 からくれないに 水くくるとは」は、この川のことを詠んでいる。落語のネタにもされているこの歌だが、今まで龍田川という川が舞台と思い込んでいた。しかし、そうではなく、ここより少し上流にある桜や紅葉の名所として知られた「亀の瀬」という渓谷付近の大和川が「龍田川」と呼ばれていたそうだ。
特に旅先では何気ない風景の中に、無数の気付きや学びが潜んでいる。雨の中進む私の表情は明るく、心も軽い。(本紙報道部長・麻生純矢)
2022年4月14日 AM 4:55
ようやく大和高田市から香芝市。名阪国道を使って大阪方面に向かう途中、通り過ぎたことはあるので地名に見覚えはあるが来るのは初めて。この市も大和高田市と同じく大阪圏のベッドタウンとして近年まで人口が増加していた。国道は近鉄大阪線に沿って、のどかな郊外から市街地に伸びていく。また香芝市の周辺には北に位置する法隆寺で有名な斑鳩町など、面積がそれほど大きくない町がいくつも連なっているのが面白い。
よく自分の住む地域のことを「なにもない」と評する人がいる。しかし、それは真っ赤な嘘である。私は「まず、あなたがいるじゃないですか」と心の中でつぶやく。そして、その人だけではなく、その家族や友人知人など沢山の人が暮らしている。誰一人として同じ人はこの世にいないし、そこに地域性や受け継がれてきた歴史というエッセンスが加われば、唯一無二のきらめきを放つようになる。有名な観光資源だけが地域の魅力ではないのだ。むしろ、それは訪れるきっかけに過ぎない。私には県内外に友人がいるが、例えば東京の板橋区であればA君、京都の東山区であればB君、静岡の三島市であればC君といった具合に、まず人の顔が浮かび、次いで彼らが暮らす町並みが浮かぶ。それは友人の地元の観光地よりも、友人宅の近所の景色や行きつけの食堂だったりと、言うなれば「取るに足らない」ものばかりである。それこそが街の根源的な魅力なのであり、それはありとあらゆる場所に存在する。「なにもない」というのが真っ赤な嘘と断じた根拠はこれに尽きる。
もちろん、いくら街の魅力の源泉が人といっても、未知の街を訪れた時、誰彼構わず話しかけるわけにもいかないので、町並みを愛でながら、そこで暮らす人たちの営みに思いを巡らせるのはこれまでもお話した通り。香芝市内の国道沿いには、見知ったチェーン店を始め、飲食店や美容室などの店舗が多く並んでいる。それなりの人口を抱える地方都市らしい風景という表現が分かりやすいかもしれない。
香芝市に入った頃から雨足が強くなっている。横着者の私は雨具など持ち合わせていないので、フードを目深にかぶり、間に合わせの雨対策を行う。初冬とはいえ、歩くと汗ばむこともあるので、通気性の良い上着を選んだことが災いする。生地を貫いた雨粒が肌に達し、少しずつ体温が奪われる。午前中からの疲れもあるので、想像以上に足が重くなってきたため、近鉄下田駅前の公園のベンチで雨宿りをしながら小休憩を取る。人が行き交う駅は人間観察にはうってつけの場所。駅に向かって傘をさしながら仲良く歩く若い母親と幼児。自転車をこぐ20歳前後の学生風の男性。それぞれにバックボーンがあり、現在進行形で人生というシナリオが展開している。そんな無数の主人公たちが描く軌跡が交差して、街という巨大なドラマが構成されていく。当然、そのドラマは街の数だけある。
しばし、時を忘れ、初めて訪れる街を五感で楽しんでいると疲れと共に雨足も和らぐ。私はベンチから立ち上がるとスマートフォンで時刻を確認。「14時過ぎか。予定通り日没までに、今日の目標である大阪府には入れそうだな」と高をくくると、再び国道を歩き始める。(本紙報道部長・麻生純矢)
2022年2月10日 AM 4:55