津ぅるどふるさと

うっすら雪化粧の山林

  3月10日11時頃、中勢地方は雪模様。流れていく白い景色を車窓越しに眺めながら私は「今日はやめようかなぁ」とつぶやく。
 路面にこそ、積もってはいないが相当寒い。こんな日に好き好んで自転車に乗る人間は少ないと思う。しかし、二人の予定がなんとか合う日が、近々ではこの日しかなかったのだ。
 助手席の方を見ると「このくらいやったら大丈夫。軟弱者やなぁ」とM君は余裕の表情を浮かべている。この男は、自転車の施錠などについては、やりすぎと思うくらいうるさい割には環境の厳しさなどには全く頓着がない。困ったものである。
 とりあえず、スケジュール的に差し迫っていたこともあり、駄目で元々だという気持ちで、前回の続きとなる美里町まで行ってみることにする。すると、グリーンロードを南に進むにつれ、雪が和らいできた。美里町につく頃には雪が降っていなかったので、これは天恵と急いで、同町三郷で自転車を降ろす。
 とはいうものの、雪が降っていないだけで、とてつもなく寒いことに変わりない。私はこの日、撥水パーカーを着ていたのだが、フードをおろし、その上からヘルメットをかぶる。なんとも不格好だが、そうでもしないと耐えられたものではない。一方のМ君はというと、ちゃっかりスノーボード用のヘルメットとゴーグルを持参。どうやら最初から雪の中を走る気満々だったということらしい。
 体を動かさずにいると、震えが止まらないので早速出発。この日は長野氏城跡が目的地。美里総合支所の辺りから国道163号に出て、まずは同町南長野から桂畑をめざす。
 出発して間もなく、雪が降り始めてきたが、もう怯んでなどいられない。ペダルにぐっと力を込め「寒くない!」と自分に言い聞かせるように進む。
 163号を途中で、毎年年末になると、イルミネーションが点灯し、多くの人たちでにぎわう南長野生活改善センターの方へ進む。 同センターの手前を桂畑方面へ曲がると、雪がちらつく中でも、半袖・半ズボンでランニングに励む若者がこちらに向かって走ってくる姿が見える。私たちとすれ違う寸前で彼は「こんにちは」と挨拶をしてくれた。少し予想外のことにこちらも慌てながら「こ、こんにちは」と返す。つい見ず知らずの間柄だと気後れしてしまいがちだが、それだけで少し心が温まる。
 そういえば、イルミネーションを手掛けている地域おこしグループ「南長野12志会」の方々には駆け出しの頃からお世話になっているが、皆さん本当に素敵な方ばかり。おもてなし精神溢れる彼らが大切にしている地域らしいなと笑う。
 桂畑の集落に入り、看板を頼りに長野氏城跡を一直線にめざす。気が付くと、雪は止んだようだが、身を切るような寒さは相変わらず。小山の上にある城跡に行くため、懸命に坂道を登っていくが、容易には登りきれないと直感。二人とも大人しく自転車から降りて徒歩に切り替える。
 長く延々と続く坂道。舗装された道でさえ、登るのは大変で、所々に崩れた土砂も落ちている。在りし日のこの城が天然の要塞であったことを否が応でも納得せざるを得ない。
 寒さの影響もあり、さすがに屈強な肉体と精神を誇るM君も「今までで一番きつい」と本音を吐露する。
 途中で一休みした際、ふと来た道を振り返ると、うっすら雪で彩られた山林が美しい。城跡まではまだまだありそうな気配だがもうひと頑張りだ。
(本紙報道部長・麻生純矢)

洗浄器でチェーンを洗浄

 サイクリングを早めに切り上げた私たちは美里町から私の自宅に戻り、軒先で自転車のメンテナンスを行う。というのもペダルをこぐ際に、少しずつ滑らかさが失われてきているように感じたからだ。
 手先が不器用な私は機械いじりが、余り得意ではない。言い訳にもならないが自転車の購入以来、たまに油をさすくらいで、真面目にメンテナンスというものをしたことがない。
 しかし、技術や工具の無い素人の私たちに出来ることと言ったらたかがしれており、M君が本屋でわずか1000円足らずで買ってきた整備ハンドブックだけが頼り。今日のお題はチェーンやギア周りの洗浄だ。
 そうなると、アレの出番だ。私は家に入り、通信販売で買ったまま開封すらしていなかった段ボール箱を引っ張り出してくる。そして、入念にほこりを払い、中から自転車用のチェーン洗浄器を取り出す。
 洗浄器は、長さ約20㎝、厚み約5㎝の台形で、取っ手の付いたプラスチック容器。上ふたを外すと内部にはいくつものローラー状のブラシが付いている。そこに洗浄液を満たし、チェーンを挟みながらペダルを回すと汚れが落ちるという仕組みのようだ。チェーンを取り外して灯油で洗うという昔ながらのやり方もあるらしいが廃油の処理などの手間を考えるとやはり洗浄器を使うのが手軽だろう。

メンテナンスを終えた自転車

 説明書を熟読した後、実際に作業をやってみると、意外と簡単。ペダルを軽く回す度に、黒ずんでいたチェーンがみるみる美しくなっていく。更に、ギアとギアの隙間も付属のプラスチックへらで劣化した油や砂を落とすのだが、不器用な私でも難なくこなせた。やはり、文明の利器の力は素晴らしい。
 横で私の作業を見ていたM君も続いて洗浄作業を行う。私は美しくなったチェーンを眺めながら、ささやかな満足感に浸っているとM君から「おーい、チェーンを拭くウェスをくれ」と未知の単語を投げかけてくる。思わず「ウェスって何よ?」と返す。すると「雑巾と古布のことや」という答えが返ってくる。なるほど、早速ハンドブックで得た知識を使っているということらしい。「だったら、そう言えよ」と切り替えし足元にあった古いタオルや雑巾をM君に向って軽く放り投げる。
 チェーンについた水を良くふき取った後に注油すると、見違えるほど美しくなっただけでなく、心なしかペダルの回転やシフトチェンジの動作も良くなった気がする。仕上げにタオルでフレーム全体を磨いてメンテナンスは終了。今までなんとなく敬遠していたが、やってみると、案外楽しいものである。次は無手勝流ではなく、知識のある人から学んだ上でメンテナンスをしてみたくなった。
 気が付くと日も暮れかかっているが、これで準備は万端。次回は再び、美里町の探索だ。(本紙報道部長・麻生純矢)

奥に見えるのが平成の長野トンネル

フェンスで封鎖されている昭和の長野トンネル

苔むしてもなお、風格溢れる明治の長野トンネル

 長野峠へ続く長い坂道。私は「今日こそ登りきる」と鼻息荒くペダルを回し始めたまでは良かったが、今回も途中で力尽き、いつもの如く自転車を降りる。もはや、おなじみの流れだ。
 半ば開き直った私は坂道に沿って流れる川のせせらぎなど、豊かな自然を愛でながら、長野峠が伊賀街道の難所と言われていた当時の様子をイメージする。そして、一歩ずつゆっくりと大地を踏みしめて往く。
 しばらくすると、そんな私を置いて、軽快に坂道を登っていったM君の姿が少しずつ大きくなってくる。遅れること5分程、ガードレールにもたれかかりながら、退屈そうな様子で彼は私を待っていた。
 この長野峠には標高が高い順に明治・昭和・平成と、3つのトンネルが現存しており、この時2人の眼前にあったのが08年に開通した平成の長野トンネル。前者2つと比べると標高が低いため、凍結のリスクが減り、伊賀と津を結ぶ大動脈で重要な役割を果たしている。全長は1966m。
 その後、新長野トンネルの手前から旧国道163号に入り本来の峠方面を目指していく。今ではこちらの道を通る人も稀で寂しい雰囲気が漂っている。少し進むと主人の勘違いで命を落としたにも関わらず、死後も忠義を貫いた猟犬を祀る「義犬塚」があり、更にその向こうには、長野峠越えの道へ誘う看板もあった。いつかは挑戦してみたいが今日はそのまま進む。
 やがて、トンネル開通記念の石碑などが並ぶ場所へ到達すると、金属製のフェンスで入口を閉ざされた昭和の長野トンネルが間近に姿を現す。昭和14年に開通したこのトンネルは全長約300mで、少し前まで心霊スポットとして有名だった。車で通ると交通事故した死者の霊が見えるとか、白い手が見えるといった話を幾度となく耳にした。
 閉鎖された理由は、湧き水が内部のモルタルを侵食し、通行に耐え得る状態が維持できないため。しかし怪談の影響もあり、このフェンスはこの世とあの世の境界にあるトンネルを塞ぐ役割を果たしているのではなどと、他愛のない想像が頭の中をよぎってしまう。
 残る明治のトンネルは、昭和のトンネルのちょうど真上にある。地元のガイド団体が備え付けてくれた看板を便りに山中を進んでいく。足元が悪いので慎重に歩く必要がある。
 木立の間を縫って進んだ先で対面したトンネルの素晴らしさは想像以上。山中に打ち捨てられて久しいが優美な煉瓦づくりは苔むしてもなお、文明開化の香りと風格を漂わせている。130年ほど前の明治18年開通で、全長200m超ということを考慮するとスケール自体も当時では、相当なものであっただろう。
 隣のM君はというと、真っ先に中に入れないかを確認している。〝蛮勇〟を地で行く彼らしいが残念ながら、入口近くにフェンスがあり、内部は水没。途中で崩落しているらしい。
 ここで、この日の目的は達成。まだ14時前だが切り上げて、日没まで自宅に戻り自転車のメンテナンスを行うことにする。(本紙報道部長・麻生純矢)

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