津ぅるどふるさと

大門大通り商店街にかかるアーケード入り口

大門大通り商店街にかかるアーケード入り口

ここまで芸濃、安濃、美里、白山、美杉、一志、久居、香良洲の順で、残すところは途中まで来た津と、河芸のみ。読者の方からお便りで、この場所に行ってほしいというリクエストも頂いていたが、ルートの都合で寄れなかったことは深くお詫びをしたい。
5月8日10時頃。自宅がある鈴鹿から津まで来た足でそのまま最後の旅へと赴く。身体もほどよく温まってすこぶる調子が良いが、それだけに少し寂しい。
ご愛読頂いている読者の方々には、重ね重ねのお詫びになるのは非常に心苦しいことがあるからだ。というのも、ここまで一緒に走ってくれたM君が仕事の都合で、一緒に走ることが難しくなったからだ。〝戦友〟を欠いてのフィナーレは不本意極まりないが、どうかご了承頂けたら幸いだ。
我が社からフェニックス通りを挟んだ斜め向かいには、アーケードの入口がある。ここから大門大通り商店街に入っていく。平日の午前中ということもあり往来に人影はほとんどなくアーケードに沿って並ぶ店舗も所々、取り壊されており、そこから差し込む光が商店街の衰退という厳しい現実をより鮮明に照らし出している。中心市街地の活性化が市政の優先事項として掲げられて久しいが様々な問題が複雑に絡み合って生まれた現状を打破することは、想像以上に難

アーケードから覗く津観音の仁王門

アーケードから覗く津観音の仁王門

しい。ただ、熱い思いを持って、この問題に立ち向かう人々も多く、いつかは好転することを信じている。
ゆっくりとアーケード内を進んでいくと、突き当りには言わずと知れた日本三観音の一つである津観音。神仏習合の時代には祀られている国府阿弥陀如来が伊勢神宮の天照大神の本地仏(同一存在)として広く信仰を集めていたこともあり、伊勢参りに集まる全国の旅人が参拝に訪れた。その後、戦災で堂宇ことごとく灰燼に帰したが、長い時間をかけ復興を重ね、今の姿にまで蘇っている。
自転車を降りて境内に入ると、掃除に精を出している副住職の姿が見えたので遠目から挨拶をする。少し言葉を交わし、道中の安全を祈るため参拝。境内を後にする。今日もできる限り楽しんでいくとしよう。(本紙報道部長・麻生純矢)

無残な姿になった御殿場海岸の松林

無残な姿になった御殿場海岸の松林

 国道23号から、津競艇の脇を抜けて御殿場海岸へ。静まり返った浜茶屋の前を走る堤防道路を北進していく。潮干狩りや海水浴のシーズンには県外からも大勢の観光客が訪れるだけに一抹の寂しさは拭えないが、オフシーズンがあるからこそ、特別なひと時が味わえるのだ。
 やがて、御殿場海岸の代名詞「白砂青松」の由来となった松林が見えてくるが往時の姿はもうない。場所によっては、まばらに松が生えているだけの無残な状態になっている。その原因はカミキリムシが媒介するマツノザイセンチュウ(マツクイムシ)が引き起こす「マツ材線虫病」だ。この病に感染した木はあっという間に立ち枯れしてしまうだけでなく、その木に産み付けられたカミキリムシの卵が孵り、成虫が周囲の木に飛び移りながら、病を拡散していく。当然、松林再生に向けた動きもある。一朝一夕にはいかないが、美しい松林が蘇るその日の訪れを信じて疑わない。
 そこからまっすぐ、堤防道路を進み津ヨットハーバー。近鉄道路に出てからは津港新堀、津なぎさまち

我が社へ到着

我が社へ到着

と順に巡っていく。ここまでの道程を含めて、津がその名の通り港町なのだということを改めて意識をする。明応地震による津波で崩壊して以来、物流港としての機能は失われてしまったが今は中部国際空港へのアクセス港という稀有な役割を有している。海外から観光客を誘致するインバウンドに注目が集まる中、潜在能力をどう開花させていくかが津市の将来に大きく係わることとなるだろう。
 その後、なぎさまちからフェニックス通りを西進。途中にある我が社に立ち寄って少し休憩を取る。一息ついたところで、M君に津城復元の募金への協力を求めると快諾してくれた。
 そして、会社から更にフェニックス通りを西へ進み国道23号を横断。津城跡の高虎公の銅像の前で、M君に難攻不落の要塞でありながら、太平の世でも政庁として優れた機能性を持っていた津城の魅力を簡単に説明。夕暮れも近づいてきたので、この日はここでフィニッシュ。
 1年以上続いたこの自転車旅も、ようやく中心市街地へと到着。予定している行程も残すところわずか。次の

津城跡の藤堂高虎公像前にて…

津城跡の藤堂高虎公像前にて…

出発日が恐らく最後になりそうだ。コースの吟味をしっかりとしよう。(本紙報道部長・麻生純矢)

ボートが係留された水路(雲出鋼管町)

ボートが係留された水路(雲出鋼管町)

 「久しぶりに釣りをしたくなった」「ああ、また今度ゆっくりとな」。釣りスポット『日本鋼管』を後にした私たちは国道23号方面をめざし、JFEエンジニアリング㈱の正門前を横切り、水路沿いの道を西へ。
 平日の昼間ということもあり、車通りもほとんどなく快適そのもの。水路に浮かぶ無数のボートも、のどかな風景だがふと疑問が頭に浮かんでくる。船たちをじっと観察すると、漁船が大半を占める中、プレジャーボートらしき船が混じっていることに気付く。職業病だが「もしかしたら、漁船じゃないのは不法係留なのかな」と、気になり始めたのだ。流石にこの場で追及することはなかったが後日、この水路を管理する県に確認したところ、やはり予想は当たっていた。
 少し話はそれてしまうがこの水路が出来た経緯を説明する。大規模な埋め立て地である雲出鋼管町を造成した昭和40年代に、この水路の少し南側には元の海岸線があり漁師たちが船を係留していた。どうもその代替えとして、漁船を係留する簡易港湾的な役割を果たすためにつくられたもらしい。今では、ここを管理する漁協もなく、いつの間にか漁船以外の船が係留されるようになったらしい。何気ない風景の中にも、好奇心というフィルターを通せば、明らかになる様々な問題が潜んでいるのだ。
 つい、長くなってしまったが、話をサイクリングに戻そう。私たちは件の水路の脇を抜け、雲出川左岸浄化センターを南進。無数の太陽光パネルが並ぶメガソーラー発電施設付近のT字路を西へと曲がる。やがて川を渡れば、すぐに国道23号だ。愛知県と三重県を結ぶ大動脈を北へと進んでいく。
 この道は自転車が、どう走るのが正解なのかいつも分からなくなる。最近、自転車が加害者となる悲惨な事故が続いているため、周辺法が整備され、搭乗者の責任を問う流れになっている。自転車は免許もいらず、誰でも乗れる便利な乗り物である反面、然るべき整備を行わない車両や危険な運転を繰り返す搭乗者が後を絶たないという背景もあり、この流れにも頷ける。
 その一方、自転車は法的には軽車両扱いで原則車道を左側通行と言われても、スピードの乗った自動車が多いここの車道を走るのは相当危険だ。歩道の走行が許可されている箇所でも幅が狭く、パンクの原因となるガラスや金属片が散らばっていたりと、とても自転車の走行に適した環境とは言い難い。法整備の趣旨には賛成だが、同時に自転車が事故を起こしにくい環境整備も進めてほしい。
 もちろん、それに伴った搭乗者の意識改革も重要となる。まずは、逆走などの危険行為を見かけるのが日常茶飯事の現状を変えなければならない。私たちのような趣味で自転車に乗る人間は、その辺りを意識している者が多いが、学生やお年寄りなど、生活の足として自転車が欠かせない人ほど交通ルールやマナーを意識していないケースが多くみられる。教育も含めた大きな流れで人々の自転車に乗る意識が変わっていけば、自ずと環境も変わっていくかもしれない。(本紙報道部長・麻生純矢)

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