津ぅるどふるさと

造成中の「香良洲高台防災公園」

造成中の「香良洲高台防災公園」

 私たちは再び堤防路を北に向って進み、海の家の辺りで西に折れると、すぐ目の前には造成途中の香良洲高台防災公園が見える。南海トラフ大地震発生に伴う津波が発生した場合、町内全域が浸水するとされている香良洲町。そこで、住民たちの命を守るべく計画されたのが、この公園だ。河川の浚渫工事や道路工事で出る質の良い土砂を活用し、高さ10mほどの高台をつくり、その上を避難場所とする。豪雨による増水が深刻な河川の浚渫工事から出た土砂で津波への対策をするという一石二鳥のアイデアは素晴らしいと思う。
 ふと、腕時計を見ると14時前。まだ昼食をとっていなかった

釣りスポット『日本鋼管』で…対岸には建造中の巨大な船

釣りスポット『日本鋼管』で…対岸には建造中の巨大な船

ので、県道津香良洲線沿いにあるコンビニで食料を調達。腹も膨れたところで、いよいよ香良洲町を離れる。同線から香良洲大橋を超えて、津市雲出伊倉津町へ。そこからまっすぐ、JFEエンジニアリング㈱津製作所の方向へ進む。途中で東に折れ、津市内指折りの釣りスポット『日本鋼管』に向かう。説明するまでもなく同社の旧名にちなみ、その周囲に広がる突堤を指す呼称だ。今はまだ、誰もがこの由来を知っているが、100年先には忘れられてしまうかもしれない。それでもその時代の釣り人たちは相も変わらず、この突堤を日本鋼管と呼び続けているに違いない。この辺りの住所は雲出鋼管町。かつての住民たちの主要な生業を示す旅籠町や船頭町と同じように、企業の名前が街の記憶として、語り継がれていくのは感慨深いものがある。
 ここには年中昼夜を問わず、釣り人の姿が絶えない。寒風吹きすさぶこの日ですら、波間に釣り糸を垂らす太公望たちの姿がちらほら見える。背中越しに彼らの釣果を確かめながら辺りを軽く一周する。
 その後、少し広い場所に自転車を停め、こちらも旧日本鋼管の系譜を引くジャパンマリンユナイテッド㈱津事業所で建造中の巨大な船を眺める。卓越した技術に裏打ちされた人工の妙。華やかさこそないが、自然の産物に決して引けを取らない雄大さを感じる。今も日本鋼管の名が親しまれているのは、この風景のインパクトによるところも大きいはずだ。(本紙報道部長・麻生純矢)

津市の指定史跡「雲出井」

津市の指定史跡「雲出井」

式年遷座も記憶に新しい「香良洲神社」

式年遷座も記憶に新しい「香良洲神社」

 私とM君は木造城跡から田園の中を走る道をのんびりと北東へ進んでいく。11月の風はひやりと冷たいが空からは包みむような優しい日差しが降り注ぎ、私たちを照らしてくれる。ペダルから動力部に送り込む力の量に比例して体が少しずつ温まってくる。
 しばらく自転車を走らせると、用水路に古びた石垣が施されている場所に到着する。これが津市の指定史跡である雲出井だ。この用水路を手がけたのは津藩祖・藤堂高虎公が育て上げた土木・水利のプロフェッショナル・西島八兵衛で、雲出川下流域の慢性的な干ばつを解消すべく、延長約13㎞にも及ぶ大工事の末に完成させている。用水路の3分岐点のすぐ近くにひっそりと建っている水分神社には八兵衛の霊が祀られており、水を手に入れることがどれだけ大変で、人が生きるために必要なものなのかを再認識できる。
 その後、私たちは香良洲町へ向うべく自転車を走らせる。途中、紀勢本線の線路を横切り旧伊勢街道を南へと進んでいく。どちらも往時は、多くの人々が利用していたが今は、その役割を別の交通手段に譲っている。十年一昔と言うが、人の世の移ろいのなんと早いことか。今は自動車が全盛だが、化石燃料の枯渇や環境意識の高まりがあれば、自転車が準主役くらいに大抜擢されることだって充分あり得ると思う。
 旧伊勢街道を途中で東へ曲がり、国道23号を横断。県道香良洲公園島貫線を東へ進んでいくと雲出古川にかかる香良洲橋がみえる。ここを渡ればいよいよ香良洲町だ。
 とりあえず、スマートフォンで地図を開き、М君に香良洲町の地形と今日のルートを簡単に説明する。M君はうなずきながら「綺麗な三角州やなぁ」とつぶやく。まずは香良洲神社に向ってまっすぐ進んでいく。ここの祭神は伊勢神宮の天照大神の妹神・稚日女尊。昨年、20年に一度、社殿を建て替える式年遷座が町をあげて行われたことは、記憶に新しい。それに伴う費用は氏子の寄付によってまかなわれており、地域にとってどれほど大切な存在として捉えられているかは想像に難くない。
 M君にこの当たりの情報をかいつまんで説明した後境内へ。無神論者を自称してはばからないМ君の神仏を参る姿勢は独特。賽銭は軽く放り投げるように入れ礼も角度が浅く非常にそっけない。それに対して「きちんとお参りすれば良いのに」と諭すと鼻で笑われることもしばしば。だがこの日は違った。
 まだ新しい社殿の前に立った彼の動き自体はいつもと大きな差異はないが、その背中には氏子たちの誇りと熱い思いに対する敬意がにじみ出ているように見える。この姿だけを見れば、まだまだ不遜と言われても仕方ないが、彼の姿をいつも見てきた神様は「やればできるやん」と思わず微笑んだに違いない。 (本紙報道部長・麻生純矢)

小戸木橋から見た雲出川

小戸木橋から見た雲出川

 

8月15日14時頃。高野団地を抜けた私たちは、近鉄大阪線の線路を渡り、高岡神社で休憩をとる。数年前の話になるが、この辺りの川や用水路で、三重県のレッドデータブックで絶滅危惧Ⅱ類に認定されているヤリタナゴを見かけた。なんだか御大層な肩書がついているが一昔前には、ごくありふれた魚だった。日本が経済発展を遂げる中で、姿を消していったのだ。ウナギのように水産資源として価値の高い生物は話題になりやすいが、それ以外が姿を消しても気づく人は少ない。声高に自然保護を訴えるつもりはないが、犠牲にした命から、何かを学ばなければいけない。
 休憩を終えたM君と私は高岡の集落から日置へと走っていく。この辺りは、民家しかない、いわゆる裏

高通公園のコンクリート遊具

高通公園のコンクリート遊具

通り。地元の人以外は余り通らない道だ。そこから県道15号に入り、伊勢自動車道の高架をくぐると、目の前には雲出川にかかる小戸木橋。少し早いが、一志町とはこれでお別れだ。
 この橋を渡れば久居。橋上から、堤防の近くにある民家を見ると、土台を相当かさあげしている。人と自然がいかに長い間、戦ってきたかが伺える。
 まずは高通公園から。公園の名前は久居藩の初代である藤堂高通公にちなんでおり、同藩の陣屋があった場所にある。公園内には、昭和を感じさせるコンクリート遊具が並んでいる。それらは蒸気機関車やゾウ、鮮やかな色をしたカエル等々。じっと眺めているだけで、子供の頃の記憶がよみがえってくる。私は幼少期にここで遊んだことはないが、この公園で遊んだ子供の数だけ、思い出が刻まれているだろう。
 公園から、県道15号を東へ。途中、近くにある友人宅へ立ち寄り、持ち合わせていなかった工具を借りる。友人宅近くの道路標識には一本松とある。これは、ほんの10年ほど前まで旧久居市のランドマークであった一本松があったことにちなむ。松は交通事故が原因で枯れ、惜しまれつつも伐採された。地名は街の記憶をたどる際に背表紙のような役割を果たす。この松のことを知らない何百年先の未来でも看板にある地名を見るだけで、その存在を間接的に認識できる。
 軽い整備を終えた私たちは近鉄の踏切を渡り陸上自衛隊久居駐屯地の前へ。私はこの仕事を始めてから、自衛官へのイメージが大きく変わった。他国の脅威や災害に対して自らの命を投げ出す覚悟を持った彼らが厳しい訓練に身を置く姿などを見るうちに自然と敬意を抱くようになったのだ。この駐屯地が津市にあるのが本当に頼もしい。
 時間は16時。今日の行程はここまでにしよう。帰路の途中、野邊野神社に立ち寄り、境内の英霊殿を参拝。今日の平和は、家族や国民のために戦った彼らの尊い犠牲があってのもの。ゆっくりと目をとじて、感謝と祈りをささげた。(報道部長・麻生純矢)

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