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街道に遊ぶ
パソコン机の引き出しを開けたらオーデコロンの瓶に目が留まった。ケルンのオーデコロンだ。ケルンはオーデコロン発祥の地で、ドイツ土産としてもらったこれはナポレオンも使ったという歴史ある香り。
この瓶を見るたびにお土産としてくれた友達を思い出す。辛かっただろう闘病の末に亡くなって、一年余りが過ぎた。コロナ禍でお見舞いにも葬儀にも行けなかった。まだ、どこかにいるようにも感じる。
オーデコロンの香りは柑橘系で、どちらかというと男性向きかもしれないが、人に会わない夜ならば、香りは自分ひとりで楽しむもの。耳の後ろに少しつける。
香りは記憶を引き出すきっかけになるという。紅茶とマドレーヌで過去を思い出したというのは有名なお話だが、私もオーデコロンの香りでもらった時を思い出した。子どもの幼稚園で出会い、それから長い付き合いだった。写真を見返すと若い私たちが笑っている。
お互い賑やかな人間ではなかったので、ぼそぼそと愚痴をこぼし合い、一緒にご飯を食べ、時には一緒に山に登るという付き合いを続けてきた。話を聞いてもらって楽になることもあった。
会うは別れの始め。人がいつかは去っていくのは当然のことだけれど、やはり寂しい。彼女を私の記憶の中に長く留めて、何度でも思い出すことが供養になるだろう。 (舞)
2023年5月11日 AM 4:55
「津市一身田寺内町の館」で5月21日㈰まで「一御田神社の津指定有形文化財・神社外初の一般公開」が開かれている。同神社の本殿には、高皇産靈神と神皇産靈神が祀られている。神社の創立は不詳であるが、棟礼に嘉吉元年(1441年)のものがあるので、これ以前と思われる。寛文8年(1668年)に往古は天ッ宮と称してきた社号を高野山沙門春深により梵天宮と改称されたが、明治に至り往古の地名により一御田神社と改称された。
昭和34年には、宝物である能面・棟礼・ささら・田植歌・扁額など27点が津市指定文化財に指定された。
今回の一般公開は神社外では初めての展示となている。「またとないこの機会をお見逃しなく」と呼びかけている。
公開時間は9時半~16時、休館日は毎週月曜(休日の場合は翌日)。
問い合わせは同館☎059・233・6666。
2023年5月11日 AM 4:55
街道沿いの風情を残す集落を抜けるとJR紀勢本線の一身田駅の木造に瓦ぶき屋根の駅舎が見える。この路線のルーツが私鉄であることは余り知られていないかもしれない。四日市に本社があった関西鉄道が亀山から津間を走る津支線を明治24年(1891)に開通させ、この駅の歴史もその時に始まった。その後、日本が国際社会で台頭するために軍事輸送が強化されていく中で明治40年(1907)に関西鉄道が国有化された。津支線は明治42年(1909)に同じく国営化された私鉄・参宮鉄道(伊勢神宮の参詣路線)と共に路線を編成し、参宮線という名称となった。現在では紀勢本線に編入されており、新宮駅までの区間はJR東海が管轄している。
この駅舎は大正時代に改築されたもので、高田中学、高校、短大の生徒たちが主に利用しているため、一日の平均乗車人数は1000人を超えている。私は最寄りの駅やダイヤの関係もあり、この路線を利用したことが一度しかない。それも大人になってからである。しかし、利用したのは亀山津間。計らずとも路線のルーツに準じた区間を利用していたことを後に知ることとなる。この駅では降りたこともないし、メインストリート沿いではないから前を通ることもないので、恥ずかしながらこれほど趣深い木造駅舎があることも知らなかった。
踏切から線路を渡ると、すぐに大きな常夜灯が見えてくる。前の立て看板に目を通すと常夜灯の来歴がまとめられている。高さ8・6mで市内最大。文化14年(1817)伊勢別街道の宿場町であった窪田宿の東端にあった旅籠の近江屋と大和屋の隣につくられたもの。言い伝えによると、近江国(現滋賀県)の商人が伊勢神宮に寄進しようとしたが断念し、地元の人たちとの話し合いで、ここに建てられたと言われているそうだ。すっかり黒ずんだ偉容が、風雪に耐えて200年以上の歴史を証明している。街道を通る人は、60年周期でやってくる伊勢神宮の参拝ブームである「おかげ参り」の際には爆発的に増えた。特に文政13年(1830年)の際には当時の日本の人口約3000万人の6分の1に当たる約500万人が伊勢神宮にやってきたことからも当時の熱狂ぶりが伺える。主な交通手段が徒歩から自動車に変わり、それに合わせて周辺道路も整備された現在、常夜灯の前を地元の人以外が通ることは少なくなってしまった。参宮客の姿が絶えることが無かった往時と比べるべくもないが、ここに歩いて来ないと常夜灯をじっくりと眺めることができないと考えれば、徒歩旅の醍醐味といえる。
国道23号中勢バイパスの交差点を西へと進み、街道を進む。明治2年(1869)3月10日に伊勢神宮を参詣した際、明治天皇がここで小休憩したことを示す石碑が残っている。翌月には、東京と改称した江戸を都として定める奠都が行われ、日本が欧米列強と肩を並べる近代国家として急速に発展していくことなる。
ここで「遷都ではないの?」と思われた方も多いはず。実際に私もそう学んだ記憶がある。しかし、明治政府は奠都という言葉にこだわった。それぞれの違いは奠都が単純に都市を都と定めるだけに対して、遷都は旧の都を廃して新たな都へと移るというニュアンスが含まれる。つまり、奠都という言葉を使うことは、長きにわたり、日本の都であり続けた京都を蔑ろにしませんよという意思表示なのである。江戸時代には、徳川幕府が置かれた世界屈指の大都市・江戸を中心に政治や経済が回っていたが、あくまで都は京都、征夷大将軍も朝廷から任命される役職である。明治維新で国の中心となった天皇と政治中枢が東京に移れば実質的な遷都であることは間違いないのだが、それを公称すれば京都の人々の反発を買ってしまう。詭弁のようにも思えるが、正論を並べるだけでは人間関係の悪化を招くだけ。伝え方一つで、コミュニケーションに齟齬が生まれたり、トラブルに発展してしまうことなんて日常生活でもそう珍しくない。ここで私は自らを振り返る。妻との会話の中で、私が正論や理詰めによる「正しさ」を全面に押し出したせいで、酷い喧嘩に発展したことが何度もある。私たちが歴史を学ぶのは、大局を見据える判断材料を得る為だけではなく、日々の暮らしに生かせる教訓を得る為でもある。歴史の一幕から、また一つ賢く生きる術を学んだ気がする。(本紙報道部長・麻生純矢)
2023年5月11日 AM 4:55