街道に遊ぶ
いよいよ大津市に入る。津市を出発し、伊勢別街道をたどり、亀山市・甲賀市・湖南市・栗東市・草津市を経て、ついに7つ目の市となる。残るは大津市と京都市のみ。大津市は滋賀県の県庁所在地で、人口は約34万人。市域は滋賀県のシンボルである琵琶湖の南部に接し、琵琶湖から流れる瀬田川を挟んでL字型に広がっている。この瀬田川は、大阪湾に注ぐ淀川の上流部分であり、川を下るにつれて宇治川、淀川と名前を変えていく。
「天下分け目」という言葉を聞くと、多くの人が真っ先に岐阜県の関ヶ原を思い浮かべるだろう。しかし、それに劣らず有名な「天下分け目」がここにもある。それが瀬田川に架かる瀬田の唐橋だ。この橋は、あの有名なことわざ「急がば回れ」の由来にもなっている。「もののふの 矢橋の舟は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」という歌がその元ネタと言われている。この歌の意味は、(草津の)矢橋から船で琵琶湖を渡るのは速いが、風が強く危険が伴うため、急ぎたいなら安全な瀬田の唐橋を回ったほうがよい、というものだ。今でこそ、大津市内に琵琶湖大橋が掛かっており、わずかな料金を支払えば、安全かつ簡単に湖の上を行き来できるようになったが、昔はスピードの代償に相応のリスクを支払う必要があったというわけである。命と安全を天秤にかけたらどちらが大事かは自明の理である。
大津市の市域に入ってしばらく進むと、瀬田の唐橋が見えてくる。この橋は、古来より軍事・交通の要衝として重要な役割を果たしてきた。東海道や中山道を京都へ入る際、この橋を渡らなければ、琵琶湖を船で横断するか、大きく南北に迂回する必要があったためだ。また、名所としても知られ、先述の歌や歌川広重の「近江八景」にもその姿が描かれている。現在架かっている橋は鉄筋コンクリート製で、長さは172メートル。擬宝珠を配した欄干や装飾された橋桁など、往時を彷彿とさせるデザインとなっている。
この橋は日本史上、何度も「天下分け目」となる舞台となった。有名な例として挙げられる筆頭は、672年に発生した「壬申の乱」。天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の御子である大友皇子との争いが、この地で決着した。このほかにも、764年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、1221年の承久の乱など、数えきれない戦いの趨勢を決した場所がこの橋なのである。また、伝説ではあるが、平将門を討ったことでも知られる藤原秀郷(俵藤太)の大ムカデ退治の舞台としても広く知られてる。
そんな中でも、私が特に印象深いのは戦国時代の「本能寺の変」における瀬田の唐橋の役割だ。1582年、明智光秀が謀反を起こし、織田信長と信忠親子を討ったこの事件の後、光秀は織田家の本拠地である安土城を目指した。しかし、瀬田城主・山岡景隆は信長への忠義が篤かったこともあり、唐橋を落として明智軍を足止めした。この行動により、光秀は仮橋を架けるのに3日を費やすこととなり、「中国大返し」で畿内へと迅速に兵を勧めた羽柴秀吉と準備不足のまま相対することなったという。そして、山崎の戦いで光秀は敗北し、権力を握った秀吉が、天下人への道を歩む契機となった。一方、景隆はこの時の功績で出世し、子孫が栄えたかというと、そう単純な話でもなく、後に秀吉と敵対したため、所領を没収されて隠遁を余儀なくされた。この話からも、歴史や人生には、見える形でも見えない形でも、無数の「天下分け目」(ターニングポイント)が存在していると実感させられる。
唐橋のたもとの川べりに下り、日陰で休憩を取る。琵琶湖から吹く風は涼やかで、暑さを和らげてくれる。この地に刻まれた無数のドラマに思いを馳せながら、北方に広がる琵琶湖を見つめる。ちなみに琵琶湖はもともと三重県にあったことをご存じだろうか。約400万年前、伊賀盆地(現在の大山田)に形成された「古琵琶湖」が、地殻変動により長い年月をかけて北方に移動し、現在の形になったのだ。三重県伊賀市のせせらぎ運動公園には、琵琶湖のルーツを記したモニュメントが設置されており、草津市にある琵琶湖博物館にもこの事実が紹介されている。
瀬田の唐橋を渡ると、いよいよ京都は目と鼻の先。橋の西側から南へ1キロほど進むと、東寺真言宗の大本山・石山寺がある。紫式部が『源氏物語』を執筆した場所としても有名で、文学や歴史好きにはたまらない名所。また、「びわ湖大河ドラマ館」も設置されている。
橋を渡り、北へ進むとJR石山駅に到着する。この駅周辺は想像以上に栄えていて驚かされる。飲食店や多くの店舗が立ち並び、活気にあふれている。調べてみると、大正時代末期から大型工場が進出し、現在も東レの工場があり、1日2万人が利用している。新名神高速道路の開通により、滋賀県が京都への通過点として認識されがちだが、実際に歩いてみると、京都に負けないくらい魅力的な場所がいくらでもある。「百聞は一見に如かず」とはまさにこのこと。
さて、この旅もいよいよ大詰め。次回は大津から京都へ向かう行程。どんな旅路になるのか、私自身が一番楽しみにしている。(本紙社長・麻生純矢)
いつも「街道に遊ぶ」をご愛読頂きありがとうございます。以前より読者の方から「どこを歩いているのかわかり難いので、地図を掲載してほしい」というご意見を頂いていたので、旧伊勢別街道と旧東海道で京都をめざす旅が終盤に差し掛かった機会に、地図と共に振り返っていきます。
この徒歩旅のルールは各街道を私が一日で歩ける範囲で分割し、次回は前回のゴール地点から歩き始めるというものです。その道中でのネタを使い切ると、再び次の行程へという流れとなっています。これまで5日間で計108㎞を歩いてきた。内訳は以下。
1日目は2023年1月24日。旧伊勢別街道の始点である津市の江戸橋~芸濃町椋本の18㎞。
2日目は2023年6月9日。椋本~関宿までの14㎞(亀山駅から椋本まで歩いた距離含む)。
3日目は2023年10月2日。関宿~滋賀県甲賀市の近江鉄道水口石橋駅までの34㎞。
4日目は2024年2月27日。水口石橋駅から栗東市のJR手原駅までの24㎞。
5日目2024年1は手原駅~大津市のJR石山駅までの18㎞。
残る行程は石山駅~京都市の三条大橋の16㎞を残すのみ。近日中にまとまった時間を取って歩く予定を立てています。ただし、ここから先は、見所も多いはずなので、一気に最後まで歩くかを思案しているところです。乞うご期待!
2024年12月12日 PM 4:05
旧東海道を大津市方面へと進んでいくと、小さな祠を見つけた。中を覗くと、顔を白く塗られた地蔵が祀られている。近くの案内看板によると、これは「子守地蔵」と呼ばれるもので、江戸時代、参勤交代の大名行列を乱した親子が斬られた場所につくられたものらしい。地元の町内会が経緯をより詳しくまとめたエピソードをインターネットで公開していたので読んでみた。内容はこうだ。肥後(熊本県)の大名行列が通過する際、沿道で平伏していた母親と子供の目の前にカブトムシが飛んできた。子供が、それを捕まえようとして列を乱した結果、親子共々、無礼討ちにされた――そのような内容の民話を起源としているという。以来、毎年8月の地蔵盆には近所の人々が集まり、この地蔵に化粧を施し、供養を行っている。
この話を読んだとき、胸が締め付けられる思いがした。小さな親子が命を落としたことへの悲しみもあるが、それ以上に「自分がその当事者だったかもしれない」と感じたからだ。正確には、私の先祖がその場にいたかもしれないと想像したのである。
少し前にも触れたことがあるが、私の母方の祖母は肥後を治めた細川氏の家臣の家の生まれ。一方、祖父は鈴鹿市の東海道沿いの田舎町で生まれ育ったが、百姓のまま人生を終えるのを良しとせず、裸一貫で満州に渡った。そして土木作業などの肉体労働をしながら勉強を続け、南満州鉄道(満鉄)の試験に合格した経歴の持ち主だ。祖母とのなれそめはというと、満鉄の先輩社員だった祖母の兄が、祖父の気骨に惚れ込み、自分の妹(祖母)との縁談を勧めたという話だ。
時代劇などで参勤交代の行列が通る場面では、沿道の庶民が行列が通過するまで、平伏し続けているイメージが強いが、実際にはもっと緩やかなものだったという。行列が通る際、道を譲っていれば問題なく、むしろ華美な大名行列を見物するのは庶民にとって娯楽の一つで、大名側も権威を示すために行列をきらびやかなものにしていた側面がある。一方で、列を乱したり前を横切る行為は無礼とされ、厳しい処分の対象になった。しかし、他国の領民を斬れば外交問題に発展する恐れもあり、無礼討ちに至る例は稀だったようだ。
この子守地蔵にまつわる民話が、どの程度史実と重なるかはわからない。ただ、ここが西国大名の参勤交代の行列が頻繁に通った東海道沿いの地であることを考えると、民話の信憑性も感じられる。前述の通り無礼討ちが稀だったからこそ、悲劇性が際立ち、語り継がれている可能があるためである。とはいえ、当時のルールを現代の価値観で「残酷」「野蛮」と批判する気にはなれない。その当時の社会秩序を守るために必要だったルールであり、歴史を振り返る上では、当時の価値観に則って物事を考える姿勢が求められるからである。この地蔵の話を聞いて私の胸が締め付けられるのは、自分の先祖が行列に加わっていた可能性を想像してしまった非常に私的な感傷に過ぎない。スピリチュアルな話には興味がない私ですら、海の向こうで結ばれた縁が自分を今ここへ導いたのではないかと考えさせられる。
子守地蔵を後にして旧東海道を南西に進むと、小川が流れる公園のような場所にたどり着く。そこには東屋が整備されており、椅子に腰を下ろして一息つく。ここは平安時代に「野路(萩)の玉川」として知られ、湧き出る清水と美しい萩の花が旅人の心を打ち、多くの歌に詠まれた地だ。鎌倉時代には宿駅が置かれ、上洛した源頼朝がこの地に逗留したという記録もある。特筆すべきは、江戸時代から現代に至るまで、地元の人々がこの場所の保存に尽力してきた点だ。今も美しい状態が保たれているのは、その弛まぬ努力の賜物だろう。時代の流れとともに、かつて歌に詠まれた名勝としての景色は姿を消してしまったが、それでも現代でできる形で後世に伝えようとする地元の人々の姿勢には頭が下がる。形あるものや命はいつか滅びるが、人の思いは不滅である。連綿と受け継がれてきた思いのおかげで、とめどなく湧き出る清らかな水を見ながら、疲れを癒すことができる。
10分ほど体を休めた私は、再び旧東海道に戻る。しばらく進むと、また面白そうな場所を見つけて足を止める。ヒシの葉がびっしり水面を覆う池に浮かぶ小島に向かって石橋が伸びている。橋の脇の石碑には「浄財弁財天」と書かれているので、どうやら神社のようだ。小島の周囲は木々が生い茂っているため、岸辺からは社らしきものを見ることはできない。少し勇気を出して石橋を渡って境内に入ると、草も生えておらず、手入れが行き届いており、氏子たちの信仰の篤さを感じる。弁財天はとても面白い神である。芸術や水をつかさどる神で七福神の一柱として信仰を集めているが、ヒンドゥー教の女神サラスヴァティがルーツで、仏教の神として日本に入ってきた。長らく日本では、仏教と神道が混ざり合い、それぞれの神や仏を同一視する神仏習合というスタイルが自然な信仰の形だった。明治の廃仏毀釈によって仏教と神道は切り離されたが、広く信仰を集めていた弁財天は今も寺院と神社の双方で祭られる稀有な神となっている。神前で残りの道中の安全を願うと小島を後にするといよいよ大津市。(本紙社長・麻生純矢)
2024年12月5日 AM 4:55
時刻はちょうど10時。一歩踏み入れた草津市は滋賀県の南西部に位置しており、市域は約68㎢。特筆すべきは人口で、市が誕生した1954年の約3万2000人と比べると、現在の人口は約14万人。わずか70年で人口が4倍以上に増えている計算になる。元々、東海道と中山道が接する草津宿を擁する交通の要衝だったが、その要素は現在にも引き継がれ、電車や自動車を利用した交通の利便性に優れる京阪神のベッドタウンとして成長したという経緯がある。昔、草津市に初めてきた時、草津温泉がある群馬県の草津町と勘違いをして「せっかくなので温泉に入ろう!」と友人と一帯を探し回ったのは若気の至りというほかない。
旧東海道は、国道1号の手前で脇道に入っていき、歩行者専用の草津宿橋で国道を横断する形で整備されている。この場所には以前、周囲の平地よりも川床が高い場所にある天井川、草津川が流れており、国道に川の下を通す形で草津川隧道と草津川第2トンネルが設置されていた。天井川はその構造上、大規模な水害が発生する危険性があるため、平成14年(2002)に河川の一部を平地化した新草津川放水路の通水を開始。これによって、草津川は廃川となった。
二つのトンネルに話を移すが、坑門の中央に仕切り壁を配した草津川隧道は昭和11年(1936)に造られ、当初は上下2車線という形で供用開始。しかし、自動車の普及に伴う交通量の増加に対応できなくなったため、第二草津川トンネルが昭和42年(1967)に造られることとなった。以降は、草津川隧道を上り、第二草津トンネルを下りとした4車線として長らく使われてきた。しかし、両トンネルは高さが約4・6m~4・7mしかなく、草津川隧道上を草津川が流れていたため、改修できないまま、長年使われてきた。しかし、前述の通り草津川が廃川になったことで、高さと交差点の改良が可能となり、平成29年(2017年)に草津川隧道、平成30年(2018)に草津川第2トンネルがそれぞれ撤去されることとなった。そして、平成31年(2019)にトンネルが無くなったことで国道1号によって分断されていた旧東海道を結ぶために草津宿橋が設置された。
橋の近くにある案内板には、こういった経緯が写真や図を交えながら、丁寧にまとめられており、第二トンネルから取り外された銘板も設置されている。この銘板を揮毫したのは、草津中学校3年生だった松田(旧姓)明さんという女性。案内板には、取り外された銘板と彼女が50年以上の時を経て再会した際の写真も掲載されている。
本能寺の変や関ヶ原の戦いなど、誰もが知る歴史的な事件が起こった場所に足を運び、思いを馳せる人は多い。有名、無名を含めて無数の人が行きかっていた旧東海道を巡る旅も似た色合いを帯びているといえる。そういった歴史的な価値が担保された史跡と比べると、私たちの生活を支える道路やそれに付随するトンネルなどは、その価値が軽んじられている感が否めない。それらは時代のニーズや土木技術の進歩に合わせて、どんどん姿を変えていくものではあるので、いちいち全てを記憶してはキリがないという現実も理解している。とはいえ、まごうことなき先人たちの知恵と汗の結晶であるトンネルが天井川と共に姿を消しても、忘れ去られないように〝痕跡〟を残す姿勢には共感を抱かずには居られない。
案内板を隅から隅まで読み終えた私は、草津宿橋上へと歩みを進めて、眼下に流れる無数の車に目をやる。きっとここの景色も、いずれ姿を変える。誰もが東海道を徒歩で旅する時代から、車や列車や飛行機での移動が当たり前となり、それに合わせて世界は流転してきた。天井川の廃川とトンネルの設置と撤去もその一幕に過ぎない。遠い未来には、今は絵空事のように思われている空飛ぶ車がここを行き来しているかもしれない。
当たり前のことであるが時代が進むほどに、我々が背負う過去は増えていく。現代の便利な生活を謳歌しつつも、その礎を築き上げた先達のことを知り、然るべき敬意を払うことから生まれる正の循環が健全な発展を続ける原動力となると私は信じている。「持続可能な社会」が人類共通のキーワードとなって久しいが、美辞麗句を掲げつつ、政治的なパフォーマンスやマネーゲームに利用している〝偉い人〟の姿に冷ややかな視線を向けてしまうことも少なくない。私は、しおらしく世界の行く末を憂うよりも、見慣れた道から繋がっていく多くの場所に自分の足で辿り着き、未知を明らかにしたい。その過程で得た経験や知見を皆さんにフィードバックし、『何もない』と思われがちな景色の中に潜む面白さに気づくきっかけをつくることこそが、私にできる持続可能な社会への貢献だと確信している。(本紙社長・麻生純矢)
2024年9月12日 AM 4:55