街道に遊ぶ

鈴鹿峠の麓にある「片山神社
旧東海道から臨む国道1号の鈴鹿峠の橋脚

 鈴鹿峠を越える前に麓の片山神社を参拝。この神社の創建時期は不明だが、式内社であるため千年以上の歴史があることだけは確かである。京から伊勢神宮へと向かう斎王が神の住まう伊勢国に入ってすぐのこの場所に逗留して禊を行った地でもあり、倭姫命を祀っている。祭神の一柱である瀬織津姫(せおりつひめ)は水をつかさどる女神で、鈴鹿権現としても信仰されている。武勇に優れた鈴鹿御前の名でも広く知られている女神で、坂上田村麻呂伝説と深く結びつき、全国各地で様々な伝説や物語が生まれた。鈴鹿御前と田村麻呂や彼をモデルにした人物は夫婦となり、鬼退治などで活躍をする。
 鈴鹿御前は、人気のある漫画やゲームなどに様々なキャラクター付けがされた上で登場しており、若者たちにもお馴染みの神にもなっている。事実、「鈴鹿御前」とネット検索すると可愛らしい画像しかヒットしない。こういった現状に、苦言を呈する人もいるが、私は信仰とは、形ではなく本質から生まれると思っている。私たちが目の当たりにしている厳かな神の姿だって、人々に伝えやすいように目に見える形で神性を具現化し、長い時間をかけて変遷を重ねた結果に過ぎないはず。そうであれば、時代に即した形で、若者たちにも愛されていること自体は、決して悪いことではないと感じる。そもそも昔から日本人は、同じようなことをしている。江戸時代の曲亭馬琴が水滸伝の豪傑たちの性別を逆転させ、日本の美女に置き換えて人気浮世絵師に挿絵を描かせた物語「傾城水滸伝」は大変人気を博したそうだ。
 大きく立派な木の鳥居をくぐり、そびえ立つ見事な石垣に目をやりながら石段を上る。どんな大きい社があるのかと期待に胸を膨らませているが、石段を上った先の広場には小さな社があるのみで、なんとも寂しい光景が広がっている。すぐにスマートフォンで調べてみると、本殿は1999年に放火で焼失してしまったそう。不届き者の暴挙に強い憤りを覚えるが、ここは神前。心を静めて社の前に立ち、峠越えの無事を祈り、神社を後にする。
 神社の入り口のすぐ脇の旧東海道から鈴鹿峠を目指す。針葉樹の落ち葉に彩られた坂道を登っていくと、国道1号の下り道路の橋脚が街道をまたぐ形で走っている。橋脚を見上げると装飾されてない構造体。ここからしか見られないいわゆるオフショットのような景色といえるかもしれない。そこから少し昇った橋脚とほぼ並行な場所にベンチが設置されているので、少し休憩。道路を下っていく自動車を眺めながら、ペットボトルの緑茶でのどを潤す。昔は難所と言われた鈴鹿峠も今では豊かな自然とふれあえるハイキングコースになっている。時計を確かめると11時過ぎ。JR関駅から夢中で歩いてきたが、もう3時間以上が経過している。5分ほど足を休めると、ベンチから立ち上がり、鈴鹿権現のお導きに従って峠をめざす。(本紙報道部長・麻生純矢)

 旧東海道を辿りつつ私は、坂下宿の方へと入っていく。普段、鈴鹿峠を越える場合は、国道1号を通るので、この辺りを歩くのは初めて。静かな山里の景色だけでなく、空気の肌触り、漂うにおい、生活の息遣いなどの音を五感で楽しみ、記憶に刻み込んでいく。
 途中、コミュニティ施設の「鈴鹿馬子唄会館」と、登録有形文化財にも指定されている旧坂下尋常小学校の木造校舎を活用した施設「鈴鹿峠自然の家」の下を通り過ぎる。馬子唄とは昔、馬に荷物や人を乗せて運ぶ職業の人たちの間で歌われていた労働歌で、鈴鹿馬子唄は民謡として今も歌い継がれている。「馬子にも衣装」ということわざも汗と泥にまみれた服で、懸命に働く馬子たちの姿に起因している。
 少し進むと坂下宿。東海道五十三次の48番目の宿場町で東の箱根と並ぶ難所の麓ということもあり、江戸時代には参勤交代で江戸に向かう大名が宿泊する本陣や脇本陣も含めて、多くの宿屋が軒を連ねていた。現在は、集落の真ん中に立派な二車線道路が走っており、その工事で往時の町並みは失われているが、本陣や脇本陣跡の石碑が残っている。元の坂下宿は更に西の峠寄りの場所にあったが、洪水によって壊滅したため、現在に移されたという経緯がある。ここまで一時間ほど歩き詰めだったので、集落の途中にある公園で一休み。年季の入った動物をかたどった遊具はなんともいえない趣があるが、流石に童心に帰って遊具で遊ぶほど、はしゃいではいない。ポケットからスマートフォンを取り出してグーグルマップ上で、ここからのルートを確認する。ネット上には有志によって、旧東海道のルートがマップ上に打ち込まれているので、それを辿れば道を間違えることが無い。便利な世の中になったものである。坂下の集落を抜けた後は再び国道1号に合流し、峠の方を目指す形になるようだ。しかし、ここに落とし穴が潜んでいた。
 鈴鹿峠の国道1号は登り専用と下り専用で道路が分かれており、先述のルートでは登り側に誘導されている。いざ、登り側に来てみると、歩道がないだけでなく、二車線共に同じ方向に車が走っており、右側通行がほぼ意味をなさない。すぐに下り側に戻ると、こちらには、しっかり歩道が整備されていて一安心。インターネットによって、自分が知らない情報を簡単に得られるようになった反面、その正確性は自分の知識や経験によって確かめるしかない。結局のところは「百聞は一見に如かず」ということを痛感する。
 国道から再び、旧東海道に戻ると、針葉樹の林に覆われており、路面は、茶色くなった枯れ葉と鮮やかな緑の苔がコントラストを織りなしている。少し奥には元の坂下宿があった場所があり、目を凝らすと生い茂る木々のところどころに石垣が残るなど、人の営みの痕跡が感じられる。400年ほど前にこの閑寂とした場所が多くの旅人で賑わっていたことや、新しい坂下宿も今は姿を消していることを思うとまさに諸行無常である。(本紙報道部長・麻生純矢)

伊勢別街道と東海道の分岐点・関宿の「一の鳥居」

 

時刻は12時前。関宿の東の追分にある大きな木製の鳥居「一の鳥居」が見えてくる。この鳥居は伊勢別街道と東海道の分岐点を示す目印でもあり、江戸時代中期に建てられたことが始まりと言われている。江戸時代の終り頃からは伊勢神宮の式年遷宮に合わせて20年に一回建て替えられるようになり、伊勢神宮内宮の宇治橋の鳥居の旧材が使用されている。
 東海道47番目の宿場町として栄えた関宿。街道に沿って1・8㎞にもわたって江戸時代から明治期の町屋が軒を連ねる様は風情に溢れており、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。人の少ない平日の特権で、じっくりと町並みを愛でながら、小公園の百六里庭まで移動。ベンチに腰掛けてスマートフォンのアプリでJR亀山駅から、ここまで歩いた記録を確認。歩数は約1万8千歩、距離は14㎞。ひとまず伊勢別街道を歩くという目的は達成されたので、ここからは東海道を西へ進み、京都の三条大橋をめざすことになる。日没まで相当時間があり、体力的にはまだ余裕があるとはいえ、今から鈴鹿峠を歩いて超えられるかと言われたら少し自信が無くなる。一人旅なので送迎も期待できず、峠の向こうの交通事情には全く明るくないため、無理をして戻ってこられなくなるのが一番怖い。ここからであればJR関駅から亀山駅までは確実に戻れるし、次回の再スタートも容易。そう考えると潮時だろう。考えがまとまると私は立ち上がり、敷地内にある建物「眺関亭」に登る。視界一杯に広がる瓦屋根を眺めながら、この先の旅に期待を膨らませる。
 その後、街道沿いの福蔵寺に立ち寄る。ここは織田信長の三男・信孝の菩提寺。信孝の母は、兄である嫡男・信忠と信雄の母と比べると身分が低く、彼の織田家での序列は兄たちよりも一歩劣っていた。しかし、明智光秀による本能寺の変が起こり、信長と家督を継いでいた信忠が横死すると好機が巡ってくる。信孝は中国大返しで畿内へと舞い戻った羽柴秀吉と合流し、光秀を討つ功を手にしたのだ。これで、政治の主導権を握れると思われたが、全ては天下を狙う秀吉の掌上。後に、秀吉と対立を深めた信孝は政治と軍事の両面で完敗し、自害に追い込まれる。享年25歳。
 この寺は元々、信長の冥福を祈るために信孝が建立したが、前述の経緯で信孝自身が亡くなったために菩提寺となった。境内にある信孝の墓前で目を閉じ、手を合わせ冥福を祈りながら、私の心中に歴史の敗者である彼の悲劇は決して他人事ではないという感情がわきあがってくる。というのも私の母方の祖母が細川藤孝・忠興に仕えた譜代の家臣の家の出だからだ。細川親子は、本能寺の変後に、縁が深かった光秀の協力要請を断って秀吉につき、その後も難局を乗り切り、最終的に肥後五十二万石を有する大大名となった。しかし、一つ選択を誤れば、信孝と同じように滅びていても不思議ではなく、今この文章を書いている私も存在していない。
 歴史上の出来事の結果を知る私たちは、いわば超越者的な視点から、敗者の至らぬ点を批判しがちである。しかし、勝者と敗者の差など、まさに紙一重。一寸先すら見えない闇の中、一筋の光明を掴むために知恵を振り絞り、必死に行動した結果、明暗が分かれたに過ぎない。我々も先の見えない人生の戦いの真っ最中である。それがどう幕を閉じるかは誰にもわからないが、勝敗に関わらず果敢に生きた先人への敬意を忘れない自分でありたいと願う。
 福蔵寺を後にした関宿を西の追分まで歩き、JR関駅から電車で帰路についた。次回は鈴鹿峠を越えるところから。(本紙報道部長・麻生純矢)

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