街道に遊ぶ

 お正月のご馳走の代表格といえば、蟹であるが、土山町の旧東海道沿いの地域には大蟹伝説が残っている。伝説のあらすじはこうだ。昔、鈴鹿峠には人を襲う大蟹が住み着いていた。そこで僧侶がこの地に赴き、蟹に説法をしたところ、有り難い話に歓喜すると同時に自らの悪行を省みた後に、甲羅が八つに割れて往生したという。僧侶が蟹の甲羅を供養した場所に建てたと言われる塚が今も残っている。ちなみに、塚の由来は諸説あり、鈴鹿峠で旅人を襲う山賊を一網打尽にし、その亡骸を埋めて供養した場所に建てたという血なまぐささがリアリティを搔き立てる話もある。
 また、戦国時代には天文11年(1542年)、美杉町を本拠とした伊勢国司・北畠具教が甲賀侵出を果たすために、山中城を攻めた蟹坂の戦いの舞台となっている。この戦は、山中城を守る山中秀国が近江守護・六角定頼からの援軍を受け、1万を超える北畠勢を退けている。この場所には小さな石碑が残るのみであるが、今では気軽に行き来できる三重県と滋賀県も、当時は文字通り伊勢と近江の国境だった。自由に行き来できないどころか、領地を巡って命のやり取りが行われていたと思うと、平和な時代に生まれ、今この瞬間、生を存分に謳歌しているだけで幸せといえる。もちろん、恒久的な平和というのは人類の歴史が始まって以来、一度も実現していない。今も世界中のどこかで民族や宗教の違いなどを背景に、大小の戦争が現在進行形で行われている。ただ、500年近く前には、血みどろの争いを繰り広げていた土地に暮らす人間が争わなくて良くなっていると考えると、世界はほんのわずかであるが、確実に平和に近づいている。それが何万年後になるかはわからないが、焦らず少しずつを信じて未来へとバトンを繋いでいくことこそが現代に生きる私たちの使命なのかもしれない。
 街道を進むと田村川に海道橋がかかっている。有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次・土山宿・春之雨」に描かれていた田村永代板橋を復元したもの。雨の中、大名行列が橋を渡る姿や増水した川の様子などが巧みに描かれている。安永4年(1775年)にこの橋が架けられる以前は、600mほど下流に川の渡り場があったが、大雨で増水するたびに溺れ死ぬ旅人が後を絶たなかった。そこで、幕府の許可を受けて、東海道の道筋を変えて、当時の最先端の建築技術を駆使して橋を架けることになったという。道とは人々のニーズに合わせて時代に合った形に生まれ変わるもの。危険な川を命がけで渡る状況を変えるために安全な橋が架けられ、現代のモータリゼーションに適応した国道1号が整備された。旧東海道を歩く人の数は往時とは比べるべくもないが、再び徒歩で旅する人のために擬宝珠のついた立派な歩行者用の橋が復元されたということは、東海道とともにあった地域の歴史を語り継いでいきたいという強い意思表示に他ならない。もちろん、橋のたもとの案内板には、広重の浮世絵も掲載されている。
 歴史とは事実の蓄積であるが、その歴史をどのように後世へと伝えていくか次第で地域の魅力は左右される。そういった観点で考えると、東海道という地域の歴史の核となる存在をコンテンツ化し、多くの人に伝えていこうとする姿勢には共感を覚える。通信技術や交通網の発達で、遠くの人とコンタクトを取ったり、長距離移動が容易になったせいで、気ぜわしく生きることを強制されている現代人。古い街道を歩いていると、昔の人の時間の感覚や社会が回っていたスピードと自分を重ね合わせることができる。「人間は、もっとのんびり生きるべきだよなぁ」と、現代社会に異を唱えるべく、心中で強く主張するものの、所詮私はしがない社会の末端に過ぎない。せめて、今日この旅をしている間は、時間やしがらみなどを忘れて、存分に楽しみたい。(本紙報道部長・麻生純矢)

鈴鹿峠の麓にある「片山神社
旧東海道から臨む国道1号の鈴鹿峠の橋脚

 鈴鹿峠を越える前に麓の片山神社を参拝。この神社の創建時期は不明だが、式内社であるため千年以上の歴史があることだけは確かである。京から伊勢神宮へと向かう斎王が神の住まう伊勢国に入ってすぐのこの場所に逗留して禊を行った地でもあり、倭姫命を祀っている。祭神の一柱である瀬織津姫(せおりつひめ)は水をつかさどる女神で、鈴鹿権現としても信仰されている。武勇に優れた鈴鹿御前の名でも広く知られている女神で、坂上田村麻呂伝説と深く結びつき、全国各地で様々な伝説や物語が生まれた。鈴鹿御前と田村麻呂や彼をモデルにした人物は夫婦となり、鬼退治などで活躍をする。
 鈴鹿御前は、人気のある漫画やゲームなどに様々なキャラクター付けがされた上で登場しており、若者たちにもお馴染みの神にもなっている。事実、「鈴鹿御前」とネット検索すると可愛らしい画像しかヒットしない。こういった現状に、苦言を呈する人もいるが、私は信仰とは、形ではなく本質から生まれると思っている。私たちが目の当たりにしている厳かな神の姿だって、人々に伝えやすいように目に見える形で神性を具現化し、長い時間をかけて変遷を重ねた結果に過ぎないはず。そうであれば、時代に即した形で、若者たちにも愛されていること自体は、決して悪いことではないと感じる。そもそも昔から日本人は、同じようなことをしている。江戸時代の曲亭馬琴が水滸伝の豪傑たちの性別を逆転させ、日本の美女に置き換えて人気浮世絵師に挿絵を描かせた物語「傾城水滸伝」は大変人気を博したそうだ。
 大きく立派な木の鳥居をくぐり、そびえ立つ見事な石垣に目をやりながら石段を上る。どんな大きい社があるのかと期待に胸を膨らませているが、石段を上った先の広場には小さな社があるのみで、なんとも寂しい光景が広がっている。すぐにスマートフォンで調べてみると、本殿は1999年に放火で焼失してしまったそう。不届き者の暴挙に強い憤りを覚えるが、ここは神前。心を静めて社の前に立ち、峠越えの無事を祈り、神社を後にする。
 神社の入り口のすぐ脇の旧東海道から鈴鹿峠を目指す。針葉樹の落ち葉に彩られた坂道を登っていくと、国道1号の下り道路の橋脚が街道をまたぐ形で走っている。橋脚を見上げると装飾されてない構造体。ここからしか見られないいわゆるオフショットのような景色といえるかもしれない。そこから少し昇った橋脚とほぼ並行な場所にベンチが設置されているので、少し休憩。道路を下っていく自動車を眺めながら、ペットボトルの緑茶でのどを潤す。昔は難所と言われた鈴鹿峠も今では豊かな自然とふれあえるハイキングコースになっている。時計を確かめると11時過ぎ。JR関駅から夢中で歩いてきたが、もう3時間以上が経過している。5分ほど足を休めると、ベンチから立ち上がり、鈴鹿権現のお導きに従って峠をめざす。(本紙報道部長・麻生純矢)

 旧東海道を辿りつつ私は、坂下宿の方へと入っていく。普段、鈴鹿峠を越える場合は、国道1号を通るので、この辺りを歩くのは初めて。静かな山里の景色だけでなく、空気の肌触り、漂うにおい、生活の息遣いなどの音を五感で楽しみ、記憶に刻み込んでいく。
 途中、コミュニティ施設の「鈴鹿馬子唄会館」と、登録有形文化財にも指定されている旧坂下尋常小学校の木造校舎を活用した施設「鈴鹿峠自然の家」の下を通り過ぎる。馬子唄とは昔、馬に荷物や人を乗せて運ぶ職業の人たちの間で歌われていた労働歌で、鈴鹿馬子唄は民謡として今も歌い継がれている。「馬子にも衣装」ということわざも汗と泥にまみれた服で、懸命に働く馬子たちの姿に起因している。
 少し進むと坂下宿。東海道五十三次の48番目の宿場町で東の箱根と並ぶ難所の麓ということもあり、江戸時代には参勤交代で江戸に向かう大名が宿泊する本陣や脇本陣も含めて、多くの宿屋が軒を連ねていた。現在は、集落の真ん中に立派な二車線道路が走っており、その工事で往時の町並みは失われているが、本陣や脇本陣跡の石碑が残っている。元の坂下宿は更に西の峠寄りの場所にあったが、洪水によって壊滅したため、現在に移されたという経緯がある。ここまで一時間ほど歩き詰めだったので、集落の途中にある公園で一休み。年季の入った動物をかたどった遊具はなんともいえない趣があるが、流石に童心に帰って遊具で遊ぶほど、はしゃいではいない。ポケットからスマートフォンを取り出してグーグルマップ上で、ここからのルートを確認する。ネット上には有志によって、旧東海道のルートがマップ上に打ち込まれているので、それを辿れば道を間違えることが無い。便利な世の中になったものである。坂下の集落を抜けた後は再び国道1号に合流し、峠の方を目指す形になるようだ。しかし、ここに落とし穴が潜んでいた。
 鈴鹿峠の国道1号は登り専用と下り専用で道路が分かれており、先述のルートでは登り側に誘導されている。いざ、登り側に来てみると、歩道がないだけでなく、二車線共に同じ方向に車が走っており、右側通行がほぼ意味をなさない。すぐに下り側に戻ると、こちらには、しっかり歩道が整備されていて一安心。インターネットによって、自分が知らない情報を簡単に得られるようになった反面、その正確性は自分の知識や経験によって確かめるしかない。結局のところは「百聞は一見に如かず」ということを痛感する。
 国道から再び、旧東海道に戻ると、針葉樹の林に覆われており、路面は、茶色くなった枯れ葉と鮮やかな緑の苔がコントラストを織りなしている。少し奥には元の坂下宿があった場所があり、目を凝らすと生い茂る木々のところどころに石垣が残るなど、人の営みの痕跡が感じられる。400年ほど前にこの閑寂とした場所が多くの旅人で賑わっていたことや、新しい坂下宿も今は姿を消していることを思うとまさに諸行無常である。(本紙報道部長・麻生純矢)

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