随想倶楽部
津市八町で生まれた谷川士清は「日本書紀通証」「和訓栞」以外に、珍しい石について「勾玉考」という本を著しました。反古塚に埋められたのは2つの書物に劣らない大切な物であったのでしょう。
私は会の勉強会で、皆と一緒に読み進めようと、会の顧問であった三ツ村健吉先生の講演会の資料を、原文とパソコンで打ち、読み下し文(書き下ろし)と意訳も入れました。意訳は若い頃、津市八町に住んでおられた郷土史家の青木秀次郎氏のものでした。まずは、自分でやってみようと、難解な漢字の読みと意味を、県立図書館の『大漢和辞典』等で調べ、読み下しをたどり、訳を考えましたが、意訳では話がポンと飛んでいき、かえって足踏みをしてしまい、結局、直訳に切り替えました。
その結果、たどたどしい文になってしまいましたが、道の上をしっかり踏みしめて歩いている気もしました。話の途中、近くの安濃郡五百野、安濃郡長岡町、少し離れて鈴鹿郡長瀬神社も出てきて、三輪山を含め、士清さんが実際に歩いて調べていることが想像できます。また、たくさんの書物を読んでおられることも随所から伺えました。
士清さんが「勾玉考」を出版したのが一七七四年、十六歳年下の木内石亭さんが「勾玉問答」を著したのは一七八三年です。「勾玉考」にも二人の親密さが窺がえる箇所があります。
松浦武四郎記念館で講義された米本一美氏の土殷けつと、石亭さんが「雲根志」に書いた土殷けつ、そして士清さんが記した菅玉との関係はどうなのかと、どんどん繋がっていきました。
勾玉が使われている首飾りは、松浦武四郎の大首飾りとも似通っています。これは、勾玉が女性の憧れだけでなく、男性の憧れであったこを証明しています。
士清さんは、今で言う「子持ち勾玉」を「太古の刀剣」とし、石剣の柄頭と考えていました。
この説は、木内石亭や藤貞幹らに受け継がれ、江戸時代には「子持ち勾玉=柄頭」とされていました。子の考えは明治一七年、神田考平が「日本太古石器考」において十項目ほどの理由で「子持ち勾玉=勾玉の一種」とするまで続きました。
特に次の二つが印象に残ります。
曲玉(勾玉)は多く古墳より出るが、石剣頭は未だかつて古墳から出たとは聞かない。〇曲玉も子持ち勾玉も小さな穴がひとつある。士清さんも人間、間違えもあるんだと思えた話でした。士清さんの人柄をよく表している部分を訳で書きます。
「右勾玉考一篇、諸家塾に刻む、以て同志に差し上げる。ただ転写の労を省くのみ、発売はゆるさず、総じて全体の利益である」
(津市広明町在住・谷川士清の会顧問)
2023年11月9日 AM 8:45
先日、京都産業大学名誉教授所功先生の随筆を拝読いたしました。題名は「君が代」「細石の巌となりて」の意味です。これを読んだ時、ふと学生の時に担当してくださった教授がよく似た内容の話を懐かしく想い出しました。
国歌「君が代」は人を尊敬し、和の気持を大切にする(長寿と繁栄)歌と思っています。十世紀の延喜五年(九〇五)『古今和歌集』巻七、三四三番賀歌にある「君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔の産すまで
詠み人知らず」が採用されたものです。「君」は年長の親しい人を指し、「代」は世・時代でその地位を務める人を指します。一時期(悲しい第二次大戦時)は軍の国体護持に使用された事がありましたが、今はそれを乗り越えて平成十一年(一九九九)八月に制定された国旗国歌に関する法律で決められています。
この歌は末永く国の繁栄と個々の力が集まり、それはまるで小さな石が積み重なり、長い年月をかけて大きな岩の塊(細石の巌)となり、それに苔が生えるまでの国や人々の生や気持を守っていこうとする祝歌と感じています。なんとステキな寿歌でしょう!
私はこの歌に詠まれている「苔」のところが好きです。苔は岩や木の根っこに生えて、水分を栄養分としている花の咲かない小さな植物です。「苔むす」とは長い時間がかかり古くなったもので、永久のものの一つに使われます。
苔はひっそりと生え、でも潤いと繊細さがあり、力強さがあります。
平安時代の貴族の華やかにみられる梅、桜、紅葉に対して、次の世の武士や人々は質素、閑静の中にもみずみずしい美しさをとらえて、そこにある侘び寂びの風情を苔のもつ力に日本人の精神を見い出しているのでしょう。
年に一~二回滋賀県の永源寺の庭を訪ねます。夏は緑の木々を鑑賞し生きるパワーを、秋には真っ赤に色づき血染めの紅葉といわれる紅葉を長時間眺めています。その下にびっしりと敷かれている苔が木々の戯れを支えています。ひっそりと味わい深くその場所を守るかのように苔があります。花々の艶やかさと苔の地味の美しさを教えてくれます。ほんまに私はホッとひと息つき、その美しさの中に時の経つのを忘れています。他に苔寺で有名な京都の西方寺庭園、三千院門跡や他に市松模様の東福寺などもいいです。
そして、もう一つ、苔(草)の歌があります。万葉集第一、二十二の「川の上のゆつ岩群に草むさず常にもがもな常おとめにて」(訳 川のほとりにある神聖な沢山の岩には苔が生えていません。このようにいつまでも変わらず美しい皇女でいてくださいね。) 皇女とは十市皇女です。彼女の父は天武天皇、母は宮廷歌人額田王の子として生まれました。十七歳の時に天智天皇の子、大友皇子(追号 弘文天皇)と結婚。葛野王を生みます。父と夫の戦いの壬申の乱が起こり、大友皇子は死去。父の命令で伊勢神宮を参拝する時に初瀬街道を通り、波多の横山(現 三重県津市一志町井関、大仰、八太のあたり。そして波瀬川と雲出川に挟まれた横に長い山)を見て乳母で侍女の吹黄刀自が十市皇女を元気づけるために詠んだ歌天武四年(六七五)二月十三日)です。でも十市皇女は三十一歳の時、急死しています。
国歌の君が代の苔むす=永遠の繁栄と幸せを詠んだもの。
万葉集の歌の草むさず=いつまでも清浄な若々しい人でいてねと詠んだもの。
私はこの万葉集の歌を時々思い出して〝いつまでも気持は若くいようね〟と自分のパワーアップの為に口づさみます。
苔は現代、世界中の大気汚染物質の害で沢山枯れていくようです。人類の未来のために、次世代の人々の心の寄り所として苔の大切さを継いでいきたいものです。
(全国歴史研究会 三重歴史研究会 ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)
2023年9月14日 AM 4:55
30年近く、谷川士清の会、点字絵本サークル、お茶、お花の教室と、4つの事業に均等に力を注いできた私ですが、近年の頑張りが、体力以上に達していたのか、体が悲鳴を上げ、10月下旬に動けなくなり、医師より最低3カ月の安静を言い渡されました。一日中、ほとんどベッドの上で過ごしています。
それまでの私の日常は、朝6時25分のテレビ体操に始まり、夜11時頃まで、まるで独楽ねずみのように動いていました。なんと思いもよらない生活に突入してしまい途方に暮れました。
しかし、これは神様が無謀な私を心配して休憩を下さったのだと、ありがたく受け入れようと、全ての行事を断り、まわりの皆様のお力を借り、3カ月余を過ごそうと覚悟しました。健康な生活に復帰できることを祈り、ひたすら治療に専念しています。
書物をはじめ、仕事関係の物が二階の書斎にあり、取りに行くことができず、手元に置いていた、今年一月に津市内小学校、中学校に寄贈した自費出版の『小学校高学年・中学生向け倭訓栞』をゆっくり読み直すことにしました。
士清さんが『倭訓栞』に編纂された言葉は、なんと2万1千語近く。
私が十年かかって『増補語倭訓栞』から拾い出してまとめたのは、たったの九百一語。原本がむずかしく子供にわかる言葉を取り出し、また小学館の国語辞典や日本標準出版の国語辞典と照らし合わせ、両方に載っている言葉に絞る作業に手間取り、こんな結果になってしまいました。
でも、子供達がこれを読んで谷川士清や本物の『倭訓栞』に興味を持ってくれたらと、一節の希望を持っての毎日でした。学校での活用も切に願うものです。
あ行の中から特に大人も子供もおもしろいなと思える言葉を抜き出しました。「あーなるほど」と思えるものばかりです(現代かなづかい)。
あき 秋をいう○万葉集に秋の香のよきとよめるは松のにおいをいえり
あけぼの 曙をよめり、あかんとして物のほのかに見ゆる時なり
あさがお(あさがほ) 朝顔の義なり、朝ごとに花さくをもて名づくるなり。新選字鏡に桔梗をよめり
あさって(あさつて) 明後日をいう。あすを去って後のという義なり
あちこち 彼此を常にいえり。あちらこちらともいえり
あまがえる(あまがへる) 和名抄に蛙竈をよめり。あまは雨なり。喜んで雨に出るものなり
あまる 餘(余りの昔の字)をよめり○口語に物事の過ぎたるをあまりにというは甚だというがごとし
あめ 天をいう、神代紀に天上とも見ゆ。天の字の多くあめとよめり。あまともいえり○雨は天水のつづまりたることばなり○飴というは甘き義なり
あり 蟻をいう○易占に蟻穴を封じるは大雨に至るとも見ゆ
ある 有、在をよめり 有は無に対し、在は没に対す
あん 餡の音転なり。西土(西洋・インド)の饅頭の餡は鳥獣の肉を用い、本邦(日本)には赤豆、砂糖を用う○あんを書かせてというは案とみゆ
(津市広明町在住・谷川士清の会顧問)
2022年12月8日 PM 4:55