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随想倶楽部
昭和二十年九月二十七日、昭和天皇はGHQをおたずねになりました。
陛下はマッカーサー元帥の机の前まで進まれて直立不動のまま、ご挨拶されたあと、こう言われました。 「日本国天皇はこの私であります。今回の戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されてもいつでも応じるだけの覚悟はあります。しかしながら、罪なき国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住にご高配を賜りますように。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部にあてていただければ幸いであります」
マッカーサーは、天皇の訪問の目的が自分自身の保身、すなわち命乞いであろうと思っていました。
ところが驚くべきことに、その天皇が絞首刑になってもいいから国民を救ってもらいたいと言われたのです。
それまで姿勢を変えなかった連合軍の将軍が、立ちあがって陛下の前に進み、抱きつかんばかりに陛下のお手をにぎり、「私は、はじめて神のごとき帝王を見た」と言い、陛下のお帰りの際は、元帥自ら見送りの礼をとったのでありました。
数千年の歴史の中で、さまざまな民族が興っては滅び、滅びては興るということをくりかえしてきました。しかし、その歴史の中で、危急存亡のときに、国民を守るために自らの命を捨てるほどの大きな愛を持った君主は、誰もいませんでした。
ところが天皇は、すべての罪をご自分御一人で背負うという崇高な覚悟を占領軍最高司令官に申し出られたのです。
そしてヤマトの国は、救われました。
天照大神から脈々とつながる天孫の大君の祈りが、いまも我が国を護り導いています。
宮中で一年の最初の祈りが「四方拝」です。
大晦日に身を清めた天皇さまが、特別な衣装を身に纏い元旦のまだ夜も明けぬころからたった一人、伊勢の神宮、続けて四方の神々を拝されるのです。
このとき天皇さまが、このように祈るのだとお聞きしたことがあります。
「この一年、我が国に災いが来ませんように。国民が平安でありますように。だが、もしも、災いがくるなら、この私を通ってゆきますように」と。
大きな災害で多数の人々の命が失われるようなことがあると、陛下は、「この災いは自分の不徳のなすところです。申し訳ありません」と皇祖皇宗、神々に詫びておられるということを知らされました。
先の東北大震災の後に、「自主停電」をされていたお姿も、まさにご愛のお姿でした。
当時七十七歳だった天皇陛下は、それ以前にがんの手術も受けられていました。それなのに「寒いのは着れば大丈夫」と、停電の間は暖房も使われませんでした。ろうそくや懐中電灯を使いながら、暗い中で夕食をとっておられたのです。私たちヤマト人の宝は、物でもお金でもありません。「神話の昔から世界人類すべての平和を願われる天皇という大君のいます国に生まれた」という事実です。それこそが、何にも変えられない宝物なのです。
神武天皇が「八紘一宇」の精神でヤマトの国をお創りくださいました。
人類すべてが、一つ屋根の下の家族なのだという素晴らしいお心です。民族の根っこを忘れてしまっては、もはやヤマト人でないばかりか、動物以下になり下がってしまいます。
ヤマトの魂を失った無国籍の民には滅亡しかありません。私たちは伝えてゆかなければなりません。
どんな時代の中にあっても、どこまでもヤマトの平安と国民の幸せを願われ、そのためにはご自分の命までも差し出してくださる天皇がいますことを。
(赤塚 高仁 赤塚建設㈱社長)
2014年1月23日 AM 4:55
今日、私は運転免許証を更新した。旅客自動車運転のために2種免許を所得したのは2年前だが、更新前の免許証を見ていろんなことを思い出す。
4年前、私は足の骨折やその他の病気で病院のベッドにいたが、傷の治りが悪く、勤務先に復職できるかどうか憂鬱な気分だった。そんな中、医師や看護師たちの昼夜を分かたぬ治療と看護の現場を目の当たりにし、自分も何らかの方法でその一端を担えないだろうかと考えた。
縁あって福祉タクシーを開業し、多くのお客様を乗降させていただく。病気やケガ、障害を持つ方や高齢の方々が「病気を1日でも早く治したい」「老後も外出して、もっと楽しみを持ちたい」などの思いに対し、少しの時間でも介助や送迎でご一緒させていただき、自分にとっても“生きわる”ことが何かを教えてもらう。一年のスタートにあたり、これまでの福祉タクシー日誌の中から数ページ、様々な出会いを振りかえって、さらなる励みにしたいと思う。
1、早朝に電話が入る。「体の調子が悪いからすぐに来て欲しい」。普段は週に2回ほどデイサービスへ行き、時々声をかけてくださるお客様だが、少し時間を遅らせてもらいアパートへ。玄関に入るやいなや「待ってたんやわ」。そこには安堵の表情が伺える。手介助で階段を下りていただくが、腕をさすって緊張をほぐす。少しの笑みもこぼれた。病院で付き添い中も、「デイサービスはどう?」など話をすると「うん、楽しい」。医師からも「すみませんが、家に着いてからもよろしくお願いします」と言われた。晩春でも夕方は冷える。一人暮らしのため帰宅後も暖房器具にスイッチを点火するには注意が必要だ。何かあればすぐに電話してもらうように伝達するが、独居の見守りも仕事のひとつと心得ている。
2、お客様を安全に送迎する以上、事故のないように細心の注意を払う。車の運転は誰でもそうだが、福祉タクシーはお客様を安全に最も適した方法で目的地まで介助しながら搬送する場合が多いから、気持ちを研ぎ澄ますことが必要だ。
当然、スピードを控えながら走行するが、この日は何やら後方の車が騒々しい。幅寄せしたり、追い越したり。そのうち、相手車から「福祉の車か何だか知らんがダラダラ走るな」と、怒りの声。自車よりも他車に注意しなければならない時世。お客様にも気分の悪い思いをさせてしまったが、追突でもされたらと思うとゾッとする。
3、シャガの花が美しく咲く頃、入院先から一時外泊の方がリクライニング椅子で乗車された。外の空気に触れるのが良いらしく、運転しながらでも喜びの様が伝わる。翌日はまた病院へ戻らねばならないが、家でやり残した書類整理や色んな物の片づけが忙しいとのこと。病院へ戻り、「次は退院の時にお願いね」と言われた。おそらく抗がん剤等を投与されて体の痛みもこらえながらと思うが、病気でも気力を強く持ち笑顔を絶やしていない。心が折れそうになった時、お客様に救われる事もある。
4、自宅のアパートを長期間離れ入院中の方から連絡が入る。金融機関を回ることと、季節が変わるため3階にある部屋からさしあたっての衣類が欲しいとのこと。
今では銀行もバリアフリーが進み、車イスでも難なく、行員も丁寧に説明してくれる。アパートでは階段昇降が難しいので鍵を預かり室内を注意しながら指定の物を探すが、生活の貴重な物品の選定を指示してくれるのだから、この仕事は信頼、信用がなければ務まらない。再びこの部屋に戻ってこられ、生活できることを願った。
5、福祉タクシーとはいえ、その日の売上げも必要だ。しかし、この日はすこぶる悪い。アベノミクスでバブルの頃の様相を呈してきてるとは言え、大金が転がり込むようなことはまずない。日報に目をやり帰庫するまでの憂鬱な感じが漂う。送迎を終え、その日も終わろうとしていたところ、突然電話が鳴った。「訃報で遠方まで行きたいのだが自分の体も思うように動かない。何とか夜でも行ってくれますか…」。
新名神を走って京都方面へ。お客様の涙にも同情するが、安全運転を怠ることはできない。ひたすら高速を飛ばすが、途中、眠気との闘いを気力で制した。無事目的地へお送りして帰庫する頃にはもう空が白々と明けていた。
6、老人ホームに入所の方とデパートで買い物。車イスと買物カゴ片手に希望のものを探す。このあと夕食へ。「たまには外食するのもストレスが発散できていいですね。これからもいろんな所へ連れて行ってください」と喜ばれた。以来、乗馬クラブへ馬が走る勇壮な姿を見学に行ったり、高原で風力発電がたくましく舞う光景を見て気分を癒した。送迎だけでなく、その都度お客様の楽しみが少しでも増えることを願う。
7、電動車椅子のまま乗車され、コンサートへ。道中、互いの好きな食べ物や趣味などに話題が広がる。県文化会館の中もバリアフリーだが、会場の中まで介助させて頂く。障害を持つ人も、もっと外出の機会と楽しみの時間を増やしてもらう意味でも、バリアフリー化を提唱する県のさらなる政策の充実が必要だ。
日誌の中には、まだいろんな出来事があるが、介助や送迎中に、私自身が新聞記者の駆け出しだった当時、ある先輩記者に教わったことを思い出す。「報道写真は一歩踏み込んで撮るように。そこからさらにもう一歩踏み込んで撮れば、被写体がどういうものか初めてわかるんだ」。
未だにその言葉が脳裏から離れない。今は職業こそ違え、福祉タクシーの現場でも同じことを感じる。お年寄りや障害を持つ人、体調を悪くした人達に対して、送迎や介助の時に少しでも近くで接してみることにしている。介護では基本的なことだが、時間に追われてつい疎かになることもある。自身がそれを忘れず実践できるように毎日福祉タクシーを走らせている。
(大森 成人 日本福祉タクシー協会会員 はあと福祉タクシー)
2014年1月16日 AM 4:55
「誠意に応えるには、誠意しかない」
ある日、こんな言葉が私の心に降ってきた。
この言葉が生まれたのはどんな理由でかわからない。長年、いろんな事を考えてきたから、ある日、こんな言葉が生まれたのも不思議ではない。
ただ、人は誠意で示されたら誠意でお返しするしかない…、魔法のような言葉ではなく、ごく普通の、当たり前の言葉である。
今頃になってこんなことに気づいたのか、もう65歳をまわっている私の脳から生まれてきたのは間違いない。
生きるとは、いくつになっても、生命ある限り学び、勉強し、真面目に生きてゆかなければ…、人間は考えなければ面白くない、いくつになっても精いっぱい生きなければ…、こんな時間をくれた神様に感謝している。
人の事はいい、今、自分がどう生きるか、ひとり真面目に考えている。
「誠意に応えるには、誠意しかない」
この言葉を何度も反すうし、そこに精神を組み立てる。すると、言葉というものが少しずつ生まれてきて、それを書き留めてゆかなければ私は始まらない。
人々が60歳の定年を迎えてほっとしている時に私の人生は60歳から始まったようなものだ。この歳くらいから酒も煙草もキッパリやめて、もう6年になり、だんだん頭がすっきりしてきた。
毎日朝4時に目覚めると店の台帳を読み、本を読んだり、余った時間を考える事に専念する。テレビはあまり観ない。
酒も煙草も、車に乗るのもやめ、ひたすら歩いている。何が楽しいのか…人様にはそう思われているようだ。ただ、自分で決めた事は意志の力で必ずやり通す…そんな風に生きてきた。これからもずっとそうだろう。
ただ、生きてゆくのに緊張感がある。人間はだらけると駄目だと思う。しかし何かをやり終えてほっとしたことや、のんびりする時間は必要だと思う。
ただ、一生懸命に生きるのが全ての人々への恩返しだ。
「誠意に応えるには、誠意しかない」
(高崎 一郎 大観亭支店栄町本店)
2013年10月31日 AM 4:55