随想倶楽部

「あぁ―。いい湯だなぁ。これで身も心も回復だ」と日本人の誰もが言うコトバで、温泉好きです。わが国は世界有数の火山地帯で温泉国です。
温泉は療養と共に人の心を救う力を持ち、魂を再生する良薬です。温泉は古くから鳥獣、天皇、貴族、高僧、英雄が発見し利用されて『日本書紀』『風土記』『万葉集』などに温泉の名前や伝説地が残っています。
代表的な例をあげてみると、鳥獣の発見地では鹿=浅虫温泉、酸ヶ湯。熊=野沢温泉。狐=湯田温泉。猿=平湯温泉。白鷺=湯郷温泉、武雄温泉。 高僧なら行基=草津温泉、山中温泉。空海=修善寺温泉。最澄=雄琴温泉。親鸞=赤倉温泉。   役行者では龍神温泉や伊豆山温泉。そして英雄医療ならば大国主命、少彦名命=道後温泉、城崎温泉、榊原温泉。神仏では下呂温泉、湯田温泉、三朝温泉、湯本温泉、那須温泉、玉造温泉などがあります。
『出雲風土記』」の玉造温泉では出雲国造が朝廷へ挨拶に行く前に禊(御沐)を行いとあり、また『勢陽雑記』には第二十六代継体天皇の皇女荳角媛命が榊原温泉(ななくりの湯)で湯ごりをし、長命水に榊の枝を一晩浸してから伊勢神宮に奉献されたとあります。斉明天皇、天智天皇、有間皇子は白浜温泉に湯治しています。平安時代には清少納言の枕草子一一七段「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と記されており、温泉地は大切な所とされています。鎌倉、室町時代には湯場(温泉)はいつしか文化人、公家や武士の保養地となっていきます。戦国時代では傷を負った武士達が治療に使っています。中でも有名なのは武田信玄の隠し湯である下部温泉。織田信長は下呂温泉、上杉謙信には生地温泉があります。天正期(一五七三~一五九二)には豊臣秀吉は有馬温泉をこよなく愛して、入湯してこの地で戦いの作戦を練り、精神状態の再生をし、また北政所寧々との入湯場でした。
さて、秀吉から関東をまかされた徳川家康は空海発見伝説のある名湯、熱海温泉を手に入れて関ケ原戦後の慶長九年(1604)にはゆっくりと湯治しています。
この頃は三歳であった十男頼宣と、その生母で側室お万の方を連れて熱海温泉旅行の楽しい親子の時間を過ごしています。いいなぁ♪ のちに紀州藩祖となった頼宣は龍神温泉を開発しています。更にその後の徳川幕府第八代将軍となった吉宗は殺菌力の強い草津温泉の湯を江戸城に大きな樽に入れて運ばせて湯を楽しんでいます。また他に戦国・桃山時代に薩摩藩島津家の武将島津義弘は吉田温泉を開発し、江戸時代後期に越後高田藩第三代藩主榊原政令は赤倉温泉を開発しています。
殿は温泉が大好きじゃ!参勤交代などで各街道が発達し整備されていきます。人々は大名を見習って温泉大好きになります。温泉地は人々の社交場であり、旅人の疲れを癒す湯治場となります。各温泉地ではパンフレットやガイドブックが作られており、賑わいが解ります。
温泉は先人たちやお殿様が心身を清め、また人との関わりの大切さを教え導いてくれた贈り物です。良き温泉の効能は心をリフレッシュさせてくれます。
これからはますます観光地産業、福祉事業の充実の対策が盛んになされて行くことでしょう。温泉は笑顔になる素です。気分はお殿様で行きましょう。
(全国歴史研究会、三重歴史研究会、ときめき高虎会員及び久居城下町案内人の会会員)

この五日に立夏を迎え、年よりゆっくりと進んだ春でした。世の中が同じ疫病に悩まされ、時間の感覚も大きく影響を受けているのでしょうか、来月はもう春です。
桜と交代で、青々とした葉桜が初夏への支度を急ぎ、ぎらぎら照りつける太陽に目覚めた草木の青葉、若葉が色鮮やかに芽を出し、さわやかな新緑の匂い立つ、よい季節を迎えております。
今回は、五月にふさわしい曽我兄弟の仇討を小唄にした「蝶千鳥」と、初夏の情緒を詠んだ名句「目に青葉、山ほととぎす初鰹」を題材にした「葉桜や(窓)」の二曲をご紹介します。

蝶千鳥=市川三升 作詞 草紙庵 作曲
空に一声時鳥 きくや牡丹の蝶違い
離れぬ仲のむら千鳥 富士の裾野に並び立つ 姿なつかし 五月晴

この小唄は、「夜討曽我狩場曙」(河竹黙阿弥・作)の歌舞伎を実録風に脚色し、小唄にしたものです。小唄の「空に一声」は昭和十一年四月、歌舞伎座、団菊祭興行の時、出来た曲で草紙庵自慢の小唄の一つです。
題名の「蝶千鳥」とは、母から贈られた蝶と千鳥の模様の小袖から兄弟の事を表しております。
唄に出てきます牡丹は市川家の家紋で、九世団十郎の五郎を指し、きくやは菊のことで、五世菊五郎の十郎を指しております。
話の内容は、曽我兄弟の仇討で、日本三大仇討の一つと言われています。事件の発端は、伊豆の豪族同士の所領争いでした。叔父に恨みを抱いていた工藤裕経は、叔父の長男を暗殺させます。長男には二人の男の子がおり、母の再婚先である曽我祐信の元で育てられ、兄を曽我十郎祐成、弟を曽我五郎時致と名乗りました。
健久四年に富士の裾野で、源頼朝が行った巻狩の場で、二人は討入は今宵をおいてないと決心します。十郎、五郎は首尾よく父の仇、工藤を討って十八年の恨みを果たします。五月晴れは、兄弟が仇討を果たした喜びを象徴しています。

葉桜や(窓)=作者不詳、江戸中期(陰暦初夏四月)

葉桜や 窓と明くれば山時鳥 又も啼くかと待つうちに 「かつお 鰹」オヤ勇みじゃと飛んで出る 「浮気性ではないかいな」

この曲は、江戸時代の「目に青葉 山時鳥 初鰹(素堂作)という名句をそのまま小唄にしたものです。時鳥は初夏の頃に日本に渡来し晩夏に南方に帰る渡り鳥でした。
現在では、高原の村に住み、その啼き声は鋭く、「テッペンカケタカ」と聞えます。昔の人は時鳥が渡り鳥と知らず、冬、山にこもって初夏に出て啼くと考え「山時鳥」と唄いました。和歌や俳句では、古来から夏の時鳥、春の花、秋の月、冬の雪は四季を代表する景物とされ、時鳥の初音を聞きもらさぬように、夜通し起きていると言う風習がありました。
鰹も、毎年、春から夏にかけ、黒潮(暖流)にのって薩摩・土佐沖を北上して初夏の頃、伊豆房総附近に現れ、ここで最初にとれたものが初鰹で、鎌倉からくるのを「相州の初鰹」と呼び、江戸時代には特に珍重され、江戸っ子は綿入れの着物を質に入れても初鰹を買うのを誇りにしました。
この江戸小唄は、下町の町娘が時鳥の初音にぱっと窓を開けると外は葉桜、まだ啼くかと空を見上げていると、そこへ「かつお!かつお!」の呼び声、「いつもの河岸の兄さんだ」と顔を見たさに下駄をひっかっけて裏口から飛び出す、といった光景を唄っております。

初夏を目前に吹き抜ける風が心地よさを感じます。紫陽花のつぼみも少しづつ大きくなってきました。運動不足になりがちな毎日、くれぐれもお体を大切にお過ごしください。
小唄 土筆流 家元
参考・木村菊太郎著「江戸小唄」

※三味線や小唄に興味のある方やお聴きになりたい方は、お気軽にご連絡下さい。また、中日文化センターで講師も務めております。稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。電話059・228・3590。

令和四年(2022)は寅年です。十干(じっかん)十二支の壬寅の年で厳冬を耐え、春に動き出そうとし、花咲くにはじっと実力を養い、自分を磨き、好奇心を持って積極的に行えば大きな成長と成功に繋がるという年です。
420年前の壬寅は慶長七年(1602)。江戸時代成立の前で関ケ原戦や大坂の陣があり、豊臣政権から徳川新時代に移る頃です。方広寺大仏殿火災や鐘銘事件、そして本願寺の分裂がありました。徳川家康はじっと力を蓄えている時です。世の中を戦いのない平和な時代に進めようとしていました。十干(五行を兄と弟に分けたもので甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)。十二支(方位・時刻・年月日を表すのに使った動物の名で子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)にある寅年は大きく成長し動き出す意味を持っています。徳川家康は天文十一年(1542)十二月二十六日寅年生まれです。
変化の時代を読む力と勇気と運を味方にして才知と権威を取り込んでいきます。江戸幕府を開いた家康は古代中国から伝わった思想の一つである地理風水を活用し天台僧南光坊天海に命じて江戸の都市整備を行い世界一のステキな都市の基が作られました。
十二支は植物の一生を分かり易くする為に動物に置き換えています。寅=虎で方角は東北東。時間は午前三時から五時(寅の刻)。虎は決断力と知恵のシンボルです。邪悪を避けるといわれています。津藩祖藤堂高虎は弘治二年(一五五六)生まれです。先見力、活動力、負けず嫌いそして視野が広い高虎は良き主君を求めて七回も変えた末に辿り着いた主君が徳川家康です。家康と共に平和な時代を作ったのです。
築城の名人の高虎は江戸城の縄張りや京都二条城の改修などを行い、家康に最も信頼された人物です。
さて、虎はネコ科のヒョウ属の動物です。大昔は日本にも生息していましたが、二万年ほど前の気候変動の寒冷化で絶滅しています。化石がいろんな所で発見されています。でも本物はなかなか見られませんでした。
最古の記録は六世紀の『日本書紀』に欽明六年(545)に食膳職の膳臣巴提便が百済で虎を退治して虎の皮を持ち帰ったとあります。七~八世紀の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に西の方角の守り神として白虎が描かれています。『万葉集』には虎の勇猛さが述べられています。孝徳天皇の時に藤原鎌足の息子定恵(不比等の兄)は僧として唐に渡り、中国の占星術(地理風水)を持ち帰っています。平安時代の寛平二年(890)には宇多天皇に新羅から生きた虎の子二匹が献上され、それを巨勢金岡が写生しました。室町時代には掛け軸、屏風、襖絵に描かれて、絵師は猫をモデルにしたり朝鮮の虎の絵を参考にして努力しています。
何でも努力が大事ですね!加藤清正の虎退治の話は有名です。江戸時代に徳川家康はオランダ人に虎の子二匹をもらっています。大工の左甚五郎は寅年生まれの家康を尊び、彼を祀った日光東照宮に虎の彫り物を奉納しています。
一般庶民が本物の虎を見たのは江戸末期文久元年(1861)十月十六日で舶来の動物としてやって来た時です。絵師の円山応挙や伊藤若冲は虎図を描いており、今は美術館で保管されて私達の目を楽しませてくれます。明治時代になると上野動物園や各地の動物園で飼育されるようになりました。
そして、昭和期の太平洋戦争の始まりの暗号「トラ、トラ、トラ」は日本軍が真珠湾攻撃の奇襲開始を伝えた電信の外交暗号です。
「トラ=突入せよ。ワレ奇襲に成功セリ」。とあります。終戦後の日本は大きく変化し、国民の努力、才知で発展し成長しました。すばらしい道徳観、心意気、知恵をもつ国民です。因みに虎の言葉に関連して大事なものは「虎の子」、解説書は「虎の巻」と呼ばれています。玩具の虎の張り子は人々の気持を和ませ、勇気をくれます。
これからも寅・虎は幸せへと導き、憧れであってくれる事を願っています。

(全国歴史研究会、三重歴史研究会・ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)

[ 4 / 37 ページ ]« First...23456...102030...Last »