随想倶楽部

 四月に入ると一気に季節が進み、各地で桜の便りが聞こえ、新緑や花々も彩りを増して、春の息吹を感じます。新聞では3月7日には春告げ鳥と知られる鶯の初鳴きを津市内で観測したと発表されました。平年に比べて2日早く、順調に暖かくなってきており、いよいよ春到を実感します。
今回は、四世鶴屋南北作「浮世柄比翼稲妻」世話物、狂言の中から通称「鈴ヶ森」と言われ、出会うことのなかった権八と長兵衛とが出会う様に脚色した狂言で、その中から生れた、市川三升作、吉田草紙庵曲の小唄二曲をご紹介したいと思います。
  鈴ヶ森
(長兵衛)
阿波座烏は浪花潟、藪 鶯は京育ち、吉原雀を 羽交につけ、江戸で男 と立てられた男の中の 男一匹、いつでも訪ね てごぜえやし
蔭膳すえて待っており やす
(権八)
散りかかる浅黄桜や無 常音
隙行く駒の路もはや、 ひかれ曲輪の涙橋
流す浮名も小紫 結ぶ 夢さえ権八が
まどろむ駕籠の仲の町
最初の小唄(長兵衛)
は幡随院長兵衛と、白井権八との鈴ヶ森での出会いを唄っています。
権八は因州(鳥取)の城主松平相模守の家来で、性来武芸に長じ喧嘩や乱暴を好み、叔父の本庄長右衛門を殺めてしまい、国許を追われることになります。追われて江戸表へ逃げる途中、刑場のある鈴ヶ森を通りかかると、先に権八というおたづね者が、江戸へ逃げるのを知った雲助共が待ちうけ、ほうびの金ほしさに討ってかかってきます。この時、大勢の雲助を追い散らした権八の美事な手の内を駕籠の中から感心してじっと見ていたのが、当時、花川戸で名うての俠客、幡随院長兵衛でした。「お若ぇのお待ちなせいやし」と声をかけ、権八の前科も聞かず、持前の男気を出して世話をしょう「いつでも訪ねてごぜぇやし」と言い江戸で再会を約束して別れます。
「阿波座烏」「薮鶯」「吉原雀」はいづれも、大阪の浪花新町、京都の島原、江戸の吉原の三代廓をぞめく客の異名で、京、大阪まで、その名も高い江戸男、 長兵衛の意味で「江戸で男と立てられた、男の中の男一匹」の掛け言葉です。
次の小唄(権八)は吉原の色里へ足をふみ入れ、三浦屋の小紫と馴染を重ねたのが身の因果、貯えもつきはて、辻斬り強盗を働いた罪により捕らえられ、市中引き廻しの上、鈴ヶ森の仕置場ではりつけの刑になる夢を見ます。はっと思った権八が夢からさめると、あたりはこの世の極楽、花の仲の町へ通う駕籠の中でうたた寝をしながら、今しも大門口をくぐった所でした。「さては今のは夢であったか…」
この小唄は清元の上巻「権上」とよばれるくだりを唄にしております。
後、権八はこの不吉な夢が真実になり、鈴ヶ森で処刑されます。小紫も墓前で自害をして後を追います。目黒に残る「小紫権八比翼塚」がそれです。
この唄に出てきます浅黄桜とは、浅黄色の囚人の衣の色で肩に散りかかる桜のことをいっています。無常音とは天林山泊船寺の鐘の音が諸行無常と鳴るのを指しています。又、隙行く駒とは光陰の移りゆくさまをたとえた言葉でここでは処刑される時に乗せられた裸馬のことです。 曲輪は吉原の廓のことを言っており、涙橋は品川から鈴ヶ森に入る所に架けられた小橋の名前です。又、比翼塚とは相思の男女を同じ所に葬った塚のことをいいます。
 新型コロナウイルスの流行で世界が大変なことになっております。一日も早く終息することを願うと共に、くれぐれもお体に気をつけてお過ごし下さい。
小唄土筆派 家元
木村菊太郎著「江戸小唄」参考
三味線や小唄に興味のある方、お聴きになりたい方はお気軽にご連絡下さい。又中日文化センターで講師も務めております。稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。☎津228・3590。
 立冬も過ぎて、北の方からは初雪の便りが聞かれる頃になりました。最近はめっきり日も短くなって、季節は、秋から冬へと一歩づつ近づいております。
今回は、秋から冬の季節の移ろいを感じる、「初雪」と、年末になると「赤穂浪士」の話が必ず出てまいります。その物語の中から多くの人に愛された「野暮な屋敷」の二曲をご紹介したいと思います。
初雪
 初雪に降りこめられて向島
二人が仲に置炬燵
酒の機嫌の爪弾きは
好いた同志の差し向い 嘘が浮世か浮世が実か まことくらべの胸と胸

この唄は明治20年頃、菊寿太夫の60歳後半の作品と思われます。小唄の舞台である向島は、梅若塚で有名な木母寺、その左の水神社、この辺が向島の中心になります。
水神の森には江戸時代から料亭が並び、その中でも「八百松」と、「植半」が有名でした。三代将軍家光の時代に植木師と御狩場の番人を本業としていた植木屋半右衛門は副業として腰掛茶屋を営んでいました。
植半の娘が四代目女将になった時、七代目団十郎や杜若と深く結んで植半の名を江戸中に普及させました。
吉原、山谷、柳橋から粋な芸妓が猪牙舟に送られて、向島に遠出するのはこの頃からで、右は木母寺、左は水神の森につらなる木立の奥の小座敷も灯の下に隅田の水音を聞きつつ、水郷情緒を味わうようになりました。この情緒は明治になっても続き、向島は遠出の場所として知る人ぞ知る所になっています。
小唄「初雪」は明治20年頃に作られ、向島情緒を遠虚なく描写しております。
人力車がまだ調法されていた時代、向島の水神で男女が、しめし合わせて落ち合った所、折から外は季節外れの初雪、大雪になって人力車も通えなくなり、もっけの幸いと置炬燵に入り互いに酒のやりとりをしながら、酒の機嫌でその頃流行の小唄を爪弾きで唄います。
「誠くらべの胸と胸」は二人の心意気を感じます。

  野暮な屋敷
 野暮な屋敷の 大小 すてて
腰も身軽な町住居
よいよい よいよい  よいやさ
 阿竹黙阿弥作で明治時代に作られました。
赤穂浪士の討入の日の明六つから明七つまでを十二時に書き分けた趣向で、「十二時の忠臣蔵」と呼ばれ好評を博しました。その中の小山田庄左衛門の変心の件が好評で、「野暮な屋敷」はこの芝居の辻番人が歌う都度逸を小唄にしたものでこの小唄が市中に流行したといわれています。
芝居の筋書は、小山田庄左衛門が、討入の当日、家臣の娘お雪が貧苦で身投げするのを助けたのが縁で、お雪の家に伴われ余りの寒さに、薬にと一杯酒を飲んだのが因果、二杯三杯と杯を重ねる間に前後を忘れ、お雪と枕を交わし、打入りの時刻に遅れてしまいます。
申し訳なさに切腹しようとするのを、後を追ってきたお雪が一緒に殺してとせまります。丁度その折、酒を飲んだ辻番人が手を叩きながら「野暮な屋敷の大小すてて」の都度逸を唄いながら通り過ぎるのをきき、ここで命を捨てた所が徒党にもれれば、ほんの犬死と、差した大小を下緒で結んで堀へ打込み、腰も身軽に今日からは町家の住い、楽に浮世が暮らされようと茶碗酒をあおるという有名な場面です。江戸時代、屋敷者は常に大小両刀を差し、これを捨てるのは町人になることで、武士にいためつけられていた町人が、武士の格好を「野暮」ったいと言い、「腰も身軽な町家住い」を「よいよい」と唄ったのは、町人の武士階級へのいささかな抵抗であると見られています。武士の生活を「野暮な屋敷」と唄ったのは、明治初年の江戸市民の考え方の一端を伝える小唄で、黙阿弥ならではの曲といえます。
 朝晩の冷え込みが厳しくなってまいりました。年末に向けてご多忙な次期、お体充分気をつけてお過ごし下さい。
小唄 土筆派家元
木村菊太郎著「江戸小唄」参考

三味線や小唄に興味のある方、お聴きになりたい方はお気軽にご連絡下さい。又中日文化センターで講師も務めております。稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。☎059・228・3590。

今、世界中で大人気のデイズニーの長編アニメーション映画の「シンデレラ」を見ているとドキドキわくわく、そしてホッとします。わたしは小さい時に絵本の「鉢かづき」「竹取物語」等が好きで何度も読み返して楽しい空想の時間を過ごしました。
「シンデレラ」の話はどのようにして誕生したのかが気になりました。この物語は 世界中によく似た話が多くあり、時代や地域によって姿を変えて伝承され、各国の歴史と文化を垣間見る事ができます。童話作家としてフランスのシャルル・ぺロー、ドイツのグリム兄弟やハルフ、そしてデンマークのアンデルセンをあげる事ができます。まずペローの作品に「シンデレラ」「長靴をはいた猫」などがあり、人の優しさや生き方を示していて、読んでいると気持がなごみます。
物語は全てハッピーエンドで終わります。グリム兄弟の作品は「狼と七匹の子やぎ」「赤ずきん」「白雪姫」「灰かづき」等があり〝人の強欲な心はダメよ!〟と教えています。
アンデルセンの作品には「みにくいアヒルの子」「人形姫」「マッチ売りの少女」などがあり、深い人生の真実にかかわる話です。ハウルの作品には「出世」「変なおばさん」があり、〝人は正直に生きるんだよ〟と伝えています。
シンデレラ物語の原点は紀元前五~六世紀から存在しており、これを元にして古代エジプト時代に「ロドピスの靴」の話が作られ、それを十七世紀後半に活躍したペローがヨーロッパの伝説を集めた童話の中の一つとして「サンドリオン、ちいさなガラスの靴(シンデレラ)」として発表しています。これがディズニー映画の原作になっています。
このペローのシンデレラに登場する邪悪な人は改心して物語はハッピーエンドをむかえます。十八世紀初頭にグリム兄弟はペローの童話をベースにして「灰かぶり」(灰かぶりとはシンデレラの意味)を世に出しています。亡くなった母親の墓に植えられている木がドレスや靴を与えてくれます。義理母が欲深い義理姉の足を削ったり、意地悪した罰として鳥が目をつっついたりの残酷な場面が書かれています。それは心のあり方を述べています。
これらの物語の共通点は①継母のいじめ②助ける人の出現③パーティー(宴会)④主人公の心のあり方⑤結婚(めでたし)の形です。
さて日本に伝わる話としては平安時代の「落窪物語」が貴族や武家の間で読まれています。清少納言が枕草子の中でこれを絶賛しており、まさに日本の最初のシンデレラ物語だと思います。
江戸時代には御伽草子(昔話と絵本を結びつけたもの)と呼ばれて「姥皮」「鉢かづき」「糠福と米福」「お銀小銀」等の継子いじめ話が残っています。灰には再生や呪力があるといわれ、山姥は福の神で幸せを運び込む神です。
江戸時代後期には「桃太郎」「浦島太郎」「かちかち山」などの子供用の絵本(赤本)が絵入りの大衆向けの読み物となり流行しました。明治時代になると文明開化と共に海外からの民話が輸入されて小説にもなっています。
坪内逍遥の「おしん物語」はシンデレラ=おしん、王子様=華族の若様、魔法使い=弁天様、舞踏会=園遊会、ガラスの靴=扇などに置き換えて出版されています。当時の日本にはまだ靴という文化がなかったので扇にしたのでしょう。楽しい夢を与えてくれています。
明治期の学校では教科書に昔話が導入され唱歌となり、今も人々に歌い継がれて歌は生きています。紙芝居は幕末、明治初期の写し絵から作られています。そして今は「金太郎」「桃太郎」等はスマホのコマーシャルに、シンデレラの話は「イエス〇〇クリニック」のコマーシャルの一つとしてアレンジされ、もてはやされています。
ディズニーのシンデレラの映像や美しい音楽を聴くとすべての事に美しくやさしくありたいものだと思いました。語り伝えられていく日本の歴史観や道徳や文化をふまえて、次の世代に繋がれば嬉しいなあと思いました。
(全国歴史研究会、三重歴史研究会、ときめき高虎会及び久居城下案内人の会会員)

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