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163号をゆく
いよいよ大阪市。人口272万人。東京23区を除けば、横浜市に次ぐ人口を誇る西日本随一の都市。天下の台所とも呼ばれた商業都市で、文化面においても日本を牽引する存在であることは、今更語るべくもない。
出発した頃、遠くに霞んでいたビルの群れは今や私を見下ろしている。終点付近で暮らす我々のイメージする国道163号が愛らしい牧歌的な少女とすれば、この辺りの佇まいはコンクリートの森を強く生き抜く大人の女性といったところか。
国道は大阪市鶴見区の北をかすめ、旭区、城東区と続く。時刻は12時過ぎ。道路標識にはようやく目的地の梅田新道の文字。残り7㎞のようだ。高揚する精神に引っ張られてほとんど疲れは感じていない。
途中、大阪府豊中市と大阪市住之江区を結ぶ大阪内環状線(国道479号)との交差点付近に、大阪市高速電気軌道(大阪メトロ)今里筋線の新森古市駅。ゴールデンオレンジに塗られた自己主張の激しい入口はいかにも大阪。この色は路線図を見易くするためなどに設定するこの路線のラインカラー。大阪メトロの8路線のラインカラーは、各線の個性に合わせた意味合いが込められているそうだ。
国道163号の始点までしばらくあるが、この国道の単独区間はあとわずか。城東区の大阪メトロ京町線の関目高殿駅付近の関目5丁目交差点で国道163号は国道1号へと合流する。
私は鈴鹿市北部の1号沿いの地域で生まれ育ったので、最も馴染みの深い1号と愛すべき163号がここで合流することに一方ならぬ感動を覚えている。
指定された当初の国道163号は、大阪市と四日市市を結んでおり、大阪では未だに四日市線と呼ぶ人もいる。後に旧上野市以降の区間が切り離され、更に後に終点を津市に指定したという経緯があるのは以前もお話した通り。元々、旧上野市以降の区間は現在の国道25号旧道を経て、旧関町から1号に合流し、終点の四日市へ向かっていた。つまり私が幼い頃より見ていた1号は、かつての163号だったのだ。初恋の人が実は、見知った異性であるのはドラマの王道だが、まさにそれに当たる。私の163号に対する情愛は、幼き日より潜在的に育まれてきた思いが発露しただけに過ぎなかった。
始点から国道をたどると、ここは道が分かれる場所。逆に終点の津市からたどると、道が出合う場所。恋人たちの離別や逢瀬の場所と思うと、このなにげない都会の風景は私にとって最高にロマンチックなものに思える。(本紙報道部長・麻生純矢)
2019年2月28日 AM 4:55
1月22日8時半、前回のゴール地点である大阪府大東市のJR四条畷駅前に私は立っていた。ここまでは、JR亀山駅から関西本線の始発に乗り、電車で揺られること約2時間半で到着。伊賀市を越えた辺りから、木津駅まで線路と163号はほぼ並走しており、見覚えのある景色が旅情をかきたてる。
いよいよ6回目にして最後の旅が幕を開ける。ゴールは、国道163号の始点である大阪市北区の梅田新道交差点。距離にして20㎞弱。
四条畷駅を出発した私は、1㎞ほど北側を走る163号の四條畷市の東中野交差点より歩道に沿って西へ西へと進んでいく。この辺りの国道は片側2車線で、幹線道路と呼ぶにふさわしい佇まい。津市の終点付近とは交通量も比べ物にならないほど多い。
四條畷市は面積18・69㎢で人口は5万5千人。大阪市のベッドタウンで市域の3分の2を北生駒山地が占めている。国道周辺の市街地は、狭い敷地に建ぺい率の限界に挑むように建てられた住宅や店舗で構成された街並みが広がる。改めて我々の住んでいる地域と比べて、人口密度など、まちの性質の違いを垣間見ることができる。
空は晴れ渡り、気温もそれほど低くなく、絶好の旅日和。この日に合わせて体調も整えてきたので足取りも軽い。四條畷市役所やサンアリーナ25(四條畷市民総合体育館)を超え、順調に歩みを進めていく。
ふと、国道の道路標識に目をやると、「蔀屋」という地名が書かれている。漢字は読めなかったが、添えられている英語表記から「しとみや」と読むことが分かった。すぐに懐からスマートフォンを取り出し、国語辞典アプリを開く。
蔀とは平安時代から中世にかけての寝殿造りの住宅や社寺建築に広く使われた建具のことで、木を格子状に組み、間に板を挟んだ戸で日光や風雨を遮ることを目的に設置されていたようだ。古い寺院で、格子状の戸が天上に向かって水平に跳ね上げられ、L字形の金物で固定されている様子を見たことがある。「アレのことか」と画面を眺めながら得心する。
蔀屋は、蔀で囲った仮の小屋という意味で、地名がつけられた当時には、この地域のアイデンティティ足り得る存在として、そのような建物があったのかもしれない。 私はしばし立ち止まり、多くの自動車が行きかう国道沿いの景色を眺めながら、頭の中でタイムスリップを試みる。原野や森に囲まれた集落に、粗末な小屋が並ぶ景色。そこで貧しくも、明るく日々の暮らしを全うする人々。そんな営みの中で無数の努力が積み重ねられてきた結果、今の風景が形成されている。どの街にも当てはまるごく当たり前のことだが、つい忘れがちな話である。この難読漢字は、我々に大切なものを思い出すきっかけを提供してくれているのかもしれない。(本紙報道部長・麻生純矢)
2019年1月31日 AM 4:55
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」。余りに有名な松尾芭蕉の奥の細道の序文である。曲がりなりにも旅を続けていると、文意を頭ではなく、心で理解できるから不思議だ。
国道163号を終点から始点へと遡る旅も大阪府四條畷市に入り、残すところ20㎞弱。いよいよ次の行程で最後となることは、前回お知らせした通りである。しかし、この稿を書いている今現在近日中に出発を控える状態なので、それがどのようなものになるか、まだ知る由もない。
そこで、これまで5回に分けて歩いてきた旅路を振り返ろうと思う。163号の総延長は118・5㎞。1日目は一昨年の8月31日、津市の岩田橋交差点をスタート。津新町通りや片田町を経て美里総合支所付近まで約13㎞。津城と上野城を結ぶ伊賀街道がルーツのこの区間は今でも中心市街地から津市西部に向かう津市民にとっては、おなじみの区画である。
2日目は同じく一昨年の11月15日、同支所付近から伊賀鉄道の上野市駅までの約30㎞。主に旧大山田村から旧上野市にかけての地域で1日目と同じく旧伊賀街道。豊かな森と木津川水系の清流・服部川が彩る景色。途中には、琵琶湖のルーツである大山田湖の名残や、鍵屋の辻の決闘で有名な剣豪・荒木又右衛門のふるさとがあったりと、知っているようで知らない事柄が散りばめられた区間。
3日目は昨年の3月29日、上野市街から京都府相楽郡南山城村を経て同じく笠置町までの22㎞。この旅で初の県境越えとなった。宇治茶の産地として有名な南山城村は、黒川紀章設計のやまなみホールなど有名建築家による建物があったりと目を凝らすと様々な地域の宝物が散見される。笠置町は日本で屈指の小さい行政権を持つ町で、江戸時代には津藩の領地ということで津市とは非常に縁が深い土地柄だった。
続く4日目は昨年6月22日、京都府相楽郡笠置町から同府同郡和束町を経て同府木津川市に至る14㎞。和束町も宇治茶の大産地で、茶畑はまるで天空に伸びる緑の階段のような美しさ。木津川市も旧加茂町が津藩の領地で藩祖・藤堂高虎公が再建大坂城の石垣にすべく切り出した残念石がいくつも残っており、ここもまた津市との歴史的な繋がりが深かった。
そして、直近となる5日目は昨年9月28日、同府木津川市から同府相楽郡精華町、奈良県生駒市、大阪府四條畷市に至る21㎞。関西学術研究都市を形成するこの地域は、様々な大学や企業の研究機関が点在する。精華町にある日本の知識の源泉である国立国会図書館の関西館、iPS細胞の誕生の地である生駒市の奈良先端科学技術大学院大学は、その最たるものといえる。四條畷市では町のアイデンティティともいえる南朝の忠臣・楠木正行を祀った四條畷神社などに立ち寄った。
地図サイトでここまで歩いた距離を計測するとちょうど100㎞。偶然だが、それゆえに運命的なものを感じてしまう。
最後の行程を簡単に説明しておくと大阪府四條畷市から同府寝屋川市、同府門真市を経て同府大阪市の梅田新道交差点まで20㎞弱。山間の風景が続いていたこれまでの行程と打って変わり、大都会の中を歩くこととなる。
間近に迫った最後の旅立ち。年末年始、画竜点睛を欠くことのないよう体調管理に気を付けてきた。後は好天を祈るばかりだ。
(本紙報道部長・麻生純矢)
2019年1月24日 AM 4:55