社会

岡本直之会頭

前号に引き続き、昨年11月に就任したばかりの津商工会議所の岡本直之会頭(67・三重交通グループホールディングス㈱代表取締役社長)へのトップインタビュー。今回はサラリーマンという出発点から、経営者という立場で活躍する現在に至るまで様々なエピソードを聞きながら、その人物像に迫る。      (聞き手=本紙報道部長・麻生純矢)

鉄時代には、サラリーマンという出発点から地道なキャリアアップを続けられ、副社長などの要職を歴任、現在も経営者としてご活躍されています。そのような御経歴からも、現場から経営まで〝組織〟というものの本質を的確に捉えられる広い視野が岡本会頭ならではの強みと思っております。それは経営者や会頭としての職務にも生かされていますか?
岡本 会頭としての職務に生かされているか具体的には分からないが、サラリーマン生活を振り返ると、いくつかポイントがある。 最初のポイントは会社に入って4年目にあった助役実習。これは全員やるものではなく、当時の近鉄は運輸か経理に配属され、4、5年勉強をして、それから企画室、労務、広報、人事の方へ行くという流れだった。実際に助役を1年間やったが現場を知るという意味では非常に役立った。もちろん、その前に駅での実習や運転士や車掌もやるのだが、助役は中間管理職。当時の現場は中卒や高卒で入ったキャリアのある精鋭揃いだった。高卒で入ると助役になるのに早くても15年程かかるところを大卒で4年目の知識のない人間が入るのだから大変。からかわれたこともあるが、かばってくれた人もいるなど、人間関係を学べた。ここでの経験は組織をまとめていく上での勉強になった。
労働環境も朝9時に出社して、終電が行くのは12時40分。風呂に入って寝るのが1時過ぎ。4時半には起きなければならず、睡眠時間は3時間ほどと厳しかった。
その次は、入社後10年目に労務で賃金を担当した。当時の私鉄の賃金は春の集団交渉で、私鉄が決まると鉄鋼業界といった具合に全てが決まっていく流れだった。その頃は、60歳の定年制導入や、退職金制度の改定などがあって、本当に大変だった。残業をしたまま家に帰らず、会社の机の上で寝たということも2度、3度あった。その分、自分がつくった制度がずっと残るなどやりがいはあった。
当時の労働組合の委員長から教えて頂いて今でも心掛けているのが、「めでたいことは義理を欠いても良いが通夜や葬式など不幸があった時は絶対に行かなければならない」ということ。だから、仕事が立て込んでいるときであっても葬式が始まる前に顔を出したり、夜の仕事が片付いてから通夜に行くようにしている。そして、次に社長秘書を7年務めた。この時に髪が真っ白になった。本当に大変だったが、謦咳に接する(尊敬する人の話を直接聞く)というか、当時の社長からは文章の書き方から経営者としての考え方までを教えられた。
当時の大きな会社は社長の挨拶などの原稿を書く人と身の回りのマネージメントをする人は別だったが、近鉄は何から何までやらなければいけなかった。
例えば、出張についていくと、まず、フロントでスタンドを借りて、夜のうちに原稿をつくった。それを翌日の朝、社長に渡すと赤ペンで直された。その原稿は残してあるが、それで鍛えられたこともあり、今でも一晩あれば次の日に話す原稿をつくれる。
最後は役員になってから、不動産やターミナル開発をやるようになった。不動産は会社に入って初めての担当。当時はバブルが弾けて色んな厳しいことをやらなければいけない時代だった。それが今から2、3年前、こちらにきてから、現在の近鉄不動産の社長に「あの時、色々とやってくれたおかげで近鉄不動産は普通の会社になることができました」と言われたのがうれしかった。そして、私がこっちに来た時、ちょうどリーマンショックで三交不動産が同じ状態だったので、その時の経験が非常に役立った。
ターミナル開発については、沿線に名張の近大高専、藤井寺球場跡の四天王寺学園の小中学校、あやめ池に近大付属の小学校などを誘致した。これらはずっと乗客数を下支えしてくれる。更に上本町の大阪新歌舞伎座の誘致や、あべのハルカスの最初の頃に係わっていた。
ハルカスは最初の計画では、今の高さ300mではなく256m程だった。その時に、ゼネコンから航空法が変わるため、伊丹空港の航路に入るキタやミナミに建てられない日本一の高さのビルを阿倍野になら建てられるという話をされた。当時の山口社長(現会長)に、その話をしたら、即断してくれて今の形になった。こんなことに係われたのは非常に幸せ。
ある大学の先生に「ハルカスはビルだけで孤立したらダメだ」と言われた。だから、地元の商店街の人に支えてもらってハルカスがあるという意識を大切にしている。そういう意味では会頭としての職務に通ずるところがあって、榊原温泉や久居地区など周辺地域があってこそ中心市街地が、そして津市全体が活性化する。このみんなでという視点が大事で、その接着剤的な役割を果たすのが商工会議所だと思う。
──ありがとうございました。

岡本直之会頭プロフィール
昭和21年12月29日生まれ。伊賀市出身。
県立上野高校から大阪市立大学商学部を卒業し、昭和45年に近畿日本鉄道㈱入社。
秘書室長などの要職を歴任。平成22年より、三重交通グループホールディングス㈱代表取締役社長に就任。
同年より津商工会議所副会頭、昨年11月に会頭就任。
平成23年より三重県経営者協会会長もつとめている。

岡本直之会頭

昨年11月に就任したばかりの津商工会議所の岡本直之会頭(67・三重交通グループホールディングス㈱代表取締役社長)へのトップインタビュー。津市の商工業や地域社会の発展という重要課題に向けて掲げる目標や、躍動感溢れる午年にふさわしい新年の抱負などを聞いた。 (聞き手=本紙報道部長・麻生純矢)

──新会頭としての目標を改めてお願いします。
岡本 昨年の就任記者会見でも誰からも選ばれるようなまちづくり、定住人口の増加、社会貢献活動の3つを目標として挙げさせて頂いた。最初の誰からも選ばれるようなまちというのは簡単なことで、働きたいし、それから住んでもみたいし、老後の生活もゆっくり送りたいということ。そういうまちに津をできたらと思うが、やはり、津市全体でもヘソの部分である中心市街地が大切。前葉泰幸市長の就任後、津センターパレスに津中央公民館、まん中老人福祉センター、障がい者相談支援センター、まん中こども館が移設され、施設の充実を図ってくれた。更に昨年、岡三証券のプラネタリウム付きのビルが完成。続いて、百五銀行が本店と営業部棟を、三交不動産も本社ビルの建て替えということで、たまたまそういう時期に当たっただけだが、これだけ中心部にできると、人の流れが変わる。新しい人の流れができるということは、新しいまちの魅力が増すということ。それには期待をしているし、そこに行政と地元の商店街の協力を得て、活性化を図れたら一番と思う。一応ハードは整ったので今度はソフト。その部分が大事。商工会議所の関係で言えば、地元の商店街と協力して人のにぎわいが出るような手助けができればありがたい。あとは、防災面。行政としては防波堤などをつくるようなことも進めていくと思うが、商工会議所としても、なにかあった時に企業のビルを防災ビルとして使って頂けるようにすれば良いのかなと思っている。そういうことをやれば、今まで以上に安心して、住めて仕事もできるようなまちになると思う。
2つ目の定住人口の増加については、私のように外から来た人間と違って、津に生まれ育った方々は意外と気付かないのだが季候が凄く温暖。更に海に川、山もあって自然にも恵まれている。榊原温泉という素晴らしい温泉もあるし、交通網は高速道路が名古屋・京都・大阪方面や、県内も南の方までしっかりできている。鉄道網も近鉄とJRが走っており、三重大学があり、病院も三重大附属病院を始め、民営の病院も充実している。うなぎや古いレストランを始めとする食文化もある。非常に良いところだし、定住人口が増える要素は沢山ある。後は、商工会議所として新しい企業を引っ張ってきたり、働き口を増やす一助になれたらと思っている。これから行政にお願いして保育所と高齢者用の施設を充実させていかなければと思っている。こうなれば最初に申し上げた定住人口は自然と増えて、みんなが住みたい、働きたいまちに繋がるように思う。
3つ目の社会貢献活動は御殿場の松林の保全活動をしており、ロータリークラブやライオンズクラブと一緒になって色んな貢献活動をやりたい。それに加えて、文化の発信をしたい。津城址・結城神社・津観音・高田本山・四天王寺など色々な名所旧跡もあるし、川喜田半泥子の名品も鑑賞できる石水博物館がある。そういう文化発信をやることも大きな社会貢献と思う。
それと津まつりを更に盛り上げたい。これは不易流行の最たるもの。元々、津八幡宮のまつりが大切に守られてきて、そこによさこいなどの新しいまつりをミックスされている。昨年も2日間で30万5千人が来場するなど、それだけの人が集まるのは凄い。昨年、私も初めて見させて頂いたが会議所として何かができないかと思ったのは、フェニックスと国道23号の間にあるビルのオーナーに、協力して頂いて、椅子を出して頂くとか1階と2階のトイレを提供して頂けたら、もっと祭を快適に楽しんで頂けるのではないかと思った。今の津の良さをPRするという意味も込め、社会貢献活動をしていきたい。この3つが新会頭として取り組んでいきたい目標。
──新年の抱負は。
岡本 それは先ほど掲げた目標を実現するための行動指針というか、モットーのようなもの。去年のクリスマスにあった昨年最後の記者会見でオバマ大統領が「2014年は行動の年にしなければならない」と仰られていた。実は新年の一般教書演説でも同じことを仰られていて、そこから思いついたのが、今年は午年で千里の道を疾走しなければならないから、スピーディーに行動するということをモットーに様々なことをやっていきたい。加えて、今までやってきたものをそのままやるのではなく、改善・改革というオーバーなものではないが、少しだけ新しいベターメントを求めてやっていく。抱負としてまとめると、スピーディーに行動をする、そして少しでも新しいベターメントを求めて、ということになる。     (次週につづく)

岡本直之会頭プロフィール
昭和21年12月29日生まれ。伊賀市出身。
県立上野高校から大阪市立大学商学部を卒業し、昭和45年に近畿日本鉄道㈱入社。
秘書室長などの要職を歴任。平成22年より、三重交通グループホールディングス㈱代表取締役社長に就任。
同年より津商工会議所副会頭、昨年11月に会頭就任。
平成23年より三重県経営者協会会長もつとめている。

 

福祉バスの前で…運行に携わる生川介彦さん(左)と濱際和彦さん

 豊が丘地区(豊里ネオポリス)は、地域内を路線バスが走っているものの、ルートの関係で津駅まで約1時間もかかり、運賃も高齢者らには軽くないため、日常生活の足としては活用し難いという声が大きかった。そこで地元の豊が丘地区自治会連会が主体で生活支援などを行う『ライフネット豊が丘』が、住民ニーズに即したコースで走る福祉バスの運行を4月から開始しようと現在、試行運転に取り組んでいる。

 豊が丘地区は津市内でも屈指の大規模住宅団地で、現在は約2300世帯、約6500名が暮らす。団地の開発が始まってから30年以上が過ぎ、住民の高齢化が進んでおり、500名以上の交通弱者がいる。
 そんな人たちにとって重要となるのが、通院や買い物で団地の外に出るための移動手段の確保。団地の目抜き通り沿いを路線バスが通っているものの、津駅に出るには団地を出た後、県道10号津関線から県道410号(旧津関線)に入り、国道23号から三重大前を通り、津駅東口へと至るというルートで約1時間もかかってしまう。運賃も往復で1200円と年金暮らしの高齢者には軽くはなく、利用し難いという声も大きかった。団地から車で県道10号をまっすぐ進み津駅西口まで行けば約20分ほどしかかからず、その道沿いには国立三重病院もあることを考慮すると、このような声が上がるのも仕方がないことだろう。
 そこで平成21年に豊が丘地区自治会連合会は、地区住民の要望を受けて、津市とバス運行会社にコミュニティバスの運行もしくは路線の新設を要望したが、実現には至らなかった。そこで諦めることなく、なんとかコミュニティバスを運行できないか模索を続けた。
 その結果、同自治会連合会が主体となって、家事援助や通院の付き添いなど、住民の生活支え合い(愛)活動を行っている「ライフネット豊が丘」が、活動の一環として福祉バスの自主運行を計画。昨年、市の福祉政策課を通じて地域福祉のパイオニア的な存在を援助する「三重県地域支え合い体制づくり事業」の認可を受け、その補助金で昨年10月から今月まで試行運転を実施している。その間に全国の先進地を視察したりもしながら今年4月からの本格運行に向け、運行計画を練り直している。
 試行運転は第2、第4週に実施中。車両は地域の福祉施設から譲り受けた15人乗りのワゴン車で自治会会員たちが運転している。利用対象者は65歳以上の自治会会員で予約制。コースは、月曜日から金曜日の日替わり。広い団地内の移動から最寄りの病院や大型商業施設、津駅や総合文化センターなど5ルートを設定。行きは自宅や最寄りの公園まで迎えに行く。予想以上に好評で当初から増便をした日もあるほど。
 本格運行後は行政の補助なども全く無く、道路運送法の規制で利用者からガソリン代はもらえるが、それ以外の必要経費の確保が大きな課題となる。現在は津市や国土交通省などと綿密に交渉を進め、持続可能な形を探っている。
 同連合自治会長で自身も福祉バスのハンドルを握る生川介彦さん(78)は「今は福祉バスのことだけが前面に出ているが、これは買い物付き添いや通院支援など生活支えあい活動の延長線上のもの。本格運行後も住民のニーズを受け止めながらやっていく」と語る。
 赤字路線の廃線などが進む中、地方の公共交通のあり方が問われているが、地域住民のニーズに合わせたコミュニティ交通を地域住民が運行するというのは全国的に見ても先進的な取り組み。様々な方面から大きな注目を集めそうだ。

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