社会

神武天皇陵

神武天皇陵

 

JR畝傍駅を過ぎると国道165号は、国道24号と合流。京都市と和歌山県を結ぶこの国道は以前、国道163号を終点から起点まで踏破する旅の際に、少しだけ通ったことがある。なんだか旧友と再会したような気持ちになる。
そのまま国道を南へ進むと、大和三山の最後の一つ。畝傍山が見えてくる。この山の麓には、初代天皇・神武天皇の宮があったとされ、神武天皇を祭る橿原神宮、神武天皇陵などがある。世界でも類まれな2681年もの月日を積み重ねてきた皇室の歴史を刻んだ神武天皇即位紀元(皇紀)。その始まりの地である。国道から畝傍山を眺めていると、津市からここまで国道を遡ることが、日本の歴史を遡るような気持ちになってしまう。私はどこまでも単純で浅はかな人間だ。
ただここから大阪へ向かう国道にいささか不満を感じている。というのも高架化された自動車道として整備されているため、歩くことが叶わないからだ。しばらく国道に沿った側道を延々と歩くこととなる。山間部を走る区間が多かった国道163号ではこのようなことは無かったが、人口の多い市街地を走るという事情の違いがそうさせるのだろう。近くて遠い存在として傍らにそびえる国道に複雑な思いを抱き

畝傍山山頂から見る国道165号

畝傍山山頂から見る国道165号

ながら、側道を歩き始める。「会えない時間が愛を育む」。婚活アドバイザーでもある私は、もっともらしい言葉で自分の心を慰める。いつ再び側道ではなく、国道をこの足で踏みしめることができるのだろう。不満は不安へと変わっている。
後日、追取材のため、橿原神宮やその周辺を訪れた。明治に創建された橿原神宮の歴史自体はそれほど長くはないが、広大な境内は穢れなく厳かな神域。それを取り囲む鎮守の森が広がっている。神武天皇陵も非常に厳かかつ整然とした神域。連綿と続く我が国の原点を垣間見ると、不心得者の私ですら、思わず背筋が引き締まる。古の大王は時の彼方で何を思うのだろう。
その後、境内にある登山道から畝傍山の山頂をめざす。標高199mと高くはない山だが、盛夏ということもあり、頂上へ登った頃には汗だくに。黒いカーディンガンの表面にはうっすらと白い塩が浮かんでいる。山頂から北を走る国道165号をじっくりと眺める。側道を歩いた時は、国道が私を見下ろす立場であったが、今度は私が見下ろす立場である。国道を歩けないことを勝手に「裏切られた」と認識し、復讐心をたぎらせている自分は、まるで自分を捨てた許嫁お宮を恨む金色夜叉の貫一のようではないか。我に返ると深刻に考えている自分が余りにも滑稽で思わず、口元がゆるむ。
国道の側道を歩く旅も結果を先にお話すると、楽しいものだった。次回からはそれを紹介するとしよう。
(本紙報道部長・麻生純矢)

津市東丸之内の百貨店「松菱」は9月から来年3月にかけて、首都圏の百貨店で三重県内の食品業者を集めた「三重の食フェア」を開く。県の受託事業として、新型コロナで苦戦が続く業者の販路開拓を支援するだけでなく、松菱も業者とのつながりを深め、自社の品揃えを充実させる。百貨店が他百貨店で催事を開くことは全国的にも珍しく、「地域商社」という新たな役割を打ち出す取り組みに注目が集まる。

 

 

百貨店「松菱」(津市東丸之内)

百貨店「松菱」(津市東丸之内)

同フェアは、三重県から受託した販路開拓事業として松菱が首都圏の百貨店の食品売り場の一部や催事場を借りて行うもの。県内食品業者を募り、県内産の弁当、惣菜、菓子などを販売する。参加希望業者は、松菱に出店料を払う形だが、行政の補助が受けられるので、交通費などの出店コストが軽減されるのも特徴。出店先は日頃から松菱と付き合いがあり、協力を求めやすい首都圏の百貨店が中心。出店スケジュールは、9月1日から松屋銀座店=東京都=を皮切りにスタート。京王百貨店新宿店などで来年3月まで開催していく。
多くの客が訪れる呼び水となる物産展など、百貨店の催事は他売り場への集客目的でも開かれるため、同フェアのように他百貨店で開くという形は全国的に見ても非常に珍しい。参加する県内食品業者にとって、大都市との販路拡大になるのはもちろんだが、大都市の百貨店にとっても、地方の良質な商品を集めた催事を開けるのでメリットは大きく、松菱と商圏が重なっていないため競合にもならないという。松菱としても地元業者とのつながりを深めて自社の品揃えの強化が図れるだけでなく、同フェアでの売れ行きを参考にしながら県内業者と商品の共同開発も検討していく。
既存の考え方に捉われない新たな試みに対する反響は大きく、首都圏の百貨店の担当者や出店希望業者からの問い合わせも多数寄せられている。現在、東京、神奈川、埼玉の百貨店を中心に調整を進めている。更に、関西などの百貨店でも、同様の催事を開いていく予定。
全国的にも地方の百貨店は大型ショッピングセンターやネット通販の台頭で逆境が続く。三重県内でも、最大5店舗あった百貨店は徐々に姿を消し、今では松菱と近鉄百貨店四日市店を残すのみとなった。時代の流れを読んだ生存戦略を練っていく過程で、唯一県内に本社を置く百貨店である松菱は、地元に根付いた強固なネットワークを生かす立ち回りが求められる。そのような背景で企画された今回のフェアに色濃く打ち出されているのは「地域商社」としての役割だ。
政府が掲げる「地方創生」で地域が誇る物産などを地域外へと広く販売していく「地域商社」の存在はキーとして注目されているが、実践するためのハードルも高く、成功例は決して多くない。
地方の百貨店の新たな在り方と可能性を示す試金石となる今回のフェア。その成功と今後の展開が期待される。

江戸時代には津藩の特産品として将軍家にも献上されていた高級織物「津綟子」は現存数が非常に少なく幻と言われているが、津市在住の郷土史研究家・浅生悦生さんが、芸濃町の旧家より明治後半に作られた男性用の襦袢地(肌着用生地)を発見。これまでの発見例では、最後期の品にあたり、その実態や歴史を明らかにするのに貴重な資料となる。また、同時に明治期の貴重な古写真も大量に発見されている。

 

 

大量の古写真、津綟子を手に…浅生さん

大量の古写真、津綟子を手に…浅生さん

津綟子と古写真が発見されたのは、芸濃町椋本の旧家の駒田家。明治期に4代目・駒田作五郎(1849~1895)が茶栽培を始め、明治14年(1881)に、製茶輸出会社を設立。明治41年に大日本製茶株式会社を設立するなど、紅茶輸出で財を成しただけでなく、紅茶をパリ万博にも出品している。近年まで医業を営んでいたが廃業している。家の取り壊しに当たり、現在の所有者より浅生さんに依頼があり、調査したところ、津綟子の襦袢地と、明治期の古写真を大量に発見。
津綟子は江戸時代から大正時代にかけて、現在の津市の美濃屋川流域沿いの主に現安濃町で生産されていた苧麻(からむし)などを材料にした綟り織。高い技術力と独自の製法によってきめ細かい隙間が生まれるため、通気性に優れ夏物衣料(肩衣、袴など)や蚊帳などの素材に重宝された。江戸時代には津藩が誇る特産品であり、将軍家への献上品や他大名家への進物にもされ、製法は門外不出で厳しく品質が管理されていた。木綿織物と比べると生産には多大な労力と卓越した技術が必要なため、武士の公服が必要なくなった明治期に衰退し、昭和初頭に完全に姿を消した。資料には存在が記されているものの、長きに亘って、実物が見つからず、幻の織物といわれてきたが、近年では県指定文化財の肩衣など数点が発見され、調査研究が少しずつ進んでいる。
今回発見された明治後半につくられた襦袢地は幅33㎝、長さ553㎝で男物の肌着一着分に相当する。津の町で最後まで残っていた津綟子を扱う商人の河邊清右衛門が販売したことを示す商標がついている。商標がついている物の発見は初めてで、現存する津綟子の中では最後期に生産されたものに当たる。当時の資料に記載されていた内容を裏付ける発見で、幻と呼ばれる津綟子の歴史や製法をより深く知るためにも貴重な資料となる。
そして、津綟子と同時に、明治初期の古写真計201点も発見された。当時の写真は、卵白を媒体とした印画紙をガラスのネガと密着させて焼き付ける手法で現像。いわゆる鶏卵紙写真は、相当な貴重品だった。発見された写真の多くが名刺大で、政治家、軍人、経済人を中心とした人物写真と風景写真が占める。裏書に、作五郎への宛て名書きがあるものも混じっていたので、浅生さんは事業や県会議員として、多くの人と交流したり、全国各地の旅先で手に入れたものと推測した。しかし、人物写真の顔ぶれの中には、放送中の大河ドラマの主人公を務めている渋沢栄一や、五稜郭で散った新撰組副長・土方歳三など幕末から明治にかけて活躍した有名人の写真も多数含まれているため、作五郎と実際に交流があった人物だけでなく、当時販売されていたブロマイドも含まれているとも推測している。中には明治に現在の津市大門にあった写真館・塩見舘で撮影された写真もあった。県内で、これだけ多数の鶏卵紙写真が発見されたのは初。今後の研究が期待される。
浅生さんは「まだまだ旧家などには、貴重な資料が眠っている可能性があるので、今回の発見が更なる新資料の発見のきっかけにもなれば嬉しい」と期待する。

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