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歴史や他の城の事例学ぶ  石垣の整備は課題に

 14日、津市大門の津市センターパレスホールで、津城跡の保存や活用といったこれからを考える津市主催のシンポジウム「津城をたどる」が開かれ、市民200名が参加。津城の復元への期待が高まる中、津城の歴史や松坂城跡、田丸城跡の事例紹介からも、津城の石垣に根を張る樹木の伐採など、喫緊に解決すべき課題も浮上していた。

 このシンポジウム開催のきっかけの一つは、津城復元への気運の高まり。津城は現在は本丸と西の丸の石垣と内堀の一部を残すのみとなっているが、往時には最大100m幅の堀と堅牢な門などによる難攻不落の要塞でありながら、平和な時代を見据えて政庁としても使い易い革新的な設計思想を持つ城だった。公益財団法人日本城郭協会の続日本100名城に選ばれて以降、全国から城好きを中心に観光客が訪れている。「津城復元の会」=西田久光会長=の地道な活動や、ふるさと納税ブームも追い風となり、津市のふるさと納税制度の使途項目「津城跡の整備」には延べ約3万人から現在約7000万円もの寄附が集まっている。このタイミングで改めて、多くの市民の意見を掘り起こし、史跡や都市公園など様々な顔を持つ津城跡の整備のあるべき方向性を考えることがシンポジウムの目的。
 最初に、津市文化財保護審議会委員の吉村利男さんが登壇し、「津城の歴史と変遷~その起源から現在」という演題で津城の現在に至るまでの歴史を紐解いた。津城は織田信長の弟・信包によって建てられ、天正8年(1580年)頃に完成したとされ、慶長13年(1608)に入府した津藩祖・藤堂高虎が大改修を加え、その居城となっている。以降は、藤堂家が代々城主として受け継ぎ、明治時代を迎えている。その後、廃藩置県によって、明治4年(1871)に廃城となって以降は陸軍の管轄となり、明治10年代に櫓などの建物の払下げが行われた。明治23年には陸軍より藤堂家へ城地の払下げが行われたが、昭和前期までにかけて、都市の発展に伴い、城跡の内堀と外堀の間に家が建てられたり、新道の開通や外堀と内堀の埋め立てなどが行われた。残っていた南内堀も昭和25年(1950)頃より戦後の復興で公用地を確保するために埋めたてられた。昭和33年には市民の寄附によって石垣の上に模擬櫓が建設され、昭和42年~45年にかけてお城公園として都市公園化した。平成17年(2005)には県史跡に指定され、南内堀跡の旧津警察署跡地に中央公民館の新築が計画されたが、津市文化財保護審議会から反対の要望書が出され、現状維持がなされた。吉村さんは、近年の機運の高まりを踏まえて「櫓だけではなく内堀の復元も含めて検討してほしい。今一度、原点に立ち返って津城の史跡保存を考える必要がある」と語った。
 その後、津市教育委員会生涯学習課の中村光司さんが「県史跡・津城跡に係る津市の取組み」の演題で、石垣の上に植えられた樹木の成長に伴って根に押し出される形で孕み(膨らみ)が生じている石垣、除却が予定されている本丸南側の旧社会福祉センターの調査状況の報告などを行い、改めて津城跡のあり方を共に考えるスタート地点とするとした。
 続いて、松阪市産業文化部文化課の寺嶋昭洋さんが「国指定史跡・松坂城跡の管理と整備」と題し、積み直しをした大規模な石垣の修理や倒壊すれば石垣にダメージを与える危険木や支障木の伐採などの取り組みを解説。玉城町教育委員会生涯教育係の田中孝佳吉さんが「県史跡・田丸城跡の整備と活用」と題し、平成29年(2017)の台風の豪雨や石垣近くに生えていた樹木が倒れた影響で崩落した石垣の修復などについて語った。石垣の整備は津城跡も直面する課題だけに今後の参考となる貴重な事例紹介となった。
 最後のトークセッションは「城跡の整備と活用のこれから」を演題に、皇学館大学非常勤講師の竹田憲治さんを迎え、吉村さん、中村さん、寺嶋さん、田中さんがそれぞれの見解を語った。
 会場からも意見が寄せられており、参加した三重県郷土会理事の浅生悦生さんは「石垣の上の木の伐採は急務。倒壊して補修することになれば、莫大な費用がかかる」と訴えると共に、津城跡に訪れた人たちが立ち寄れる郷土資料館の必要性も指摘していた。
 津市では、このシンポジウムを皮切りに、津城跡のあり方を継続的に考えていくとしているが、過去にも、城跡の整備を考える取組みが立ち消えになっていたことも、今シンポジウムで紹介された。実効性のある整備案が明確な形となるまで議論の継続が期待される。

 

今月31日まで、津市一身田大古曽の「㈱アルファ」の事務所2階大会議室で「ワンダーランド展」を開催中。入場無料。
 「関わった人を大切に」という企業理念から、地域の人々とのつながりになれば、と昨年1月から開催している。今回は津市議で落語家の桂三発さんが撮影した写真(県展・市展入選作含む)と所蔵するカメラコレクション各13点を展示。
 入場時間は平日のみ8時~12時、13時~17時(12時~13時はお昼休み。最終日14時半迄)。

関宿の西の追分付近からスタート

朝8時。JR関駅前の有料駐車場に車を停めた私は荷物をまとめたリュックサックを背負い、澄んだ空を見上げる。彼岸を過ぎてもなりを潜める気配がなかった猛烈な暑さも、いよいよ年貢の納め時といったところか。少し気温は高いものの、湿度の少ないさらりとした空気と柔らかい日差しは、まさに秋うららと呼ぶにふさわしい。
 前回の行程で津市江戸橋から関宿までの伊勢別街道約19㎞を踏破したが、これまで100㎞超の国道を2本踏破した私には少し物足りない。そこで関宿からは東海道を西へ進み、終点の京都三条大橋を目指していくというのが、ここからのルートである。新名神高速道路が完成したおかげで、津市から京都へは随分気軽に行けるようになった。何事も無ければ、京都市中心部からも近い京都東インターチェンジまで1時間強しかかからず、名古屋とさほど変わらない感覚で出掛けられるからだ。一方、古来より京の都へ向かうルートであった東海道とそこから派生した国道1号を利用する人は少数派になってしまった。だからこそ、今、東海道と国道1号を歩いて、京都を目指す行程を多くの方々に楽しんで頂けるのではないかと感じた。ただ、これまで私が踏破してきたいわゆる3桁国道と比べると、東海道や国道1号は余りにメジャーな存在。関連書籍なども豊富で、今更あれこれ語ることに少し腰が引けてしまうが、私ならではの視点で旅情を綴っていくので、ご容赦願いたい。
 今日の行程は関宿から、甲賀市の近江鉄道水口石橋駅までの約35㎞。一日で歩く距離にすると過去の徒歩旅の中では最長。通常一日20㎞前後であることが多いが、これほど長い距離を歩かなければならない理由は、この旅のやり方にある。私が全行程を適宜歩きやすい距離の区間に分割し、一日かけて気楽な徒歩旅をしながら、旅先での出来事を記事にしている。そして、次回は前回のゴール地点からスタートし、一日歩くというサイクルを繰り返して目的地をめざす。しかし、文字通りの一人旅では送迎が無く、電車やバスなどの公共の交通機関に頼るしかない。もし、交通の便が悪い場所で行程を終えてしまうと、帰りづらいばかりか、次回の再開も困難になってしまうので、少し無理をしてでも長距離を歩くしかない場面が出てくる。それが今回に当たる。過去にも何度か経験があるが、そのような区間は大体、昔の国境や県境をまたぐ難所揃い。今回のそれに当たるのが東海道を行きかう旅人の前に立ちはだかった鈴鹿峠である。相手にとって不足がないどころか、自らの力不足すら感じている。帰りの足となるJR関西線と峠の向こう側の東海道のルートは大きく離れているため、東海道沿いにあり、JRと連絡する近江鉄道の「最寄り駅」である水口石橋駅にゴールが自ずと定まったという訳だ。 
 軽い準備運動も兼ねて、関駅から前回のゴール地点である東海道関宿の関西方面への出入り口である西の追分まで戻ると、私は間も無く訪れる難所との戦いを思い描きつつ、スタートを切る。ちなみに、この付近で伊賀方面へと向かう名阪国道の本線に当たる国道25号へと分岐していく。
 まずは、東海道の48番目の宿場町である坂下宿へ。一体となっている国道1号と東海道は少しすると分離し、南北に蛇行しながら国道を一度またいでは戻るという軌跡を描きつつ、坂下宿へと続いていく。今日はどんな旅となるのやら。(本紙報道部長・麻生純矢)

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