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雪が降る椋本のバス停

伊勢道の芸濃ICの高架をくぐり、ラストスパート。芸濃町の旧椋本宿に入る。伊勢別街道の宿場町として栄え、江戸時代には2㎞弱の区間に20軒ほどの旅籠があった。集落の入り口には仁王経碑が設置されており、疾病の流行を抑えることを目的に仁王経を刻んだ小石が碑の下に埋められている。反対の関宿側の入り口にも同様の碑がある。町並みも建物が密集しやすい宿場町らしく、防火のために街道の幅は広く取られており、4箇所直角に街道が曲がっている。三叉路の角には、石と木の道標が建っている。江戸時代後期に設置されたとみられる石の道標には「左さんぐう道」と刻まれている。明治時代に設置された木の道標には、「津市元標へ三里三拾三丁八間」「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と距離まで記されている。道路の起点、終点、分岐点に置かれていたもので、現在の国道の起終点にに設置されている道路原票のルーツのような存在である。元々は人々の自然発生的なニーズや地形などの諸条件が重なり生まれた道が、やがて法によって管理される現代の道路行政につながる道程の道標でもある。
 ゴールである三重交通の椋本バス停には17時半に到着。それと同時に日は完全に沈み、辺りはすっかり闇に包まれ、間も無く雪が降り始めた。明日は大雪という予報に違わぬ勢いであっという間に、バス停前の広場のアスファルトがみるみる白く染まっていく。亀山駅行きのバスは始点だが発車は18時過ぎ。30分以上の待ち時間があるため、軽い空腹と寒さをしのぐために自販機でコーンスープを購入。熱い缶でかじかんだ手を少し温めた後に開封し、味わうと全身へと心地良い熱が広がっていく。飲み干した缶を名残惜し気に握りしめているとあっという間に冷たくなり、逆に手の熱が奪われる。「これがエントロピーというやつなのだろう」などと、万物を統べる法則に対し、酷くいい加減な見識を示しながら、空き缶をゴミ箱に入れる。
 バス停には、気付けば私の他にもう一人。年の頃なら10代後半くらいの若い男性。中々の男前である。「こんな天気の中、この時間からどこへ出掛けるのだろうか」と思って彼の方を一瞥すると「寒いですね」とはにかみながら声をかけてくれた。「早くバスが来るといいですね」と私は返す。それ以降は二人とも無言でスマホを操作しながらバスを待っていたが、少し言葉を交わしただけで、安心感のようなものが生まれるのが面白い。
 その時、待機中のバスのドアが開き、運転手さんが「よかったら中で待っててください」と声をかけてくれた。「ありがとうございます」。私と彼は、運転手さんの心遣いに感謝の言葉を述べ、バスに乗り込んでいく。私たちが待つバスとは別の路線で出発まで一休みしていたところ、寒そうにしている姿を見かねて声をかけてくれたという。心の通った対応が嬉しい。運転手さんに「これからどこかへ行くんですか?」と問われた彼は「帰ってくる友達を待っているんです」と、またはにかみながら答える。それを脇で聞いていた私は「なるほど」と疑問が氷解する。
 しばらくすると、ようやくお目当てのバスが到着したので運転手さんに再び感謝の言葉を伝えて、そちらへと向かう私と彼。雪が降りしきる中、バスから降車してきたのは制服姿の可愛らしい女子高校生。彼女は、彼の姿を見るなり、驚きの表情を浮かべて「なんでおるの!」と大きな声を発しながら駆けよってくる。それに対し、彼はまた「いやぁ…」とはにかんでいる。友達同士なのか、はたまた恋人同士なのか、私には二人の関係性を窺い知る術はない。だが、彼女の歓喜に満ちた表情は、彼のサプライズが奏功したことは語るべくもない。私は、楽しそうに会話をしながら雪夜に消えていく二人の背中を見送りながら、亀山駅行きのバスへと乗り込む。先ほどの運転手さんの心遣いと二人のやりとりを見て、冷えた身体と心はすっかり温かくなっている。「これもまたエントロピーかもしれない」。心地良い疲労と達成感に包まれる中、私は座席に腰を下ろし、帰路に就いた。(本紙報道部長・麻生純矢)

 ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、日本・米国・ヨーロッパの西側諸国と、これらに対峙する中国・ロシア、北朝鮮との対立が鮮明になり、世界は、かつてない緊張感を漂わせている。また、グローバル・サウスと呼ばれるアジアやアフリカなどの新興国や発展途上国に対する両陣営の呼び込みも加速する。20世紀に2度の世界大戦から78年、教訓は生かされているのか。戦争の残酷さ、悲惨さを知る体験者が少なくなっている今、平和への祈りを込めて、戦争研究家の雲井保夫さん執筆の「津大空襲」を2回に分けて追体験する。(写真は全て太田金典氏が撮影)

空襲で焼け野原になった津市内 終戦直後(1945年頃)パノラマ写真の一部

 昭和20年〔1945年〕7月24日〔火曜日〕、テニアン島西飛行場を基地とするアメリカ陸軍航空隊、第20航空軍、第313爆撃航空団所属のボーイングB─29スーパーフォートレス爆撃機〔以下B29〕41機が三重県津市の津海軍工廠を第1目視爆撃目標地、津市市街地を第1レーダー目標爆撃地として爆撃せよとの命令を受けて出撃した。作戦任務第288号。それぞれのB29はAN─M─64・500ポンド〔約250㎏〕の通常爆弾を搭載していた。総搭載爆弾数は1121発である。
 一方、グアム島北飛行場を基地とする、第314爆撃航空団の81機のB29は、第一目視爆撃目標地に愛知県名古屋市の三菱重工業名古屋機器製作所を、第一レーダー爆撃目標地に三重県津市の市街地を目標に爆撃せよとの命令を受けて出撃した。作戦任務第289号。うち二個の爆撃航空群所属の20機のB29がAN─M─56・4000ポンド〔約2トン〕の軽筒爆弾、残りのB29は、AN─M─64・500ポンド〔約250㎏〕通常爆弾を搭載した。総搭載爆弾数はAN─M─64・500ポンド爆弾は552発。AN─M─56・4000ポンド軽筒爆弾は80発である。

 第313爆撃航空団のB29群の集結空域は三重県尾鷲市の北部、一方第314爆撃航空団のB29群の集結空域は、滋賀県の近江八幡上空と計画された。
 アメリカ軍の天気予報では名古屋地方ではこの日は高度5千mに高層雲、9千600mに巻雲があり、30%の曇りということであった。しかし、いざ日本本土近くまで来ると、2千600mから9千mにかけて雲の層があり、全曇、つまり隙間がない100%に近い曇り日であった。
 これでは目視照準での爆撃はできない。それで目視爆撃地をそれぞれのレーダー目標爆撃地に爆撃地変更することになった。つまり全てのB29爆撃機が津市市街地を爆撃目標地にして爆撃することになるのである。

 このことは第313爆撃航空団は、第一目視爆撃目標地の津海軍工廠の爆撃を中止し、急遽、第一レーダーによる照準爆撃目標地の三重県津市の市街地を爆撃目標地に変更し、それとともに、第314爆撃航空団の方も第一目視照準爆撃地の名古屋市の三菱工業名古屋機器製作所が全曇のため、急遽、第一レーダーによる照準爆撃地である津市市街地に変更した。
 このことは、第313爆撃航空団所属のB29爆撃機41機の全機、第314爆撃航空団所属のB29爆撃機81機の全機が津市市街地を爆撃することを意味した。

 ここで、津市市街地に投下されることになる2種類の爆弾について述べる。
 ①AN─M─64・500ポンド〔225㎏〕通常爆弾。
 爆薬はTNTまたはアマトール。全長152㎝〔尾部安定板を含む〕。直径は35㎝。
 爆弾筒の厚さは7・6ミリ。爆弾筒外面塗装はオリーブ・ドラブ〔濃い黄緑色〕、先端頭部に幅2・5㎝の黄色の帯状のペイント及び爆弾の重心点に幅6㎜の黄色の帯状のペイントが塗装されている。爆弾筒本体の材質は鋼鉄である。
 ②AN─M─56・2千4000ポンド〔1・8トン〕軽筒爆弾。
 爆薬はTNT又またはアマトール。全長298㎝。爆弾筒の長さは241㎝。爆弾筒の直径は86㎝。爆弾筒の厚さは0・93㎝で鋼鉄製。超大型爆弾である。
 津海軍工廠爆撃用に搭載されたAN─M─64・500ポンド通常爆弾は、100分の1秒延期弾頭信管と無延期弾底信管を付ける。津海軍工廠は計画上小さく、たった5%しか工場が密集していないと言う理由でこの爆弾が選定された。
 このサイズの爆弾は多くの命中が可能なので、ここの工場群の爆撃には適している。100分の1秒延期弾頭信管が選ばれたのは、屋根の下1・8mから3mで爆発するからである。
 これにより爆発と破片により建築物の倒壊、建物内部の破壊が可能である。無延期弾底信管は標的を少しはずれて投下された爆弾に地面での爆発を避けるために選定された。

 愛知県名古屋市の三菱重工業名古屋機器製作所の爆撃に用いることになっていたAN─M─56・4千ポンド軽筒爆弾は超大型爆弾である。この爆弾を搭載したのは、それまで無傷のままになっていた同製作所を爆撃し、壊滅させることにあった。なるべく多量の爆薬を装填するために爆弾筒は薄くする工夫が施されていた。

 第314爆撃航空団のうち2個航空群〔1航空群は20機のB29爆撃が所属〕が、このAN─M─56・4千ポンド軽筒爆弾〔瞬発弾頭信管及び無延期弾底信管を装着〕を搭載したのは、最少の攻撃力でもって最大の損害を標的物に与えるためであった。この製作所の主たる建物は鋸型の屋根で非常に密集しており、この種の爆撃に弱点を持っていた。それで、75%の高装薬重量のあるこの爆弾が選定された。
 というのはこの爆弾は他のどの種類の爆弾よりトン当たり少なくとも25%以上の爆薬を詰めてあるからである。「瞬発弾頭信管及び無延期弾底信管」が用いられたのはこの爆弾の特性によるもので、延期信管は用いられるべきではないと決定された。

一航空群は20機のB29爆撃機で構成されている。1機あたり2発のAN─M─56・4千ポンド軽筒爆弾を2発搭載する〔前後それぞれの爆弾倉に1発のみ搭載する〕。それで、津市市街地に同軽筒爆弾を80発投下することとなる。
 同日、太平洋のマリアナの硫黄島基地のアメリカ陸軍航空隊、第7戦闘機コマンドに所属する37歳のアーネスト・М・ムア准将が率いる第15及びトークス大佐が指揮する第21戦闘機大隊のノースアメリカン「P51ムスタングD─20─NA戦闘機」〔以下P51〕、(ムスタングとは「野生馬」という意)の戦闘機群、第15戦闘機大隊は53機の戦闘機が各務ヶ原、小牧、そして岡崎の飛行場、第21戦闘機大隊は45機の戦闘機が小牧、清洲そして各務ヶ原の飛行場を攻撃せよという命令を受けた。
 午前6時39分に第21戦闘飛行隊が離陸、8時37分に第15戦闘飛行隊が発進した。日本本土に向かう途中、マリアナ諸島の基地から発進した先導役のB29と合流後P51戦闘機群はそのB29に先導されて日本本土に向かって飛行した。それぞれの戦闘機大隊のP51戦闘機は潮ノ岬沖から日本本土に侵入しそれぞれの攻撃目標地に向かって進路を取った。
 その間、先導機のB29は、日本沿岸上空を旋回して攻撃を終了し、硫黄島に帰還するP51群を待つという手順を取った。その日の任務を終えた戦闘機群が帰投のために集結空域に集結後、P51は先導機のB29に先導されて硫黄島の基地に帰投することになっていた。P51が日本本土での滞空時間はおよそ20~60分位だった。予定の集結時間に集結空域に戻らなかった場合は単機で硫黄島に戻らなければならなかった。この飛行は当時のP51にとって不可能に近かった。
 この日のムスタング戦闘機は、潮ノ岬沖で集結後、それぞれの攻撃目標地に向かって飛行するのだが、攻撃目標地のみを攻撃したのではなく、パイロットには「臨機目標」、これはパイロットが臨機応変に攻撃する、というのがあり、行き帰りに「これ」と思った標的を発見した時は機銃掃射をしているのである。7月24日、愛知県や岐阜県に飛行場に向かう途中、津市上空にも飛来したのである。

 P51戦闘機は、武装として左右の主翼にそれぞれ3挺のブローニングМ2=12・7ミリ機銃、合計6挺を装備している。装弾数は1千880発。搭載爆弾は227㎏弾2発か453㎏弾2発、HVAR空対地ロケット弾を6~10発装備した。巡航速度は時速583㎞である。
 津地区はこの日は曇り。午前5時48分、警戒警報発令。午前6時32分に空襲警報が発令された。
 第313爆撃航空団のB29爆撃機群は午前10時27分から10時54分の間に津市市街地に全爆弾を投下した。一方、第314爆撃航空団のB29爆撃機群は、午前10時38分から10時54分に亘って無辜の市民、非戦闘員が生活する津市市街地に全爆弾を投下した。両航空団による無差別爆撃の時間は27分。たちまち津市は有史以来経験したことのない阿鼻叫喚の巷と化した。
 第313爆撃航空団及び第314爆撃航空団所属のB29爆撃機は津市を爆撃後、右旋回し伊勢湾に抜け、全機帰投した。損失機は「0」機である。この日の天候が「全曇」でなかったならば、津市市街地への爆撃はなかったにちがいない。天候さえ良好であれば、第1目視照準地の津海軍工廠と三菱工業名古屋機器製作所が猛爆を受けていただろう。

津市のどこに爆弾を投下したのか 臨機応変に機銃掃射 津市半田から次々に爆撃を開始

 爆撃地点の南端地点は津市半田3247番地の1(旧津市斎場付近、現在のいつくしみの杜斎場の近く)である。AN─M56・4000ポンド軽筒爆弾について確認できる地点は津市半田3247番地の1の旧津市斎場付近で、近くの釜が池を飛び越えての向こう側にあった直系約10㎝のモウソウ竹に破片がつき刺さった。その破片を計測したことがあり、この付近から津市市街地を次々に爆撃したのである。

市街の上空を行くB29

 ▼第21戦闘機大隊による機銃掃射

 45機のP51戦闘機が硫黄島基地から出撃したものの、うち7機が何らかの理由で攻撃せずに途中から硫黄島の基地に引き返している。それで実際にこの日の作戦に参加したP51は38機のみである。P51が愛知県や岐阜県のそれぞれの攻撃目標地に向かう途中で、B29が津市を爆撃する前、爆撃中そして爆撃終了後も津市上空を飛行している。
 その際「臨機応変の目標である」と一般市民にも機銃掃射を加えたのである。
 この日の「爆死者」は爆撃の際の爆弾が原因で死亡したと考えられているが、P51による機銃掃射で死亡した人もいるのではないかと、著者は考えている。機銃弾が頭部に命中すれば、頭部はスイカ割りのように割れるし、腕や足は切断されてもげるのである。腹部に当たれば内臓が飛び出す
威力が機銃弾にはある。
 
 ▼アメリカ海軍第58任務部隊
 
 この任務部隊所属の航空母艦「ハンコック」は潮岬の南南西約210㎞の太平洋上にあった。R・W・シューマン少佐の率いる12機のグラマンF6F─5ヘルキャット戦闘機隊〔VF─6〕が次々と発艦したのは午前5時45分のことである。 この日の主任務は滋賀県八日市市の陸軍八日市飛行場を攻撃することであった。午前8時45分に任務終了後、帰艦する途中で三重県名張市の近鉄「赤目口駅」構内に停車している2両編成の電車を発見し、2機のグラマン戦闘機が電車に機銃掃射した。その後、あちこちで機銃掃射を繰り返し、午前10時35分に全機が「ハンコック」に帰艦した。
 つまりこのグラマン戦闘機は津市市民を狙って機銃掃射はしていなかったということになる。津市がB29の爆撃を受けていたころ、三重県上空にはいなかったことになる。津市民が機銃掃射を受けたという体験談には「小型機」と「グラマン」の2種類あるが、結論としてそれは「P51」だったということになる。
 この日の爆撃で数多の市民が犠牲となっているが、機銃掃射による死傷者は記録や体験談に出てこない。細かく死因を調べている余裕もなく、死亡者がいたとしても「爆死者」として片付けられたのでなないかと推察する。

 ▼小型機、艦載機そして艦上機

 戦争を体験された方々の体験談や体験記に敵アメリカ軍の戦闘機を「艦載機」とか「小型機」と言われたり、表記されたり、色々されている。それで、文言について、少し整理をしてみる。
 「小型機」とは文字どおり小型の戦闘機。三重県上空に飛来した戦闘機は陸海軍機、両方ある。「小型機」も「艦載機」も最初に使用したのは新聞の記事中である。その呼び方が市民の間に流布するようになったと考えられる。
 「艦載機」は航空母艦に搭載された航空機を指して新聞は記事中で使用したものだと思う。しかし航空母艦に搭載された戦闘機は正式には「艦上機」である。日本の零戦は正式には「零式艦上戦闘機」。「グラマン」は社名で、三重県に飛来したグラマン社製の戦闘機は「グラマンF6F─5ヘルキャット」である。 多くの戦争体験者の方々は、ただ単に「グラマン」と呼んでいるようである。
 「小型機」は米陸軍航空隊の「ノースアメリカンP51ムスタング D─20NA」ということになる。「ノースアメリカン」とは社名。新聞が艦載機とは実際どのような飛行機かをよく調べて活字化してさえおれば、「艦載機」とは表記せず、「艦上機」と表記していたと思う。

 ▼P51のパイロットと覚醒剤

 硫黄島から発進する前に多くのパイロットは「アンフェタミン」、商標「ベンゼドリン」と呼ばれる覚醒剤の錠剤を服用した。これは薬理学では中枢神経系興奮薬と呼ばれるもので、日本の覚せい剤取締法ではアンフェタミン(商品名ベンゼドリン)とメタアンフェタミン(商品名ヒロポン)とを指す。
 第二次世界大戦中及び戦後もアンフェタミンは主に欧米の兵士の間で広く服用された。ヒロポンは日本では将兵だけでなく勤労動員させられた学徒の間でも広く用いられた。当時は誰でも簡単に規制も無く手に入った。勤労動員の学徒は眠気を覚ます「ビタミン剤」と称し服用させられた。
 アメリカ陸軍航空隊、第V11戦闘機コマンド、第15闘機大隊、第78戦闘機中隊のP51のパイロット、ジェリー・イエリン中尉の回想。

 「機銃掃射のターゲットは地上で動くすべてでした。日本にあるすべてのものが『臨機応変の目標』だったんです。そこに人がいようといまいと関係ありません。私は飛行機から敵を撃ちまくることに夢中になっていたんです。
 出撃する一時間前に軍曹にいつも興奮剤(アンフェタミン)を渡されました。なんとか気分を高揚させようと飲みました。恐怖に勝たないと敵に撃ち落とされてしまうんです。一度死を意識してしまったら戦闘機に乗ることなどできなくなります。とにかく日本人を殺す。それが任務でした」。ジェリー・イエリン中尉、1924年2月15日生、2017年12月12日没、享年93。

幼い子供も犠牲に 爆撃を受けた市民の証言①

 

空襲に遭った津観音寺の境内

この日の爆撃を体験した市民の証言を次に述べる。

 ▼川北冨美さん、大正7年10月1日生まれ、津市幸町、旧町名は山中岩田、通称山中町。
 「朝起きるといつものように、どうか空襲のないようにと念じる毎日でした。それが昭和20年7月24日の午前、暑い日でした、ラジオのニュースが『宇治山田の上空をB29が編隊を組んで、北上して来ました』と言って、ニュースを聞いているうちに、すごく聞き慣れたB29の爆音です。そのうち『シャーッ、シャーッ』と言う音がしてきました。爆弾の落ちる音です。それが段々と近づき、大きくなってきたので、これはちょっと危ないかなと思って、母と子供二人を『はよう、はよう』と防空壕に入れました。私も夫の位牌を持って防空壕に入ろうと思った時に何処からか3人の女の子が『助けて、怖いわ、怖いわ』と私に抱きついてきたのです。
 防空壕がとても小さかったので、とても入れないのです。3人の子供はとても入ることができませんでした。私は3人を並んでうつ伏せにして地面に寝かせ、私が嫁入り道具に持ってきた厚い布団を2枚重ねてその子供たちに上にかぶせました。急いで私が防空壕に飛び込むと同時に「ドカーン」という雷が2つ3ついっぺんに落ちたような音がして防空壕が埋まってしまいました。
 これは大変だと思うと同時に、危ないからと防空壕の中で頭から布団をみんなかぶっていたものですから、そのまま埋まってしまったので座っていることもできず、義母は「手が切れた」と言うし、子供たちは「怖いわ、怖いわ」と泣き、私も一緒に泣いていました。
 そのうちに密閉しているので、息苦しくなり、少しでも空気を入れなければと、幸いスコップを入れてあったので、ちょっとずつ土を掘り、隙間から外を見たら、真っ暗で何にも何が何やら見えない本当の暗がりで、私は下敷きになってしまい、いよいよ助からないなあと思いました。
 しばらくすると、人の話し声がして「川北さんとこ3人とも死んどるわ」と言っているので、ああ、これは助けてもらえると大声で「助けてえ、助けてえ」と叫びました。外はとても明るく、暗かったのは爆弾の煙でした。
 やっとのことで、消防団の人に外に掘り出して助けてもらって外に出たら、大きな2階建ての我が家がぺちゃんこになっていました。義父が家に残っていると言うと、「どこや、どこや」と叫びながら捜していたら、義父が大きな柱に挟まれて身動きもできず、「痛い、痛い」と泣き叫んでいました。やっとのことで助けてもらいました。
 布団を被せてあげた3人の子供たちは「どうしたのかな」とよう見たら、布団がズタズタに千切れて中の綿が一面雪のように散らばっていました。3人の子供の一人は、大きな子は片足がちぎれ、また一人は頭が上半分はパクリと割れて中から脳みそが出ていました。一番小さい子どもは内臓破裂で三人とも即死でした。みるも無残でした。 また、わが家の南側のお宅は屋根瓦が吹っ飛び、柱だけ残りガラガラの家になっていました。その家の赤ちゃんが死亡しました。斜め向かいのお宅は爆弾の直撃で、家も庭木も庭石もみんな何処かへ飛んで行ってしまい、まるで掃いたようにきれいになっていました。 また爆弾で倒れた家は見るも無残で、太い柱まで全部折れ、また爆風で畳から床板まで全部跳ね上がって、手が付けられなくなっていました。逃げる途中の道には、人の手や足が転がり、苦しそうに叫ぶ人を見ました。みるもとても無惨でした」。〔著者注、この3人の犠牲者は、日出子ちゃん5歳、久美子ちゃん7歳、和子ちゃん8歳と思われる〕。

 ▼森六雄氏(当時29才)=同氏はこの日、救護班員として、いち早く津市の市街地に負傷者救護のために入った。以下は同氏の証言。
 「私は高茶屋の海軍工廠の医務室に勤務していました。津市が大変なことになっとる、ということを聞き、医務室の医師、看護婦ら全員で救護班を結成して、津市内に入りました。
 JR「阿漕駅」の東のところに、憲兵隊の詰め所がありました。その詰め所の前の地面近くの樋の出口のところから真っ赤な血がぽたぽたと落ちて来ていました。なぜだろうと不思議に思いました。それで上の方へ視線を移して信じ難い物を見ました。屋根の先と樋の間に10才くらいのおかっぱ頭の女児の頭部が引っかかっているんです。その光景にしばし呆然としました。「なんということに…」。
 それからこの近くで、埋没してしまっている防空壕を救護班員全員でスコップを使って掘り起こしました。6~7歳くらいの子どもが数人生き埋めになっていました。ぜんぜん傷は負っていませんでした。一人ひとり人が抱きかかえて外に出しました。しかし、全員死亡していました。救護班の誰かが、『おまえらは、本当にかわいそうや。今度生まれてくる時は、もっと良いところへ生まれてきな』と子供たちに言葉をかけました。
 養正国民学校(当時は津市丸之内にあった)の校庭には累々たる死体が横たわっていました。また講堂の中には多くの血まみれの死体、負傷者で口では言い表せない惨状となっていました。5歳くらいの男の子の右足の甲から先が爆弾の破片で吹き飛ばされて、無くなっていました。『お母さん、痛い、痛い』と叫んでいましたが、母親は座り込んでしまって、ただ泣くだけでした。
 この日は救護班の人と市内を救護に奔走しました。行く所、行く所、ひどいものでした。桜町(現在の丸之内養正町)のわが家の両親のことが心配でしたが、救護活動でそれどころではなく、この日には行けませんでした。どうにか翌日に戻りました。不安が的中しました。我が家は完全に焼け落ちていました。見る影もありませんでした。我が家の土間には父が作った防空壕がありました(幅約1m、深さ約1・5m、長さ約2mの縦穴に畳3枚を敷いてあった)。父と母はその中で、黒こげになって焼死していました。私は父母の遺体を防空壕から出し、焼け残った材木を集めて荼毘に付しました。
 丸一日かかりました。遺骨を入れるものが無かったので、仕方なくバケツに入れて持ち帰りました。父61歳、母51歳、私が29歳の時のことです。後日、巡査さんが膝の上で『戦時罹証明書』を書いて私に手渡してくれました。昭和20年7月27日、三重県津市長 掘川美哉となっています」。
 これは筆者が1996年3月19日、丸之内養正町のご自宅でご本人から直接聞き書きしたものです〔著者注、防空壕での犠牲者は、ある記録によると、明夫ちゃん2歳、幸夫ちゃん4歳、温子ちゃん7歳、治夫ちゃん9歳、允彦さん11歳、次郎さん13歳、安治さん15歳、千代さん43歳、家族8人爆死とある〕。
 この日、森六雄さんら救護班員が防空壕からスコップで掘り出したのはこの家族8名であろう。千代さんはこの子供たちの母親であったと思われる。
 ▼浅野喜代さん、大正10年生まれ、爆撃に遇った場所、津市万町塔世馬場、近鉄伊勢線新地駅、貨物線ホーム敷地内の防空壕。
 「7月24日晴れ。午前11時ごろ昼食の用意、もちろん代用食。その時、空襲警報のサイレンが不気味な音で鳴った。すぐ火を消し非常用持ち出しリュックを持ち防空頭巾をかむり、防空壕へ急いだ。リュックの中には預金の番号と先祖の戒名そして僅かの食料衣類等が入れてあった。「新地」の駅は割合広く、貨物のホームもあり、近くには日通の倉庫もあった。わが家の防空壕はその片隅につくらせてもらっていた。そこへ入ったとたん、思い出してもぞっとするB29からの爆弾、ヒュウーヒュウーと音がした。もうその時には私方の家は無かった。その後の爆風で、壕の屋根がとび土ぼこりが入り、胸が圧迫され苦しく駄目かと思い、皆んながうなりながら外へ出た。
 他の人のことは何もおぼえていない。そんな余裕がなかった。防空頭巾はぼろぼろ、モンペは膝が破れ血が出ていた。立膝をしていたので、爆風で木の破片がささりざっくりと口があいていた。痛いどころではなく、怖さのほうが先にたち、どこをどう歩いたのか安濃川塔世橋の東側にいた。川は濁り、壁や柱が流れ土色をしていた。しかしその水で口をゆすぎ、口の中のじゃりじゃりをなくした。その時少し血をはいた。
 その後、塔世橋東側に橋亀という旅館があって、そこが救護所になっていた。町内の人に荷車にのせてもらいそこへ行った。今の看護学校、当時の私立病院(現在の三重大学医学部附属病院の前身)、そこも爆撃をうけ、軍隊が出動してぞくぞくと患者が運ばれてきた。有名だった小児科の部長さんの鷲尾先生もやられた。
 …先生もやられたと口々にいっている。患者がぞくぞくと運び込まれ、ガラスの破片の飛び散った上に寝かされていた。「水をくれ、水をくれ」と叫んでいた。どうせ助からんのだから飲ませてやれという声が聞こえていた。
 「もう死んでいる」という声、「痛い、痛い」という声、うなる声。生き地獄とはこんなことをいうのだろうか、私も生きた心地がしなかった。私は軽い方で、ただ赤チンをつけてもらっただけ。もっとも救護所には十分な薬はなかった様だ。
 主人が会社から帰り、家の前に私の着物をかぶせた女の死体が2体あったという。顔が見わけられない程だったそうで、おそるおそるあけて見るとどうも年齢が違う様だったので安心したそうだ。その方は道を隔てた家のお母さんと娘さんだった。壕に入っていて爆撃にあい、怖かったのでやっと這いあがり、そこで亡くなられたと想像する。近所でも壕の中で亡くなられた方が、四、五人おられた」〔参考文献…『私たちの戦時・戦後』津歴史散歩会 1995年7月〕。
    (次号に続く)

 岩田川下流に掛かる国道23号の岩田橋から西へ向かって300m程の道路沿い(百五銀行本店営業部から三重刑務所間)には10本ほどの柳の木がまばらに植えられている。かつては、見事な柳並木道を形成していたが、寿命を迎えたり台風で折れたりと徐々に数を減らしている。しかし、元々は市民や近隣企業などが一丸となった環境美化活動の産物だった。薄れつつあるまちの記憶にスポットライトを当てていく。

 柳のことを語るには、昭和の終りへと遡る必要がある。当時は下水道が未整備で、岩田川には家庭からの汚れた生活排水が流れ込み、川底にはヘドロが堆積、更に岩田橋付近には、自転車や家電製品などが投げ込まれ、干潮になるとその姿を晒すことから市民からは「自転車の墓場」と呼ばれていた。この惨状に胸を痛めたのが、小さな頃より川を遊び場にしてきた大谷明さん。現在では、伊勢国の特産品である木綿と畳表を組み合わせたヒット商品「足やすめ 安濃津ばき」の開発と販売で知られる大谷さんは、平成元年より単身で自転車の回収を始めた。その活動が地元紙などで報道されたことによって市民、団体、企業、津市なども清掃活動に参加。市民ぐるみの岩田川浄化運動に発展していた。
 翌年には津青年会議所(津JC)の人間開発委員会が岩田川清掃活動に参加すると同時に、ふるさとの川に親しむことを目的に「岩田川筏下り大会」と、観音橋から川に笹飾りを流す「つ七夕笹流し」を始めた。岩田川の浄化活動に継続的に取り組んでいくためにJCの活動から独立し、同委員会の委員長だった加藤広文さんを会長に「岩田川を筏で下る会」を設立。平成6年に「岩田川物語の会」へと改称した。
 その活動の一環として植えられたのが件の柳で、平成10年と11年に植えられたもの。原資は、阿漕浦の友の会との協働で募った市民・企業などから一口5千円の浄財と、三重県環境保全事業団からの助成金10万円を加えたもの。現在の百五銀行本店営業部と三重刑務所間の道路沿いに4m間隔で7年生の柳67本を植えた。夏場の給水、剪定作業、間引きなどは同会が行い、下草刈りなどは天理教津大教会の青年部も協力した。10年間ほど同会が剪定などを行っていたが、地元自治会からの申し出で管理を引き継いでいる。
 10年ほど前までは、河畔を彩る美しい柳並木を形成していたが、2017年の台風で3本が倒れて道路をふさぐなど、近年減り続け、現在は10本までに減っている。
 その理由と考えられているのは、柳の寿命。カミキリムシなどの害虫や病気によって、実質的な寿命は30年ほどと短命で、並木を維持させるためには木を長持ちさせるよりも、定期的な植樹が効果的。また、柳が植えられている場所は堤防と道路までの幅が2~3mほどしかなく根が十分に張れなかったのも倒れた原因と見られる。残った10本のうち2本は既に立ち枯れしており、堤防を管理する県によって伐採される予定。
 いずれ残りの柳も寿命を迎えて姿を消していくことになるため、加藤さんは「とても寂しい」と素直な気持ちを打ち明ける。
 しかし、今やまばらになった柳並木は市民の想いが形になり、岩田川の水質や周辺環境が改善した歴史の証でもある。それは昭和、平成、令和、そしてこれから…。どれだけ時を経ても、変わらないまちづくりの本質を示す道標であり、未来へと受け継がれるべきまちの記憶といえる。

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